8.下山
カエルム大聖堂の人々との別れは、私にとって非常にあっさりとしたものだった。
ブランカとその従者たちはネグラたちと別れを惜しんだようだ。護衛に過ぎない私には別れを告げる者などいない。そう思っていたが、ネグラやラビエル医師は私にも一言くれた。二人とも、印象は悪くなかった。〈金の卵〉であるルーナを取り巻く環境はここの人物たちに強く影響されることになりそうだとそう感じた。
ニフテリザもルーナもいつの間にかカエルム大聖堂で別れを告げるものを見つけていたので驚いてしまった。同じ時間を過ごしていても、彼女たちの生きる世界と私の生きる世界はだいぶ違うらしい。
それにしても、ルーナの性格は変わりそうにない。カエルム大聖堂でもグラディウス御殿でも気になった人物に遠慮なく話しかけていたらしい。だからだろう。私がつい距離をとってしまいそうになるジブリールにまで個人的に話をし、別れには一言もらうまでになっていたのは驚いてしまった。
ルーナには人に好かれる何かがあるのだろうか。だが、いつまでも幸運ばかりが彼女と共にいるとは限らない。カリスだって彼女を心配するほどだ。私にできることは、最低限のことを守らせることくらいだろう。幸い、ルーナは私が本気で困るようなことをしないように心がけることができる。気になる人がいても、リリウム教会の関係者以外についていくようなことはない。その証拠に、話しかけたという相手の中に一般礼拝者など身元が不確かな者は含まれていない。あらかじめ言い聞かせた通り、一般公開された空間に一人で立ち入るようなことはなかった。
ならば、心配しすぎなのだろうか。その程度が分からない。むしろ、もっと危険な世界で危なっかしい日々を過ごしていた頃の方が、気が楽だった。おそらくそれは、恐れることを知らなかったからなのだろう。無知でいる方が幸せなこともあるのかもしれない。
「ジブリールはね、本当は優しい人なんだよ」
そろそろ立ち去るという時、ルーナはそっと私に教えてくれた。
「入山前にわたしの力を疑ったこと、謝ってくれたの。あんなに逞しい黒豹に変身できるなら大丈夫だって」
「ルーナの力を認めてくれたのね。巫女の相談役に褒められるのは素晴らしいことよ」
「うん! それにね、変身能力は大事にしなさいって。神様がくれたものだから、何度も練習して色んなものに変身できるようになるといいんだって。そうしたら、いつかは危険に立ち向かうことだって出来るかもしれないんだって。わたし、強くなれるのかな?」
「強くならなくたっていいのよ。ただ、賢くなってくれればそれでいいの」
むしろ、変身の練習をするのならば、逃亡が成功しやすい鳥か何かになれるようになってほしい。何が危険であり、どう逃げればいいのかを身につけ、ひたすら自分の命を守ってくれればそれでいい。カンパニュラでも逃亡術なるものを教えてくれる教師がいたらいいのだが。
しかし、私の希望に反して、ルーナは唇を尖らせた。
「賢いだけじゃダメだよ。もちろん、賢くなるために勉強はするよ。いろいろと知識を付けるし、言葉もいっぱい身につけるの。でも、それだけじゃ、ダメ。強くならないと、いけないの」
「どうして?」
「強くならないと……何かあった時に、アマリリスを助けられないでしょう?」
無邪気な回答に、戸惑ってしまった。
私がルーナに望んでいることは戦うことではない。
〈金の卵〉は〈金の鶏〉を人間にとって扱いやすく改良した存在だと言われることもある。従って、ルーナもどんなに努力したところで戦力として期待することは出来ない。兎がどんなに頑張っても兎のままであるようなものだ。意表を突いたり、驚かせたりすることはできても、自分よりも圧倒的に強い種に立ち向かって倒すことなんて出来ない。
それでも、ルーナは信じている。本気で私の役に立ちたいと願っているのだろう。それが魔術のせいなのかは分からないが、何が根源であろうと今のルーナの本心に違いない。見た目こそ恐ろしい黒豹になれる彼女だが、ジブリールの言葉はあまり本気にしてほしくないのが主人としての私の本心だ。
しかし、今のルーナがそんな私の言葉をきちんと聞いてくれるだろうか。空巫女を護るために生まれたレグルス聖戦士という立場の重さは、世間をまだまだ知り尽くせていないルーナにもそれとなく分かっているはずだ。そんな人物に認められたという自尊心は、ちょっとやそっとの事では折れないものだろう。
「――だとしても、カンパニュラを卒業するまでは私の後ろに居なさい」
「でも、練習で戦わないとダメなんじゃないの?」
「戦う練習には案山子を使うの。そのあと、ちょっとずつ動くものを相手にしていく。焦らなくても、カンパニュラで希望すればちゃんと教えてもらえるはずよ。……それに、ただの変身の練習なら戦う必要はないわ。ニフテリザみたいにまずは訓練だけに専念すればいいの」
「ふうん。じゃあ、わたし、いつになったらアマリリスを助けられるんだろう」
その呟きに対する上手い答えは見つからなかった。
間もなく下山は始まり、ルーナの興味もカエルム大聖堂の思い出と、久しぶりに目にすることになるカエルムの都やモルス教会、カントル館へと移っていた。そこで待っているウィルに会って話したいことを並べている。
その話に耳を傾けつつ、周囲に目を配る。時折、ちらほらと見える一般山道を歩む人の数は少ない。行きよりもだいぶ減っている。私たちの通る関係者道は、私たち以外の誰もいない。しかし、気を抜いてはいけない。誰も来ないという状態がきちんと守られるかどうかを気にしなくてはならなかった。ソロルの気配はしない。カリスの新しい報告もまだない。だが、油断していい理由は全くない。絶えず見張りながら、歩くしかなかった。
さほど離れていない先頭にアズライルがいて、そのあとにカルロスの部下であるヴィヴィアンと、彼女に続いて進むニフテリザ。そのあとに、ブランカの従者であるゾラとゾロの二人が続き、ブランカとブエナ、カルロスが傍にいる。私たちはその後ろで、最後尾にカルロスの部下であるマチェイとベドジフが続く。
行きはここにジブリールや彼女の部下がいたが、ジブリールは宣言通りネグラの傍に留まり、彼女の直属の部下も別の任務に就いている。事前に知らされていたこととはいえ、アズライルだけが私たちを導いている状況は、いささか心細いものだった。
もちろん、カエルムから次なる聖地シルワまでの道のりは、この心細い人数からアズライルを抜いた状態で進むわけだ。そう考えると、よりいっそう指輪を受け取った私にかかる期待と責任の重さを実感してしまうものだった。
「ジズは今も皆を見守っているのかな?」
下山も半ばという頃だろうか。ふと、ルーナがそんなことを言い出した。自分の荷物と共に私の荷物まで背負ってくれている黒豹の姿はとても逞しい。だが、その声はいつもの無邪気な少女のものだ。
ここは魔物のための聖地。好奇心のままに過ごしたルーナも、きっとその話は聞いただろう。キラキラした目で空を見上げ、そして大きな猫のような顔に笑みを浮かべる。
「ここは世界中の魔物のための場所なんだよね。そういう所があるの、とても嬉しいんだ。ラビエル先生が言っていたよ。〈金の卵〉に生まれたことは罪じゃないんだって。だから、カンパニュラの人たちともいっぱいお話をしなさいって」
嬉しそうに語る彼女の姿は、こちらまで何故だか嬉しくなり、同時に切なくなるものだった。
どうやら、期待していた通り、カエルム大聖堂およびグラディウス御殿での日々は、ルーナにとってとても有意義なものだったらしい。
「カンパニュラでも友人作りにはちょっと工夫が必要だぞ」
突如、口を挟んできたのは、近くを狼姿で歩くカルロスだった。獣の目が軽く揶揄うようにルーナに向いている。
「工夫って?」
素直にルーナが訊ねると、カルロスは自慢げに答えた。
「人を見る目っていう奴だ」
「人を見る目……」
「ああ、最高峰の学園都市であっても、通っている学生の全てが善良なる心を持っているとは限らない。中にはいやーな気分しか生まないような奴もいるものだ。そういう奴とは極力関わらない方がいい。時間がもったいないからね。そんな時に役に立つのが人を見る目っていうやつなんだよ」
「どうやったら身につくの?」
ルーナが純粋に訊ねる。
ぜひ、私も聞いておきたいものだ。特にここ最近の悩みはカルロスの言うような「人を見る目」とやらに左右されている気がする。
「そうだな……勘かな」
「勘?」
「野生の勘だ。お嬢ちゃんにもあるはずだ。よくよく自分と向き合ってみるといい。たくさんの人と話していると、表面上どんなに善人に見えたとしても、この人は変だ。この人は嫌な感じだ。そう思うことくらいあるだろう?」
そういう話なら、私にとっては役に立たなさそうだ。
私の野生の勘は敏感すぎる。出会った人物はすべて疑えというのが私のモットーだ。それもこれも桃花を失い、その後も花売りや盗賊、獲物である人狼たちと戦い続けてきた経験のせいでもある。むしろ、過剰なほどに働く勘なのだ。
だが、一方でルーナには有難い説教かもしれない。かつて自分を攫おうとしたカリスにまで簡単に心を開いてしまうような子なのだ。これではいけないと、自覚してもらわねばならないが、私一人の説教程度では分かってくれなさそうだとも思う。
カルロスもそういった空気を感じ取っていたのだろうか。いまいちわかっておらず、首をかしげているルーナに対して真剣に教えてくれた。
「思い出せないのなら、これから先、誰かと話すときに覚えていてほしい。目の前にいるこの人は好きか、嫌いか。話しながらでいいんだ。この人を信じることで、アマリリスさんが喜ぶか悲しむか、そういうことを考えてみるといいぞ」
「うまいアドバイスね」
思わずそう口を挟むと、カルロスは狼の顔のまま苦く笑った。
ルーナはますます首をかしげるばかりだ。だが、とりあえず、カルロスの言いつけを理解したのか、慎重に頷いた。
「分かった。覚えておく」
そんなルーナの返答に、カルロスも満足げに姿勢を正し、ブランカたちの傍へと戻っていった。
表向きは単なるアドバイスだった。しかし、彼の言葉に私はますます警戒心を強めてしまう。カンパニュラでも気を抜くな。そう言っているように聞こえてしまったからだ。
ここが善人しかいない組織だったらどんなによかっただろう。だが、組織の長である教皇がどんな人であろうと、その末端までを絶えず監視することなど出来ない。根拠も不確かなまま人を信じることで、任せることしかできない事柄も多いだろう。
しかし、これだけ人が集まれば、ほんの少数は悪人も混じるものだ。悪意はたった一滴でいい。それだけで多くを狂わせる力を持っている。人を疑うことをしらないままでは、その一滴の毒にすぐやられてしまうだろう。
ルーナに必要なことは、その毒を見抜く力をつけることだ。戦って勝つ力があるのならばいいだろう。それでも、力で優ることだけが勝利ではない。うまく逃げることや、そもそも出会わないことも必要なのだ。
少なくとも、これまで生きてきたうえで、私はそう思っている。そう言った意味で、カルロスの助言には納得した。
私とルーナは魔術で縛られているから裏切ることが出来ない。しかし、赤の他人は違う。人との距離の取り方を誤れば、裏切られた時のダメージは計り知れない。そのことをルーナはいつ知るだろう。それとも、もうすでに覚えがあるだろうか。
「覚えておくけれど……ちょっとよく分からなかった」
黒豹の顔に不可解な思いを浮かべ、ルーナは呟いた。
世界が許すのならば、ルーナには何も知らない少女のままでいてくれたっていい。そんな身勝手な願いも心のどこかにあるくらいなのだが、そうはいかないのが現実の残酷さだ。
「カンパニュラに行く頃には分かるのかな?」
不思議そうに呟きながら歩く彼女の頭を、共に歩きながら私はそっと撫でた。いつものような子猫の大きさではない。手のひらを当てて額だけをやっと覆えるほどの巨体である。それほどまでに逞しい姿をしているが、心はいつものルーナと同じ。
変わらないってどうしてこんなにも心地よいのだろう。そんなことを思いながら、私は彼女に言ったのだった。
「きっと、分かるわ」
こうしている間にも時間が経っていく。カエルム大聖堂との距離は離れ、ウィルの待つモルス教会が近くなる。いつの間にかカエルムの地とも別れ、シルワに旅立つ時となるのだろう。絶えず流れいく時間というものの動きを感じるたびに悲しくなる。魔女は性を満たせば年を取らない。私も人狼を殺しながら変わらずに生き続けた。私は何も変わらないのに、どうして世界は変わってしまうのだろう。
でも、ルーナさえいれば悲しみは薄れる。ルーナの変化は、これまでとは少し違うはずである。彼女の成長は切なさを伴いつつも、楽しみでもある。それは、彼女にこのままでいてほしいと願う心と同じくらい強い期待感だ。相反するものだが、どちらに転んでも、私は生きることを楽しめるだろう。
――指輪のことさえ、なければ。
ふと前を見て、アズライルたちとの距離が開きかけていることに気付く。しかし、そんなことよりも、いつの間にか前方に広がっていた景色に目を奪われた。
もうじき下山が終わる。カエルムの都の長閑で美しい街並みがそこにはあった。




