7.警戒
呼び出されたのはカリスが去ってから数時間後のことだった。
鐘は九つの回数。消灯まで間もなくだが、まだ少しは時間があるといったところだ。共に寛いでいたルーナとニフテリザを客間において、呼びに来た女性鳥人戦士と共に向かった先は会議室であった。近づくだけで重たい空気は伝わってきて、心底嫌になった。
入ってみればそこには、カルロスや彼の部下の一人であるマチェイもいた。ほかには、ジブリール、ミケーレ隊長、ラビエル医師とその助手の女性ライラ、アズライルと彼の部下数名、そしてブランカとネグラら巫女二人、ブランカの三名の従者より代表でブエナも呼ばれていた。
あとは、カエルム大聖堂およびグラディウス御殿に住み込みで仕える〈金の鶏〉や鳥人のうち、ある程度身分の高い者たちの集まりだ。
皆、ピリピリとした空気の中で表情を濁していた。
「こんな時間にお呼び出しして申し訳ない」
取り仕切るのはジブリールだ。相変わらず声の調子は雄々しい。
「モルス教会から伝令があったのです。祝福の儀は無事に終わりましたが、我々の警戒が解かれるわけではありません。件のソロルはカエルムに向かって移動中だとのことです。正式な同胞の諜報も必要なのではと意見しましたが、どうも納得してもらえないようだ。しかし、やはりたった一人の人狼女に任せるのは少々心細いという部分は一致しました。司教と私の意見は同じです。常に警戒が必要な状況になりました」
ジブリールの言葉に周囲がざわめく。
警戒せよ。その言葉に不穏な空気が流れた。先の大戦以降、長く、このカエルムを侵すような不届き者はいなかったのだろう。だからこそ、怯える人々の様子は新鮮なものだった。平和ボケしているともいえるが、それだけ今までが穏やかだったのだと思えば、むしろ彼らが怯えるこの事態の方が嘆かわしいことともいえる。
「我らと信念を共にするはずのアルカ聖戦士が敵対することは非常に残念なこと。いわば兄弟のような男に聖なる武器を向けるのは辛いと思う者もいるでしょう。しかし、時には心して立ち向かわねばならない試練もあるのです。我らが空巫女ネグラ様と、海巫女ブランカ様を守るためにも、かつて先人がどのような脅威を潜り抜けてきたのかをいまいちど知っておくべきと判断し、大聖堂に保管されていた記録を引っ張り出してまいりました」
ジブリールの指示でクルクス聖戦士たちが資料を机に広げる。アルカ語だが文体は非常に古く、文字もところどころ見えなくなってしまっている。だが、かなり昔のものだと考えると保存状態がいい。それに、貴重な文献であることはすぐに分かった。
「これは、代々守られてきたカエルムの歴史の一部です。ここに書かれているのは、悲劇的な大事件の記録です。今より、千年ほど前、カエルム、シルワ、イムベルに捧げられし巫女様の第がすべて十七代目だった時代、ここで多くの者が虐殺されるという事件があったのです。通常、巫女様方の代はズレが生じるものです。大人になる前にお亡くなりになることも多く、捧げられた後もご病気や事故に巻き込まれることもありましたので。初代以降ですべての巫女様の代が重なることは珍しいことであり、大変不吉なことだともいわれています。その理由が、おそらくこの十七代目の時代のせいでしょう」
ジブリールはそう前置きしてから、私を見つめた。
「これは〈赤い花〉の伝説にも大きく関わる事件でした。その指輪がもっとも活躍した時代の記録。犯人と言い伝えられているのは、とりとめもない人間の女性です。魔女と書かれておりますが、本当に魔女の心臓を持っていたかどうかは分かりません。ただ、彼女は不可思議な術で大勢の人を殺し、心はすっかりフラーテルに取りつかれていたと書かれております」
似ている。
「死んだ思い人のために剣を取り、フラーテルに言われるままに聖地を血で穢したのだと。そして、彼女はカエルムだけでなく、シルワやイムベルでも虐殺を繰り返し、そのまま世界の果てへと逃亡した。巫女様まで殺され、聖獣の気配も消え去り、聖地は終わりかと思われましたが、そこで立ち上がったのが当時の〈赤い花〉の聖女様でした。彼女は指輪を授かり、フラーテルと犯人の女を探し当てると、命で罪を償わせて戻ってきました。それからしばらく経って、無事に次の巫女様はお生まれになり、聖獣たちの気配も戻ってきた。……これは、そういう記録です」
非常に似ている気がする。今のこの状況に。
いわば、序章の部分のようだ。大昔の記録だが、いやに体にまとわりついてくる。
「事件としては無事に解決していますが、犠牲になった命は戻りません。十七代目の巫女様と彼女に仕えた人々、守ろうとした人々も大勢亡くなっているようです。……それに、英雄となった聖女の末路も悲劇的なものでした。目的を達成したフラーテルとの激闘で、指輪を酷使した結果でしょう。世に平穏が戻り、救世主としてあがめられるはずだった聖女は、指輪を返還してしばらく後、世を乱す稀代の殺人鬼になり果ててしまったそうです。そうして彼女は囚われ、断罪されました。かなり古いとはいえ、繰り返してはならない歴史です」
イグニスで少しだけ聞いた話でもある。彼女以外にも指輪の弊害で処刑された魔女や魔人がいるとウリアは言っていた。
回避するにはどうするべきなのか。彼らが私に一つの未来ばかりを当てはめようとする背景の一つなのかもしれない。……だが、有難迷惑で胡散臭いだけの話で片づけていいのだろうか。古い資料の偽装は難しい。ここに書かれていることも、古アルカ語が分かる私の前では無意味だ。
ジブリールが語った通りのことが書かれていることはだいたい読み取れる。彼女は嘘をついているわけではない。疑うとすれば、この記録自体の信憑性だろう。
「それから後の時代も、ソロルやフラーテルが聖地に接近する記録は多数あります。〈赤い花〉の聖人がそれを阻止したという記録も。ただし、今の状況は千年前の当時の状況を想定するべきでしょう。死霊に味方する縁者がいたという記録はこの当時のものしかありませんから。当時の反省としては、現れては身を隠すフラーテルばかりに気を取られ、縁者の女の脅威に気付くことが遅れてしまったというものが書かれております。縁者を先に処分しておけば、こんなことにはならなかったのだと……」
「……説得」
ジブリールが語り終わるなり、声をあげたものがいた。ネグラだ。可憐な雰囲気を宿す彼女は、ブランカの隣で不安そうにジブリールを見つめていた。
「ソロルに味方するそのアルカ聖戦士を知り合いの方が説得なさっているのだと耳にしました。そちらはどうなっているの?」
ネグラの問いに、ジブリールの目が私の方に向く。ほかの者たちも釣られて私を見てきた。その視線を受け、私は恐る恐る答えた。
「ソロル達がカエルムの都にたどり着くまでに、最後の説得に向かったようです。それでダメならば……仕方がないと」
「……そうですか」
ネグラもブランカも落胆したようだ。彼女たちとしては、アルカ聖戦士である彼の命も心配しているのかもしれない。
「説得が上手くいけばいいのですが」
ブランカが力なく呟いた。とくに彼女が半ばあきらめているようにも見えるのは、長旅の間に死者の幻影に縋るその男の頑なな心を感じ取っているからだろうか。カリスが口を割らず、教会の者たちも暢気にもその気持ちを尊重してしまっているようであるため、その人物の詳細は不明のままだ。
それにしても、ここまで時間をかけてなお、ソロルに付き従う姿。それも、多くの仲間の目を欺き続けていることから、ただならぬ意志の強さを感じてしまうものである。
それでも、アルカ聖戦士として認められ、神に仕えてきたはずの人物である。純粋無垢と見えるこの二人の巫女が心を痛めないはずもない。
険しい表情だったジブリールが少しだけネグラを気遣うような表情を浮かべ、そして告げた。
「残念なことですが、死霊を認めている反逆者はもちろん、それを見張っている盗賊あがりの女人狼についてもすべてを信じるのは無警戒と判断しました」
その言葉にカリスとの会話を思い出した。
なるほど、ジブリールから見て、カリスの姿はそう映ったのだ。当然といえば当然だ。犯罪に手を染めていた過去が分かっている上に、説得が失敗続きとなれば信用も失ってしまうものだ。そもそも、情愛というものは人を狂わせるとして有名なものでもある。彼女の報告ばかりを頼りにしてはならないと判断するのも無理はない。
「よって、彼女がどこに居ようと関係なく、我々は我々で明日より対策をとることにしました。……まずは手始めにこれまで以上の入山規制です」
その言葉に、空巫女ネグラも顔をあげる。
「モルス教会の聖職者たちとの会議により、明日より入山者をさらに規制することになりました。何とも複雑な思いですが、休暇を利用して巡礼に来たアルカ聖戦士は特によく見張るようにしなさい。あまりにも怪しい場合は入山拒否の措置も取らねばならないでしょう」
その言葉に、少々ざわめきが起こる。特に、アズイラルの部下たちなどクルクス聖戦士たちの反応が強いようだ。そんな彼らに配慮するように、ジブリールは付け加えた。
「これは日ごろ神に命を捧げる思いで仕えている全ての戦士たちにあまりに失礼なことでもあります。したがって、態度には気を付けていただきたい。……けれど、相手を過信しないように。性別、年齢、種族、国籍で判断してはなりません。必ず、相手の心の底を見つめなさい」
ジブリールの言葉にカエルムのクルクス聖戦士たちが戸惑いをあらわにしつつも頷いた。皆、腑に落ちないものがあるようだ。それだけ誰もが真面目に職務を全うしてきたということか。
同じように命を懸ける仲間への思いは強いと聞く。それは、長旅の中でウィルやカルロス、そしてカルロスの三人の部下たちを見ていてもよく分かることだった。だからこそ、仲間に武器を向けるかもしれないという状況にうっすらと拒否感を覚えている者もいるのかもしれない。
もちろん、そうでない者もいる。ジブリールの話を聞きながら、闘志をその表情に浮かべる聖戦士もいた。鳥人やそれ以外、老若男女関係なく、相手が誰であろうと果敢に立ち向かおうと意気込んでいるらしい者も少なくはないだろう。
ならば、大丈夫。そう思いたいのだが、引っかかるのが縁者を得たソロルの強さだ。死霊は全力で男を守るはず。捨て身の覚悟で飛び込まねばならないことは誰もが分かることのようだ。
カリスの説得が通用すればいいが、一度そうなってしまった場合、いったいどれだけの者の命が失われてしまうだろうか。その不安を感じてか、ネグラは黙ったまま俯いてしまった。同じ〈金の鶏〉のである修道女の一人が彼女を窺っている。ブエナもまたブランカの手を握り、不安そうにジブリールを見ていた。
「……このような事情から、我々の下山は最小限の人数で行うことになりました」
緊張の流れる中で口を開いたのはカルロスだった。主にブランカに目を合わせ、いつもの調子を奇妙なまでに守りつつ説明する。
「ジブリールさんにはネグラ様についていて貰わなくてはなりません。ですので、下山の案内はアズライルさん一人にお願いすることになりました。モルス教会でウィルと合流し、シルワに旅立つことになります。その間も油断はできません。――特にアマリリスさん」
カルロスの目がこちらを向く。その目の険しさは、恐らく昨日のコックローチの件によるものと思われる。
「あなたがいるだけでもソロルは警戒するようです。ただし、それは裏を返せばあなたがいなくなってしまったら一気に状況が変わるという事とも考えられることだ。カエルムからシルワまで少人数で進まなくてはならない以上、あなたの態度はかなり重要なものとなる。そこを忘れないでいただきたい。……何か考えがある場合は、一人で突っ走らないように」
やや棘のあるその言葉に、ブランカが心配そうに私とカルロスとを見比べた。そんな表情を視界に入れつつ、私は大人しくカルロスに頷いた。
「さて、自分からの話は以上です」
カルロスがそう言うと、ジブリールが透かさず告げた。
「明日、休息をとらないカエルムの者たちは少し残りなさい。ほかは、解散です」
ようやく解放だ。カルロスの指示も特にない。やっと客間に戻してもらえる。
息の詰まるような話し合いも、過去の禍々しい記録も、言葉にできぬ未来への不安も、もしかしたら悪夢になって襲い掛かってくるかもしれない。だが、悪夢など慣れたものだ。明日を生きるために人狼を殺し続けていた頃は、悪夢しか見てこなかったものだった。
次の鐘はまだ鳴っていない。ルーナとニフテリザは勉強中だろうか。それとも、もう眠ってしまっただろうか。明るい表情で未来の話をするあの二人に会いたい。私自身の未来がどうあれ、前向きに生きている彼女たちの癒しが欲しい。
会議室を後にしながら、つくづく思った。早く、明るい未来になってほしい。明日が輝いたものだと当然のように信じられる世界で生きてみたい。
願えば願うほど、なんだか空しい気持ちになってしまうのはなぜなのか。
部屋に戻れば、ルーナもニフテリザも先に眠る準備をしていた。
彼女らに詳しく話すのは明日になるだろう。ほどなくして、私はまた一人取り残されてしまった。紛らわせてくれるルーナの無邪気な会話もない。聞こえてくるのは寝息ばかり。その中で横たわっていても、私の気持ちは晴れないままだった。
塵は降っていないが、月光がとても綺麗だ。その美しさに取りつかれてしまったように、私は無意識のうちにベッドから降り立っていた。
二人を起こさないように部屋を抜け出し、誰もいないグラディウス御殿を歩く。鳥人のクルクス聖戦士が見張っているかもしれないが、しばらくは寂しげな”一人きり”をどうにか楽しめそうだ。
だが、そんな期待はすぐに打ち消された。足音が聞こえたからだ。やわらかい。戦士のものではない。気配をたどる前に、私は窓の外へと目をやった。
いつの間にか塵が降り出していた。月光に照らされ、輝いている。美しい世界だが、ニフテリザはいまごろ苦しんでいるかもしれない。
近づいてきた者は人間ではない。だが、警戒する必要はなかった。イグニスでもこういう夜があったことを覚えている。ブエナだ。
「こんばんは、アマリリスさん。眠れないのですね?」
「あなたも眠れないようですね」
「……ええ、少し不安で」
ブエナは先ほどの会議にも出席していた。
ブランカのすぐ隣であの緊迫した空気を目の当たりにしたせいだろう。不安は表情にもよく表れていた。慰めの言葉は見つからない。なぜなら、私だって不安だからだ。
塵は美しく輝いている。近づいてきたブエナと共に見上げていると、ふと彼女は消え入りそうな声で呟くように言った。
「ネグラ様とブランカ様はとても似ておられます」
私は静かに耳を傾けた。
「お二人とも、自分の役割を信じ、どんな未来が訪れようと運命を信じて飛び込む心意気があるように感じました。わたしには真似できないことです」
何処となく落ち込んでいるように見えた。いや、すれ違いだろうか。信じて付き添ってきた彼女だが、これまでに体験したことのない不安に圧し潰されそうになっている。
その姿は哀れで、私はつい慰めるように言った。
「真似する必要はありませんわ。あなたはブランカ様のお心に寄り添っていますもの」
しかし、ブエナの表情は晴れなかった。
「わたしは……従者失格なのです」
塵の降る世界を眺めながら、私は黙って懺悔を聞いた。
「ブランカ様に選ばれた誉れ高いこの役目を、はじめて恐ろしいと思ってしまいました。ブランカ様は輿入れでもしも命を落とすことがあったとしても、恐れていないのです。それがわたしには理解できなかった。わたしは、何があっても死にたくない。……アマリリスさん、わたしが情けないだけでしょうか。今も、この先を思うと不安で震えてしまいそうになるのです」
「不安な気持ちは私も同じです。死を恐れることも、ごく自然な感情ではないのでしょうか」
きっとブエナも真面目な人なのだろう。
それに、ブランカを慕っていると言っていた。ブランカのために、私を説得した日もあった。信じてほしいと言っていたこともあった。
だからこそ、ブランカを理解できない自分に腹が立っているのかもしれない。そうでなくとも、ブランカのようになれない自分に落ち込んでいる。私にはそう見えた。
私の慰めなど、たいした力にはならない。それはわかっている。だが、ブエナはブエナで悲しげな笑みを浮かべたのだった。
「ありがとうございます。……そう、ですよね」
一息ついてから、ブエナはグラディウス御殿の廊下を見渡した。
「此処の夜も今日でおしまいですね。イグニスと違ってあっという間だから、それはそれでなんだか寂しいです」
「ここでは落ち着けましたか?」
「そうですね……ネグラ様にお仕えする〈金の鶏〉の従者のお方々とお話しすることができました。従者としての心構えをお聞きできたので有意義な時間を過ごせました。尊いお役目を果たす巫女様をお支えする日々は、とても充実していて幸せなのだとか……とても楽しみです」
未来に思いを馳せるブエナの横顔は美しい。だが、以前に比べると希望の色が薄い。恐れが強い。怯えのようなものは確かに浮かんでいた。
私としてはただ直向きにブランカを信じる彼女よりも親近感がわく姿だった。
「……そろそろ戻らなくはいけませんね」
ブエナがそう言って、気づいた。
塵が降りやんでいる。美しい灰色の世界も終わりだ。
「明日は下山です。アマリリスさんも無理なさらず、お早めにお休みくださいね」
「ええ……おやすみなさい」
「おやすみなさい。お話聞いてくださり、ありがとう」
そう言って去っていくブエナの背中は、この間とやはり少し違う印象があった。そこに宿るのは不安にもとづく感情の痼のように思えた。
人々の心を無理やり繋いでいた目に見えない紐の結び目が、少しずつ緩んでいるような、そんな気がした。




