9.カントル館にて
ウィルはずいぶんと首を長くして待っていたようだ。
それもそうだろう。大事な時に自分だけが立ち入れない。そんな状況下で、ただ待つことしかできなかった彼には同情してしまう。
ただし、どんなに時代が進もうと、ベヒモスやリヴァイアサンの血を引く者はカエルム山に登れない。ジズの怒りを買うから入らないのではなく、そもそも聖域の境界で拒否反応が出てしまうものなのだと聞いていた。それが本当かどうかまでは私には一生分からないことなのだが。
ところで、モルス教会にいる間、ウィルは相当よくもてなされたようだ。レグルス戦士の立場というものは、たとえ己の先祖の地ではなくとも高いものなのだろう。
だが、レグルス戦士だけが尊ばれるわけではない。リリウム教会内において、ミケーレ隊長やラビエル医師もまた同じように尊ばれているものであるのだとか。イムベルにも彼らのような立場の者がいるのだろう。
たどり着きさえすれば、それだけ守護は厚くなる。そう思えば少しは気が楽だ。いかに縁者を得た死霊であろうと大勢の聖獣の子孫、それも、知性も力も備わっているような戦士たちがそろった状況から巫女を狙うことは困難だろう。
だから、この不穏もイムベルまでの辛抱……のはず。
そうは思うのだが、何故だろう。すっきりとしないものが残っていた。
心に遺物が紛れ込んだ理由は、ジブリールに過去の話をされたからだと思われる。全ての巫女が死霊にやられてしまった歴史がある。縁者を得た死霊はそれほどまでにまずいものだと言いたいのだろう。
指輪を返した後の魔女の行方については、今は少し目を瞑っておきたいところだ。
ただ、過去の反省を生かすためにも、最後の賭けに出たカリスの報告は重要であった。
そのため、カントル館の客間で一人寂しく疲れを癒しているときでも、一匹の人狼の気配を感じるなりすぐに緊張感は戻ってきた。
「カリスね?」
期待通りの姿が客間の端に見える。影の中より這い出すと、そのまま人の姿に変わり、座り込んだ。壁に寄り掛かり、無表情のまま床を見つめる。疲れているらしい。だが、体力的な問題だけだろうか。表情を目にして、私は口を噤んでしまった。
しばらく深呼吸してから、彼女はようやく口を開いた。
「説得が終わった」
それは今までよりもさらに悲痛なものを含んだ声だった。多くを語らずとも、その結果は悟ってしまう。
「これで終わりだ」
カリスは力なく言う。
「奴らはカエルムの都にたどり着いた。予定通り、山に登る。入山規制をしているそうだね。……だが、すり抜けるだろう。そんな自信をソロルから感じた」
「それで、どうするの?」
「奴の名を伝えるのは簡単だ。だが、それでいいのか。……聖山を血で穢すことは許されている。リリウム教会は睨むだろうが、ジズの古い教えでは間違ったことではない。だが、きっと私の心は死ぬだろう。次にここを去った後……私のこの執着も終わる。この手で、終わりにしてくる」
淡々とした言葉は聞いていて不安になる。だが、彼女がやるといったからには、どう止めようとも意味がないだろう。
結局、薄々と予感していた未来に落ち着いてしまった。多くの者はだから言ったのにと言うだろう。だが、私は何も言えない。なぜなら、目の前でカリスが落ち込んでいるからだ。その姿を目の当たりにして、どうして文句が言えるだろう。
「すまない」
だが、私が何も言わずとも、カリスは自ら詫びた。
「すべてが私の願望に過ぎなかった。お前の言うとおり、こんなにも情がわく前に告げ口した方がまだ楽だったのだろう。……しかし、後悔してももう遅い」
「彼との関係が終わろうとも、あなたには未来があるわ。リリウム教会で生きていくのでしょう? これから正しく振舞えば、私の餌になる未来なんてないはずよ」
「――そうだな」
静かに同意し、カリスはまたしても俯く。その姿は彫刻のようだ。動くことも辛いというのがよく分かる。一つ呼吸を置いて、彼女は唸った。
「何もかも空しい夢だったんだ」
「夢?」
尋ね返すと、カリスは感情の伴っていない微笑を浮かべた。
「お前は言ったな。愛しているのかと。……ああ、きっと、その通りだったのだろう。奴はこれまで出会ってきた人間と違った。純血の人間で、聖戦士という立場にありながら、私のような卑しい者の話を興味深く聞く男だ。共に夜を過ごし、互いの話もした。それで、少しは通じ合っている気になっていた。……だが、そうじゃなかった」
カリスは震えながら言った。
「最初から、私と奴が共に生きられるのはあり得なかった。私の説得など彼が聞くはずもなかったんだ」
「どうしてそう断言するの?」
「……なぜなら、彼は――彼の愛妻は……人狼に食い殺されていた……からだ」
その表情、その様子。カリスが最後に試みた説得がどう失敗したのか、私は察した。
カリスは人狼だ。だが、その男の妻を殺したわけではないだろう。それでも、人狼は人狼だ。遺族にとってみれば、人狼というだけで同じなのだろう。
カリスはエリーゼやルーカスを死に追いやった過去の私と今の状態の私とを一致させない。だが、そんなものはカリスが特殊だということに他ならない。こんな思考の者は、そんなにいるものではないのだ。
通常は恨むだろう。恨んでもおかしくはない。熊に大事な家族を殺されれば熊という種を嫌ってもおかしくない。敵意もなく、何もするつもりもない熊が近づいただけでも、激しく憎しみをぶつけたとしてもおかしなことはない。
おそらく、そういったことを彼女は感じる羽目になったのだ。いや、ひょっとしたら、彼女の身にそういったことが起きたのだ。これまでずっとひた隠しにしてきた本心からなるもの。多少のことでは揺るがない強固なものを感じる羽目になってしまい、そう理解したのかもしれない。
俯くカリスの目に大粒の涙が見えた。私はなんと言葉をかけるべきなのだろうか。
「奴は人狼を憎んでいる。憎んでいながら、私と話していた。退屈しのぎだったのだろう。愛妻の死の記憶が薄らいだためか、悲しみや恨みという感情が死にかけていたためか、それは分からない。おかげで、私と彼は知人にはなれていたもしれないな。……だが、きっと、友人にさえも私はなれていなかったのだ。奴は私を蔑んだ。人を食うケダモノの私の存在を……奴は認めない。認めてくれない」
ひどい失恋をしたものだ。聞かされるこちらまで揶揄う元気がなくなるほどに。
「これまでは我慢してきただけだった。奴は私よりも死霊を選ぶ。当然だ。死霊は愛する女の姿をし、甘い言葉を囁いている。私はその愛する女を奪った人狼の一人。……笑ってくれ。私は、こんな執着のために、とんでもない無駄な時間を過ごしてしまったのだ……お前たちに迷惑までかけて……笑ってくれ……罵ってくれ」
「――笑わないわ。罵りもしない」
笑うことができない。ちっとも面白くない。
カリスに抱いているこの感情は、単なる同情ではないだろう。本気で悲しみ、覚悟を決めるカリスの姿は哀れだが、同時に腹立たしかった。サファイアの夫とやらは、私が本気で惚れこんだ狼を骨抜きにしてしまった。牙抜きといった方がいいだろうか。
もちろん、魔女の性が健在なら、今こそがカリスを手に入れるチャンスだと判断しただろう。しかし今や私は指輪を持つ者。魔女の性がない以上、カリスの弱い部分を見せられるのは悲しかった。
そう、悲しかったのだ。こんなにも辛そうな女としてのカリスの姿を見せつけられることになるとは思わなかった。こうしている間にも、時間はどんどん進んでいく。世界が、何か、とても嫌な方向へ傾き始めている気がするのだ。その不安が、切なさになっている。
今までの当たり前が狂っていく。カリスの涙を見ていると、そう実感してしまう。
「……すまない」
カリスは震えた声でそう言った。
「ともかく、説得は終わりだ。カエルム大聖堂に向かうまでに、私が止める。悪いが、お前から鳥人戦士たちに伝えてもらえると助かる。しばらくは私に任せてほしい。だが、私が失敗したときは、ただちに粛清してほしい。ジズの子孫ならば、いくらアルカ聖戦士でも敵わないだろう」
「カリス。何もあなたが危険を冒してまで――」
「いいや、させてくれ。私の気配が今度こそ、目印にもなるだろう。これで最後になるかもしれない。だから奴の名前も伝えておく。今伝えたところで、私を追い越せやしないだろうから」
「……ええ」
しぶしぶ承諾すると、カリスはほっとしたように笑い、そして言った。
「奴の名は、ゲネシス。フルネームは分からない。武器は聖剣。種類までは分からない。チューチェロとイグニスで暮らしていたことがあるらしい。カンパニュラ出身のアルカ聖戦士で、純血の人間。元々は孤児であったが、カンパニュラの学長に保護されたという過去があると聞いた。黒髪と黒い目の美しい青年だ。ここまで言えば、きっと特定できるだろう……」
ゲネシス。チューチェロとイグニス。カンパニュラ出身。アルカ聖戦士。黒髪に黒い目の青年。それらの情報が頭に刻まれる。
――ゲネシス。
その名前を反芻し、身震いした。アルカ語で「誕生」を意味するはずの言葉だ。それだけに不気味に思ってしまった。こういう状況だからだろう。カリスが彼に魅了されているように思えるところも不気味さの原因だ。
人狼女の心をつかんでしまったつれない青年ゲネシス。彼は今、偽りの妻の隣で何を思っているのだろう。
「ゲネシス。カンパニュラのゲネシス。孤児だった過去のある純血の人間。チューチェロにイグニス、アルカ聖戦士で聖剣使い、黒髪の黒い目の美しい青年。それに、シトロニエで死没したジャンヌの知り合い。ほかには何かない?」
姿の見えぬ相手、それもコックローチが語ったような疑惑ある相手だからだろう。知ることが防衛のようだった。出来るだけ情報を集めなければ、恐ろしくて仕方がない。
カリスはしばし沈黙し、そして思い出したように口を開けた。
「グロリア」
その名をぽつりとつぶやいた。
「グロリアという人間の女と話していた。イグニスの都にてゲネシスと親しげに語りあっていた旧友の名だ。彼女もまたアルカ聖戦士。ジャンヌとも知り合いのようだった。そうだ。彼女のことも特定すればいい。栗色の長い髪をもつ女だ。学園の思い出話をしていたから、きっとカンパニュラ出身だろう。私が失敗したとしても、彼女ならばゲネシスに近づけるかもしれない」
グロリア。栗色の髪の女性アルカ聖戦士。どれもありふれた名前だが、ゲネシス、ジャンヌ、グロリアの三名とカンパニュラ出身、アルカ聖戦士という情報で結べばすぐに特定できるだろう。
ウィルに伝えなければ。カリスが失敗したときの保険だ。
――失敗……。
その可能性をふと意識し、気持ちが暗くなった。最後の接触にカリスが失敗するとき。それはきっと、カリスの死を意味する。私にとってはよくある別れだ。桃花との別れこそ辛くて仕方のない思い出だったが、人狼やそれ以外の種族との別れは何度も経験してきた。死は悲しいことだが桃花の時とは比べ物にならないほどあっさりとしていた。
しかし、何故だろう。カリスの死を意識した途端、気持ちが落ち着かなくなった。ルーナに何かあったらという悪い想像をするときとも違う。たとえるなら、ニフテリザに悪いことが起こったらと考えた時のようなものだろう。
これまで何度も恐れてきたことだった。指輪をはめて長い時間が経って、とうとう私はカリスの死をはっきりと恐れるまでに慣れ合ってしまったのだ。
「どうした、顔色が悪いな。恐れているのか」
表情に気付いたのか、カリスは揶揄うように言った。
「安心しろ。私にだって人狼のプライドがある。ゲネシスを殺して見せよう。そうすれば、聖戦士どもも戦いやすくなる――」
「……行かないで」
それは自分でも驚くような言葉だった。まるで言葉が勝手に意思をもって飛び出していったかのようだ。一度、顔を覗かせてしまった気持ちはすぐには消えず、切実な思いが確かに自分の胸にあるのだと意識せざるを得なかった。
何故。カリスは私の獲物だったはずなのに。どうしてだろう。プライドと動揺に挟まれて気が気でなかった。そんな私にカリスは訊ねてきた。
「何故そんな事を言う」
何故。それは私が聞きたいほどだ。しかし、答えにつながるような感情も、私は自覚していた。
「行けば、あなたはきっと生きて帰ってこない」
「そうだな。無事にゲネシスを八つ裂きにしたとしても、ソロルは黙っちゃいないだろう。私の役目はゲネシスを殺すことだけだ。あとは聖戦士たちに任せる」
「生きて帰ってきてほしいの」
感じたままにそう言えば、カリスはしばし黙ってしまった。当然だろう。今さら何を言っているのかと自分でも思う。カリスは獲物であり、私は捕食者。これまでさんざん追いかけ、追い詰め、仲間までを殺してきた私が、生きて帰ってきてほしいなんで言ったところでその言葉は響かない。
案の定、カリスの警戒心は増すばかりだ。その目を見て、妙に焦りつつ私は言った。
「あなたも未来を掴むはずだったでしょう。リリウム教会で暮らして、私から身を隠すのだって。じゃあ、死ぬかもしれないその役目まで引き受けなくたっていいじゃない」
どうして、こんなにも焦るのだろう。引き留めたくて仕方なかった。
「それは、説得が上手くいった後の未来だ。奴を殺しておいて生きながらえても面白くない。何より、これが責任でもある。誰かがゲネシスを排除せねばならないのだ。私が行かなければ、他の誰かが犠牲になる。赤の他人に任せるくらいならば、私が行きたい。これは、志願でもあるのだ」
「訓練の長い戦士なら、ソロルに殺されずにゲネシスだけを排除できるかもしれない。そうよ。ゲネシスはただの人間。銃だって通用するはずでしょう?」
「あのソロルは侮れない。銃の臭いだって嗅ぎ取るだろう。確実に殺すには、接近するしかないのだ。これまでのように、説得するふりをして、奴を殺す。これは今の状況にて、私にしかできないことだ」
「でも、ソロルに殺されたら――」
「それでもいい。お前に殺されるよりはずっとマシだ」
投げやりな言葉を受けて、とっさに体は動いた。
影道に入られれば追いかけられない。だからだろう。無意識に、心の中で唱えるという段階も飛ばして、私は蜘蛛の糸をカリスに向けていた。殺すのではない。捕まえるのだ。不意打ちは決まり、私は初めて〈緊縛〉でカリスを捕らえることに成功した。
手足を強く縛られ、カリスが唸る。
「何の真似だ……」
その目がじっと私の手に輝く指輪を捉える。怯えが見え隠れするのは、命の危険を感じているからだろう。
「安心して。まだ殺したりはしない」
まずはそれだけ言い聞かせた。
「ただ、この約束をしてもらわなければ、放すわけにもいかないの」
「約束?」
不快を顕わにした表情で私を睨んでくる。そんな彼女に向かって、私は強く、はっきりと、行った。
「必ず帰ってきて」
それは命令だった。
「ゲネシスを殺し、必ず私のもとに帰ってくると約束しなさい」
カリスはとっさに反論しようとしたようだが、私の目を見ると困惑の色を深めた。きっとカリスも察したのだろう。私がしていること。これは冗談でも何でもない。指輪は確かに私の性を封じている。しかし、欲や感情の全てが抑えられているとは限らない。
このまま黙って見送ることは我慢ならないことだった。このケダモノは私が先に見つけた獲物だ。惚れ込んだ標的であり、何度もコケにされてきた。それなのに、自分だけソロルのもとに向かおうだなんて腹立たしい。
……それだけだろうか。いや、違う。無性なまでに私は答えを求めていた。カリスに確かな約束を言わせなければ落ち着かなかったのだ。
「約束しなければ、今ここであなたを殺す」
冗談でも何でもない私の言葉を受けて、カリスは目を丸くした。
「――そうか。やっぱりお前の本性は指輪なんかでは収まらないらしいな」
苦笑する彼女の首筋に糸を這わす。確かに、殺す必要性などそこにはない。これまで何度か話してきた情もある。
それでも、奪われるくらいならば殺してしまった方がましだ。そんな本心には嘘をつけなかった。常人のふりをしているが、やはり人間のようには――ルーナやニフテリザのようにはなれない。これが私の情愛の形だった。
糸に触れられカリスの体に力がこもるのを感じた。しかし、その表情は怯えをよく隠したものだった。
「約束したところで何になる。お前との約束が私を守ってくれるというのか」
揶揄い口調は震えている。それでも、その目はいつものままだ。
「そうね。約束なんて空しいだけかもしれないわね。……でも、ないよりマシよ。あなたの言葉を聞きたいの」
身勝手なのは承知だ。それでも、私は聞きたかった。
カリスの約束を、求めていた。
カリスは大きくため息を吐いた。その首筋には汗がにじんでいる。糸に触れ、振動が伝わる。ほんの少し、本気を出せば、すぐにでもその命を奪えるだろう。その境でいつまでも待っていられるのは、やはり指輪のおかげである。
カリスもきっとその恩恵を直に感じていることだろう。もとより、安全な暮らしのために人狼のプライドなど捨てようとしていた女である。下手な意地などはるような人物ではない。屈服するまでにさほど時間はかからなかった。
「分かった」
荒々しくだが、彼女はまっすぐ私を見た。
「約束しよう。その時は、お前のもとに戻る。せいぜい祈っていてくれ。ソロルから私が逃げ切れるようにと」
そこで、やっと〈緊縛〉を解いてやれた。
床にぐったりと倒れこみ、カリスは咳き込み始める。屈強な種族でも戦意を失う〈緊縛〉だ。不意を突かれたこともあり、少々痛かったかもしれない。だが、大したことはない。少し休めば鋭気も戻ってくるはずだ。
聞きたかった言葉は得た。それだけでいい。こんなものはまやかしだと知っている。カリスが本当に戻ってきてくれるとは限らない。それでも、言葉に魔力が宿り、カリスを守ってくれはしないかと期待せずにはいられなかった。
カリスは向かう。愛した人を殺すために。そのあとも生き続けよというのは残酷なのだろうか。しかし、残酷であっても構わない。私はもとより残酷で身勝手な魔女なのだ。カリスが苦しもうと、もう会えないという現実は受け入れることが出来なかった。
解放されたことがようやく実感できたのか、カリスは安堵の様子を見せた。
「行ってらっしゃい」
そんな彼女に向かって突き放すように言った。
どんなに約束をしたところで、空しいものでもある。本当に、これで終わりかもしれない。そう思うと、惜しい気もした。心から欲しかった獲物だ。ゆっくりと絞め殺して、皮を剥いで、隅々まで切り刻んで、そのすべての感触を体にしみこませて、味わうはずだった獲物だ。
どうして見送らねばならないのか。さほど欲しいとは思えない今であっても、やはり悔しく思ってしまうし、ただ純粋に寂しくおもってしまう。どちらの感情が本来の自分なのかと混乱してしまいそうなくらいだ。
カリスは息を整えつつ、私を見上げてきた。複雑な私の心境をどの程度察しているかは分からない。しかし、どうであってもこれ以上は危害を加えないとわかったのか、大きくため息をついてから答えた。
「また会おう」
そして、とうとう彼女は影道に消えていったのだった。




