4.ベヒモスの祝福
シルワ大聖堂には所々、命の芽吹きを感じる場所がある。しっかりとした壁に守られていながら、まるで樹海の中にでもいるかのような気分になるのは、きっと壁中が植物で覆われてしまっているからなのだろう。
さらに、大聖堂の半分ほどを飲み込んでいる大樹の根や枝が建物の壁や床を突き破っているあたりも、その印象を強める原因となっていると思われる。不安になったので念のために角人戦士たちに確認したのだが、大樹が支えてくれているので倒壊の恐れはないらしい。
それなら安心していいだろう。今はただこの素直にこの雰囲気に酔いしれてしまおう。
思い返せば、ジズの祝福は天空にいるかのような神聖さを全身で味わった。同席していた鳥人たちは皆、古より教会が語り継いできた天使の姿のようであり、その天使たちに見守られる〈金の鶏〉たちは、清廉潔白な天界の住人たちのようだった。
きっと美しいという記憶が増長したのだろう。そうは思うのだが、やはりいいものだったのは確かだ。そして、今、私は聖ティエラ礼拝堂にて似たような感動を味わっていた。
緑に包まれた堂内には、何処からか冷たい風が吹いている。聞こえてくるのは祝福の儀に参加している角人たちの蹄鉄の音だ。身じろぎするたびに、決して耳障りではない音が響く。歌うたびにルーナが目を輝かせて見つめる聖歌隊の構成は、〈果樹の子馬〉や角人ばかりで、男性もいるが女性が多めだ。聞こえてくる声はイグニスやカエルムで聞いたものとはまた色が違い、軽快さが強調されているように思えた。
謳われる唄は、ベヒモスを讃える唄がほとんどだが、これまでとは違い、〈赤い花〉の聖女を祀る唄も割り込んでくる。リリウム教会ならではの聖母子の唄、救世主の唄、神の慈悲を願う唄もあったが、それらは何処か浮いた印象があった。それはきっと、言語がイリス語とアルカ語であったからというだけではないだろう。イリス語の聖歌が奏でられる時だけに聞こえてくる音があるのだ。カエルムで猛禽の甲高い声がかすかに聞こえたのと同じように、何かの嘶くような声が何処からともなく聞こえたのだ。響き渡る蹄の音も、もしかしたらこの場にいる角人だけのものではないのではないか。少しだけ、そんなことを思ってしまった。
歌がやんでも礼拝堂の神聖さは全く薄れない。
ベヒモスが祀られている祠の前では、身なりを整えた愛らしい〈果樹の子馬〉の女性が目を細めている。見つめているのは目の前で跪く海巫女ブランカの姿。そう、その〈果樹の子馬〉の女性こそが地巫女グリスである。隣にはここまで案内してくれたフィリップがいる。相変わらず面をつけており、その表情は分かりづらい。それだけに、彼の姿は幼き妖精の女王に寄り添う一角獣の戦士のようだ。
ならば、ここは妖精の王国とでもいうべきだろうか。単純な形態の人間が圧倒的に少ないこの空間を見る限り、そうだとしても頷けるような非日常さはあるものだ。いつもは圧倒的多数であるただの人間は、この場にはブランカとゾラ、ゾロのほかはほんの少数しかいない。祭儀に出席しているあらゆる人物を見ても、誰もが何かしらの魔の血を持っているようだった。見た目は人間のようであっても、人間ではない。そうしたものが本当は多数派なのだとしても、それがはっきりとするようなことは、今のところないだろう。
祭儀が進み、グリスの愛らしい声が響く。
「大地を統べる者ベヒモスは、生き物全てに命じた。『混ざれ、そして、栄えよ』と。そして、三人の花嫁を前に祝福のために嘶いた」
そこでまた、あの嘶きと蹄のかすかな音が聞こえた気がした。
「『希望と共に運命を見つめよ。そなた達の傍には我らの子が寄り添うだろう。昼夜が繰り返すように、生と死を繰り返す。しかしそれは絶望ではない。耐え続け、待ち続けるがいい。大地はすべての生き物たちのための場所である』と」
淡々と語るグリスの姿は、愛らしい外見に似合わず、とても厳かな雰囲気があった。同席している他の〈果樹の子馬〉たちとは全く違う。ブランカの雰囲気が他の人間たちと違うようなものだ。外見的特徴に表れているものではなく、まとっているその雰囲気そのものが全く違う。ネグラやグリスも同じであるようだ。とくに、身なりを整えた祭儀の格好はうっとりしてしまうほど美しい。
しかし、今日はどうもこの雰囲気に飛び込み切れない引っかかりもあった。気になって仕方がないことがあるのだ。カリスはどうしているのだろう。カエルムはどうなっているのだろう。集中できない意識は飛び続け、やがて、脳裏に数字を生み出す。数唱は不吉な癖だ。殺伐とした暴力的感情から自分らしさをせめて守ろうと願う時に現れるものだ。平穏を願う時には封印しておきたいものである。
それでも、浮かんでしまうものは仕方がない。せめて、頭に浮かぶ数字を目の前に見える光景に被せて誤魔化そう。燭台の数、長椅子の数、蔦についている草の数、人の数、男の数、女の数、子どもの数、シルワ大聖堂の周辺に感じる気配の数、武人の数、武人でない者の数、ここに来るまでに過ごした夜の数、カリスと別れてから過ごした日の数、カエルムの現状が分からなくなってから、何日経ったのだったか。
「ベヒモスの祝福があらんことを」
そう告げるグリスの姿にネグラの残像が浮かび上がる。カエルムで元気に過ごしているだろうか。鳥人たちは無事、ゲネシスの進行を止められただろうか。それとも、今、まさに戦っているところなのだろうか。
ソロルさえいなくなればそれでいい。しかし、カリスもいない今、少なくとも私はソロルがどこで何をしているかさえも分からない。ウィルは、カルロスは、何か手がかりを掴んだろうか。リリウム教会の諜報役たちは、何か見つけてくれただろうか。
結局、ろくに集中できないまま祝福の儀は終わってしまった。あっけないものだ。神秘的な空気を胸いっぱいに吸い込めたらどんなによかっただろう。しかし、残念ながらそうはいかなかった。私の期待は未来にしかない。カエルムのこと、ゲネシスたちのことについて、新しい情報が手に入ることばかりを期待している。
解放された後、相変わらず誰もいつかない客間より出て散歩をしてみた。何かあればすぐにカルロスから声がかかるはずだ。しかし、何もない。カリスの気配もしない。ひどく落ち着かない気分のまま、私はシルワ大聖堂の廊下を歩いた。
着いた先は回廊に存在する〈赤い花〉の石碑だった。もっとじっくりと見たい。そんな思いに引っ張られた結果だ。刻まれている文字の一つ一つに興味があるわけではない。その存在そのものに興味があった。それに、指輪がこの場所に来たがっている気がしたのだ。かつての相棒がここで祀られている。指輪にもしも心があるとしたら、何を思うのだろう。
知らず知らずのうちに手を伸ばしていると、ふと近くで聞き覚えのあるはしゃぎ声が聞こえた。ルーナだ。すぐに分かった。何処に行っていたのだろう。
視線を向けてみれば、簡単に見つけられた。話している相手は同じような雰囲気の者たち。〈果樹の子馬〉たちだ。子どもに見えるが、大人の可能性もある。彼らが大人として扱われる年齢は七歳くらいとかなり低いが、その代わり、五十年以上にもなる寿命の中で目立った老いがみられず、いつまでも子どものような姿をしているらしい。したがって、彼らは妖精のようだと形容される。
それでも、ルーナと親しそうに話す彼らが大人であることはすぐに分かった。なぜなら、ルーナの隣で袖を手に当てて笑っている女性に見覚えがあったためだ。地巫女グリス。他ならぬ彼女が、ルーナと何やら話をしていた。
「あれ、アマリリス! やっぱりそこにいたんだ!」
畏れ多くも地巫女との話を中断してルーナは私の元へと駆け寄ってきた。その行動に周囲は一瞬だけ動揺を見せたが、グリスだけは微笑ましそうに見送るだけだった。彼女の温厚そうな性質に感謝しよう。
「グリス様とお話ししていたの。カエルムの昔話もお話しくださったの」
嬉しそうに報告してくる我が隷従を撫でながら、私はそっとグリスの表情を窺った。彼女の温厚さにぶれはない。それを確認してから、改めて頭を下げた。
「……貴重なお話、有難うございます。まさかグリス様がお相手くださっていたなんて」
「気にしないで。わたしから話しかけたのです。それに、ルーナさんにも貴重なところを見せていただきました。〈金の卵〉が変身するところなんて、なかなかみられるものではありませんわ」
その声は、まさに鈴を転がすようだ。年齢は分からないが、いかに七歳で大人扱いされるという話であろうと、地巫女に限ってはリリウム教会の掟により他の巫女同様、二十歳になるまでは生まれ里で静かに育てられると聞いたことがある。したがって、ここにきて数年ということを考えれば、彼女もそれなりの年齢ということなのだろう。
だが、改めてグリスの姿を見ると、本当にそうなのかと疑ってしまうような外見だった。この世の愛らしさを詰め込んだような姿。木霊と呼ばれる種族は世界各地にいるものだが、〈果樹の子馬〉、とりわけ、地巫女グリスのような不思議な魅力を宿した者は、なかなかいない。カエルムのネグラや、共にイムベルへと向かうブランカとはまた違う存在感が彼女にはあった。
「グリス様に褒めてもらっちゃった。角人の真似が上手って」
「角人の真似?」
「うん、見ててね」
そう言って、ルーナは少女の姿を崩し、四本足の角人の姿へと変わった。ご丁寧に馬面のマスクもつけている。きっと聖戦士を真似たのだろう。
肌こそはいつものように白いが、馬体や鬣、マスクの色が漆黒であるのは、ルーナの本来の体質のためだろうか。それにしても、確かに立派なものだった。短い滞在期間内によく観察したものだと感心してしまう。二本足ではなく四本足であるところも、ルーナの可能性を感じずにはいられない。
「本当に素晴らしいわ。角人の女性そのものだもの」
グリスが私と同じく感心している。地巫女の素直な感想に、侍女たちもそれぞれ同意の意を見せている。褒められているのはルーナなのだが、なぜだか私まで誇らしいほどだった。
「ルーナさんとお話をして、カエルムのご様子が聞けて楽しませていただきました。こんなに活き活きとお話しくださる方は久しぶりで、なんだか嬉しかったのです。……それだけに、今、カエルムがどうなっているのか。心配でなりません」
ふと浮かぶ表情の陰りを私は見逃さなかった。いまだに返信がない。いつもならば影道の人狼や同じような手を使う翅人に吸血鬼の一種、さらには鳥人自らが空を飛んで便りを運ぶというが、カエルムとのやり取りは途絶えたままだという。
イグニスとのやり取りは良好だが、やはり向こうも向こうでカエルムとの連絡が取れないと悩んでいるらしい。大聖堂はどうなっているのか、カリスはどうなったのか、ゲネシスを止めることはできたのか、様々な不安が渦巻く状況で、グリスは幼い容姿に苦悩の表情を浮かべていた。
「向こうはきっとジズがお守りくださるはずと信じております。ベヒモスもそのような言葉を下さりました。この世はなるようにしかならない。わたしはただ、信じてこの場で祈り続けるしかないのです」
「角人聖戦士たちはどのようにお考えなのでしょうか」
それとなく確認してみれば、グリスはさらに暗い表情で遠くを見つめた。
「何事にも動じず、迎え撃つだけ。フィリップがそう申していました。彼は武人なのです。尊い聖獣の血に誓い、悪を打ち滅ぼすことこそ正義だと信じている方々。そのもっとも濃い血を引く者だけが、花嫁守りの中でも最も尊いレグルス聖戦士に選ばれるのです。わたしとは根本的に違うのでしょう」
寂しそうな声だった。純粋に距離を感じているのだろう。現状がどうなっているのか、未来がどうなるかが全く分からない今、神のご加護とやらを信じて戦うしかない角人たちと、祈るしかない地巫女の気持ちを考えると、全く他人事とは思えなかった。
いつの間にか少女姿に戻っていたルーナが、心配そうにグリスを見つめている。そんなルーナの頭をそっと撫でてやりながら、少しだけ、ここを立ち去った後のことを想像してしまった。
カエルムで何が起こったのか、シルワに何が待ち受けているのか。止められない流れを感じると、鳥肌が立ってしまう。




