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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
6章 ネグラ

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6.最後の望み

 夕食後、またしても私は客間で一人にされてしまった。ニフテリザが早くも稽古場に向かい、ルーナもそちらに行ってしまったのだ。

 ルーナには勉強をさせたいところだったが、今から呼びに行くのも面倒なほど身体が疲れていた。それだけ、祭儀やネグラとの会話に緊張を覚えていたのかもしれない。


 ベッドの上でぼんやりしていると、ふと視線に気づいた。だが、恐れることはない。誰がいるのかは気配を探れば見なくても分かる。カリスであった。一言詫びも入れずに影道から出てくると、遠慮もせずに私のすぐ傍まで近づいてきた。横たわるベッドのわきに座り、ため息を吐く。

 その姿を見るのは久しぶりな気がする。少なくとも、昨日は来なかった。コックローチから聞いた話も少しだけ錆びついているかもしれないが、せっかく金を払った情報だ。ぶつけない理由もない。


「あなたたちのこと、昨日、情報屋から聞いたわ」


 カリスは目を合わそうとはしなかった。


「苦戦中のようね。そろそろ目が覚めたんじゃない?」


 すると、カリスは不満そうな表情を浮かべ、頬杖をついた。


「コックローチ。あのゴキブリ野郎か」

「質問に答えて」

「答える前に忠告しておこう。あのゴキブリのことはあまり信用しない方がいい」

「その事なら、カルロスからも忠告されたわ。花売りの中には特殊な連中もいるのだって。でも、彼の情報の質が悪いというわけじゃないわ」

「それは私も知っている。ただ、同時に、実はお前がそれほど強い魔女ではないことも知っている。お前は自分の力を過信するタイプの魔女だ。その結果が、リリウム教会に飼いならされる今のこの状況だということを忘れてはいないだろう? あのゴキブリ男を甘く見ない方がいい。翅人のくせにあの業界で長生きしているということは、それだけ大地に愛されているか、頭の切れる虫けらだということになる。お前の知らない手段も隠し持っているかもしれない」

「私が過信しがちかどうかはともかく、私なりに警戒しているつもりよ。そのうえで、彼とは適切な距離を守っている」


 ムッとしたのは確かだが、あまり怒っても仕方がない。それだけ私の行動は無謀に見えるのだろう。

 翅人は弱い。だが、弱いからといって無害なわけではない。舐めてかかれば後悔することになるだろう。そんなことは分かっているつもりだ。分かったうえで、利用しているだけのこと。


「それで、彼の情報は信用に値するのかしら。サファイアを騙る死霊は、哀れなアルカ聖戦士に何度も『カリスを殺せ』と言っているようだけれど」

「……それでも時々、私の言葉に耳を傾けようとしてくれる」


 カリスの情けない言葉に、私もまた溜息をついてしまった。

 これが、私の惚れた狼なのだろうか。飼い主を信じて待ちわびる忠犬にしか見えない。私を欺き、騙し、ともすればルーナやニフテリザまで攫おうとしたあの頃のカリスはどこへ行ってしまったのだろう。

 指輪という魔法で私が私でなくなったように、カリスもまた愛欲という魔法で彼女でなくなってしまったように思えてならない。

 しかし、そんな私の呆れが伝わったのか、カリスはすぐに表情を変えた。


「分かっているさ。このままじゃいけない。カルロスにも言われたところだ。このままではせっかく手に入れかけた未来がなくなってしまう」

「手に入れかけた未来?」

「私自身の未来だ。お前が役割を果たすまで、私は人狼としての力を教会の連中に捧げる。そうすれば、盗賊として犯してきた罪も、生きるために犯してきた殺戮も、すべてなかったことにしてもらえるらしい。ここには私が人間のように生きる世界がある。……知っているだろう? 同じ人狼であるはずのカルロスは食うためだけに人を殺したことがない。生まれてこの方、美味い肉を食える環境にいるからだ。ディエンテ・デ・レオン産のグルトン牛やシトロニエ産のノブレス牛なんて、普通の人狼は食えない。だが、私もこのまま教会で働き続けるのならば、そういったものを食わしてもらえる。教会のための諜報を続けるだけで、衣食住を約束してもらえるそうだ」

「……そうして、人狼としての誇りを捨てるのね」


 私の言葉に、カリスは苦笑した。


「そうなるのかもしれない。だが、人狼の誇り? そんなもの、金にならない。飢えることに比べれば誇りなんて捨てた方がいい。……ああ、それに、お前が指輪を手放したとしても、身を隠すことができる。いくらなんでも、お前への褒美のために私との約束を反故にするなんて無慈悲な真似はしないだろう」

「――腹立たしいわね。でも、いいわ。そんなに人狼の誇りを捨てたいのなら、そうしなさい。指輪を外した私に怯えながら鎖につながれていなさいな」


 突き放すような言葉になったのはなぜだろう。私は、なぜ、焦っているのだろう。

 カリスが変化を希望したことに焦っている。あっさりと誇りを捨て、リリウム教会の一員として生きていくと決めたことに戸惑いを覚えているのだ。

 私は決めたはずなのに、どうしてだろう、落ち着かなった。まだ時間はある。どうするべきか。どうするべきなのか。


 だが、落ち着かないと。まだ焦って答えを出す時ではない。今はまだ、役目すら終わっていない。ソロルが何もしないままついてきているだけのはずがないのだ。

 そう、コックローチは言っていた。警戒すべきは本当にソロルだけなのか。聖剣が怪しく光るその理由は、何処にあるのか。


「話を戻しましょう……今のソロルとサファイアの夫が何を企んでいるのかわかる?」

「ソロルの狙いはやはり全ての巫女の命だ。ブランカ様だけではなく、ここに暮らすネグラ様やシルワの森にいらっしゃる地巫女グリス様までも欲しがっていた。死霊はそのために生まれてくるのだと誇らしく主張しているのだ。世に混沌をもたらすためにそんなことをするのだと、夢を語るように彼に言っている場面をよく見る。……それを、いつも奴は黙って聞いている」

「咎めたりはしないのね。彼女を守るつもりなのかしら」

「……聖地を荒らし、巫女と聖獣の力を手に入れれば、本物のサファイアに会えると奴は言っている。そのためだろう」


 その人物は、そんな嘘のような話を信じてしまうほどに辛いのだろうか。

 死んだ人を取り戻せるなんて、正常な判断力を失った孤独な人を騙す言葉にしか聞こえない。それなのに、彼はソロルの隣に居続けている。

 こんなにもカリスが見捨てずに頑張ろうとしているのに、何故。


「何より、ソロルは力を与えられると主張していた。巫女たちを食べてしまえば、そのソロルは聖獣の力を操れる。どういう原理かは分からないが、そうなれば、ただの人間である彼を超人にだって出来るのだと言っていた。そうすれば、義弟を奪った魔女も見つけ出し、復讐を果たすことも可能だと」

「それを彼は信じているのね?」

「ああ、そのようだ。そこまで愚かな奴ではないと思っていたが、どうも違うらしい……」

「彼自身は何かしようとしている素振りはある?」

「彼自身が?」

「コックローチが言っていたの。彼の聖剣が怪しく光っていたって。何か企てているに違いないけれど、詳しく探ろうとしたら同業者に邪魔されてしまったのだって」


 買いそびれた情報が惜しい。

 コックローチの気配はあれ以降、近づいてこない。カルロスを恐れているのだろうか。それとも、近づかせない処置を取られてしまったのだろうか。

 ともあれ、再び情報を買えるのはまだまだ先のようだった。


「同業者か。確かにそれと思われる厄介者はいる。だが、聖剣の光か……。正直、私にはよくわからない。聖なる武器にはいくつか種類があるだろう。一言で聖剣といっても、いろんな輝きがあるものだ」

「何か……禍々しいものを感じたりはしない?」

「禍々しいのはどれも一緒だ。カルロスたちの持つ武器にも素材となった〈金の卵〉や犠牲になった者どもの哀れな死臭と悲鳴、怨念がこびりついている。サファイアの夫も同じだ。それだけのこと」

「じゃあ、あなたも分からないのね。彼自身が何をするつもりなのかについては」

「監視している限りでは、奴自身も巡礼するようだ。一般市民に紛れ、ソロルをここに送り込む。それ以外の計画は聞いていない……だが」


 カリスは首を傾げ、私をちらりと見つめる。


「あのゴキブリ男が何か感じているのなら、注意深く見るべきだろう。……いや、その前に、カエルムまで来させないことが大事だ」

「今はまだイグニスにいるの?」

「いや、先ほど、イグニスを出た。カエルムの都に移動するらしい。もちろん、お前たちの動きを知ったうえで、だ。先ほど厄介者といっただろう。とある情報屋が奴らをお得意様にしているのだ。奴はお前たちの動きを知っている。ゆえに、〈赤い花〉を連れた一行がいつ動くのかをソロルは知っている。その情報屋とゴキブリ男が喧嘩しているところは確かに見た。邪魔されたというのはそのことだろうな」


 では、コックローチの愚痴は嘘ではなかったということだろう。

 翅人の監視など、いつどこでされているものなのか分からないものだ。捕まえようにも相手は幻のようなもので、何らかの理由でこちらまで接近してくれなければ不可能だ。

 監視して情報を得るだけならば、必要以上に接近してくることもない。だからこそ、たいして強くもないくせに情報屋などという危ない仕事が適職だとされているのだ。

 コックローチの商売敵。なんとしてでも排除したい存在だ。


「その情報屋、早く何とかしないとまずいわね。カリス、あなた、どうにか出来ない?」

「悪いが、難しい。翅人は弱い生き物だが、逃げ足が速いのだ。上手く捕まえるには囮がいる。しかし、奴は賢い男だ。見え透いた罠にはかからないだろう。……だが、安心してほしい。情報屋がこれ以上害悪化する前に、この私が決着をつける」

「決着?」

「ああ、決着だ。カエルムにつくまでの説得を最後にする。そこで説得に失敗したら、それで全て終わりにする」

「終わりって……」

「カエルムの都を出た瞬間、私は奴を殺す。私一人の手で奴を殺してしまう。そうすれば、もうあのソロルに怯える必要もなくなるのだろう?」


 自分に言い聞かせるようなその言葉に、私は急に不安になった。

 この人は、やはり一人きりで抱えるつもりなのだ。それは愛する人の名誉のためだろうか。そんな気遣いはやめて、別の聖戦士たちに任せればいいのに。ただ彼女が名前を漏らすだけで、すべてが解決するはずなのに。

 それでも、私は何も言えなかった。カリスの表情があまりにも真剣だったからだろう。


「長く待ってもらったのだ。仕方がない」

「……最後の説得が上手くいくことを願うわ」


 かつての我々の関係を思えば、それはあり得ない言葉だ。中身が伴っていないと思われても仕方がない。それでも、指輪をはめた私にとっては本心からの言葉だった。カリスはどう捉えただろう。私の顔をちらりと見つめたまま、微かに笑みを浮かべていた。


「お前からそう言われるのも奇妙なものだが……有難く受け取っておくよ」


 そう言って、カリスは再びため息を吐いて、くうを見つめた。

 まだ移動する気はないらしい。やけに寛ぐものだが、まあいい。どうせ、ルーナもニフテリザも戻ってきそうにない。退屈しのぎにちょうどいいだろう。


「ソロルの出現はあの男の傍に限られるはず。だが、あのソロルに同調する死霊がいてもおかしくはない。奴のように死霊に味方する狂った遺族はなかなかいないだろうが、それでも油断していい種族ではない。〈赤い花〉の聖女として、ブランカ様を頼むぞ」

「ええ、分かった。大丈夫。カエルムの警護に関しても、カルロス伝いで鳥人戦士に伝わっているはずよ」

「……なるほどね、だから、あのジブリールとかいう白髪女の気が立っていたのか」

「ジブリールに会ったの。彼女にも伝えた?」

「影道を使って大聖堂をちょっと見学していた時にね。伝えた……というよりも、吐かされたようなものだ。カルロスがかばってくれたおかげでどうにかなったのだ。……だが、あの目は嫌だね。空巫女ネグラ様の相談役だか何だか知らんが、出来るだけ彼女には関わらないでおこう」


 思えばネグラとは喋ったが、ジブリールの方とはあまり会話をしていない。しかし、その表情の険しさは印象に残っている。真っ白な羽毛のせいでもあるが、冷たい氷を思わせる人物だった。昨日話したラビエル医師やアズライルとは正反対の鳥人である。どちらかといえば、ウリアやミケーレ隊長の雰囲気には似ているようだが。


 ともあれ、見た目こそ美しい女性だが、警戒心が非常に強く、態度もやや厳しい印象が強い。 最も近い位置にいるはずのネグラが腹を割って話せない様子であったところからも、打ち解けにくい印象は受けてしまう。

 最初は、純血の鳥人であるためだろうかと思ったが、同じく純血の鳥人であるラビエルなどと比べれば違いは明らかなものだった。それにカエルムでよく見かける他の女性鳥人戦士と比べても違いがはっきりと出ている。どちらかといえば、その雰囲気はやや親しみづらい厳格な男性に似ている。あれはきっとジブリールの性格なのだろう。


 何をされたか知らないが、人狼でさえ竦んでしまうほどの凄みだったのだろう。プライドが傷つけられたと見えるその拗ねた姿は、少しだけ可愛いような気もしてしまった。


「伝えるのなら、私かカルロスにすればいいわ。カエルムの人にこだわるのなら……アズライルやラビエル医師も少しは聞く耳を持ってくれそうね。あと、ついでだけれど、モルス教会に留まっているウィルとの伝令役もしてくれると、すごく助かるでしょうね」

「ひと使いの荒い奴だな。だが、心配は無用だ。……もうとっくにカルロスにそうしろと言われているからね。全く腹立たしいことだが、この旅が終わるまではこの私もカルロスの部下扱いらしい。時折、伝言の遠吠えが届くが……なんだあれは。あの男、学校で音楽を習いなおした方がいいんじゃないか。音痴にもほどがある」


 人狼ならではの愚痴に、思わず笑みが漏れた。そういえば、ルーナがイグニスで言っていた。カルロスの遠吠えに犬や狼の戦士が困惑するのだと。カリスもそんな困惑に巻き込まれているとは、すっかり馴染んだものだ。

 そう、カリスまでもここに自分の居場所を見つけている。私はどうだろう。本当に、指輪を返す方向のままでいいのだろうか。


「とにかく、お前のせいで散々だ。これもグルトン牛のためだと思えば我慢できるものだが」


 カリスは言った。茶化すようなその様子。言葉ほど不満には思っていないように見える。

 清潔な身なりはかつての薄汚い時代を忘れてしまう。あの頃でさえ綺麗だった彼女の容姿も、今やいつまでも見つめていたくなるほど輝いている。これが本来の美しさなのだと思えば、早まって殺さなくてよかったかもしれないとすら思えてくる。


 ――これもきっと、指輪の影響なのだろうけれど。


 そう思うと、少し寂しくなる。私とこの人は本来、友人に等なれないのだから。


「グルトン牛ってそんなに美味しいの? 食べているのはあなた達のような人狼か、人食いオーガ族たちばかりだって聞いているけれど」

「そうなのか? ノブレス牛といい、人間でも食っている奴はいるとも聞くぞ」

「ノブレス牛はそうね。あちらは少し前までシトロニエの貴族のための牛だったもの。でも、グルトン牛は違うわ。その味が何に例えられるか知っている? 有名な人食いオーガの言葉が残っているのよ」


 ――その味は、まさに暴食の悪魔。好ましく太った人間の味である。


 魔物や魔族の間で有名な言葉だ。魔とは無縁の人間向けには、伝説級の快楽殺人鬼の言葉として語られる。公正に裁くべく囚われたが、処刑される前にいつの間にかいなくなってしまったという話はあまりに有名だ。かなり昔の人物なのだが、今もどこかで生きているという噂もある。しかし、本当に純粋なる人食いオーガ族であるのなら、あながち嘘ではないかもしれない。


 それはそうと、彼の言葉が有名になると、グルトン牛を扱う畜産界は深刻なダメージを受けたらしい。「人間のような味」が独り歩きし、それまでグルトン牛を好んで食べていた人間たちも別の種の牛を求めるようになっていた。しかし、そんな時代でも少数の愛好家が強く望んだため、今の時代までグルトン牛の血統は守られてきたのだという注釈も覚えている。

 ニューラの家に置いてあった本に書かれていたものだ。魔族や魔物と思われる有名人の情報が書かれた本だった。グルトン牛の下りは完全に蛇足だろうが、かなり印象に残っていた。なぜなら、この少数の愛好家というものも、人狼たちのような人肉を愛好するものだった可能性が指摘されていたからだ。

 世の中には魔物や魔族であることを隠しながら暮らしている人たちが多数存在する。その可能性に、奇妙な一体感を覚えてしまったのだ。


「ふうん、そんな言葉があるのか。しかしまあ、絶滅させなかったのは利口だな。おかげで、こうして人間を食わねばならなかった人狼が減っているのだ。人間といがみ合わずにいられるのならば、面倒くさいことにもならなくていい」

「……人間を食べていた日々は辛かった?」


 訊ねてみれば、カリスは首を傾げた。


「さあね」


 カリスは答えつつ、私から目をそらす。


「幼い頃は何もわかっていなかった。人間とも友達になれると思っていたかもしれない。しかし、大人になって自分で狩りをするようになると、変わってしまった。人間の肉でなければ生きていけない。それが現実だから、捕まえて殺すことも仕方がないことだと納得してきたのだ。……でも、ここ最近、ずっと、人間を食べ物として見ていない。肉の柔らかそうな若い人間を見ても、涎が出なくなっている。それは確かだ」

「前の日々に戻りたいとは思わない? 自由に野をかけて、暢気に暮らしている人間を襲って食べる日々」


 そして、常に私という脅威を意識して過ごしていた日々。


「あまり戻りたくないな。今は、自由を手にするだけの責任が煩わしい。私の手で殺さずとも、誰かが代わりに殺してくれるのだ。私はどうやら、それが単純に有難いと思っているらしい。……獲物を捕まえて殺すことに疲れていたらしい」


 力なくそう言われると、罵ることも出来ない。人狼としての誇りなんて、本当に重要視していないのだろう。残酷な現実を生き抜くための原動力だっただけで、その現実が変わってしまった今、もはや誇りなんて彼女にとって意味あるものではないのかもしれない。

 しなくていい、という世界を覚えてしまった以上、もう戻れない。そういうことだとすれば、私も他人事とは思えなかった。指輪を返還し、魔女の性を取り戻し、そのあとはどんな日々が待っているだろうか。自由と誇りなんてものも幻想だとしたら。魔女の性で狂いきって人狼を殺す私は、本当に幸せといえるのだろうか。


「もともと、あなたは人間として暮らす方が合っていたのでしょうね」


 不安の波を感じながらも、私はカリスにそう言った。誤魔化しであることは自覚している。他人事ではないとわかっていても、他人事だと思った方が今は気が楽だった。

 そんな私をカリスはじっと見つめてきた。揶揄うわけでもなく、蔑むわけでもない。ただ困惑しているような彼女の目が奇妙だった。しばらく黙り込み、言葉を探すと、ようやく彼女は呟くように囁いた。


「お前も――」


 静かに彼女は言う。


「お前も人間のように暮らすのが幸せのように思う」


 少し前ならすぐに反論していたような言葉だっただろう。しかし、今はどうか。私もまた言葉を探してしまった。脳裏に浮かぶのはアズライルとラビエルの姿だ。彼らが本気で疑問に思う様々なことを変えようとしているのならば、私もまたこれまでとは違った態度で生活しても大丈夫なのではないのか。

 この世界に身を預けることができれば、ルーナと二人で穏やかに暮らすことができる。約束が守られるのならば、それはきっと幸せな世界となるだろう。ルーナの成長を見守りながら、何処かしらで学ぶニフテリザの噂を耳にする。まるで人間のようだ。休息をとるアルカ聖戦士のような生活ができることは間違いなく幸福だろう。


「カリスから見て、ここの人たちは信用に値する?」

「……信用?」


 そっとうかがわれ、私は正直に言った。


「ここに身をゆだねるのが怖い。誇りだなんて高尚な理由なんかじゃないわ。指輪をしたまま閉じ込められるのが怖いの。ルーナは本当にひどい目に合わずに済むかしら。そして、私は、不自由さに苦痛を感じずにいられるかしら。そればかりが不安で、誰にどれだけ説得されても、リリウム教会を信じることが出来ないの」

「怖い……? お前らしくない言葉だな。心配せずともこの組織はそこまで悪魔ではない。たしかに全のために一の犠牲を厭わないところはあるだろう。だが、お前は〈赤い花〉の聖女として十分尽くしている。そんなお前をぞんざいに扱えば、真面目な関係者たちの信用を失うことになる。そうなれば、どんな有難い神の言葉も通用しなくなるだろう。幹部連中がそれを恐れないとは思えないぞ。ただでさえ、リリウム教会関連の各国の情勢に嫌気がさし、己の信仰のために外れている革新派たちもいるのだ。ここで人々の団結を失うことが奴らにとってどれだけ恐ろしいことか」


 納得のいく説明ではあった。


 向けられる友好的な態度に触れれば触れるほど、疑いの心は鈍っていく。かつて、私が肌で感じ取っていたのはリリウム教会がかつて示した古い教義を守る者たちの強い拒絶の空気だった。今だって、各国の町に立ち寄れば、同じような空気を感じ取る瞬間があるだろう。それでも、身分が変われば世界も変わってしまうものなのだ。ここ最近、ずっと、私が肌で感じているのは、こちらが辛くなるほどの純粋無垢な人々の信愛と、それとは正反対の情を失った殺伐とした空気だった。


 単純な善意だけならば信用しきることが怖い。それでも、何か理由を見つければ、すんなりと納得できるものなのかもしれない。カリスの言葉は、それだけ強い力を持っていた。ブランカが直接信じるようにと訴えてくるよりも効果的だっただろう。

 もちろん、すべての疑いが消えてしまったわけではない。それでも、私は疲れてしまったのだろう。指輪を手放すのが怖くなってしまったのかもしれない。自分の自由のために申し出を断ってよく分からない未来を歩むよりも、安全な場所で守ってやるという甘い囁きの方が魅力的に思えてしまった。


「さてと……そろそろ行かなくては」


 黙ったままの私に、カリスは言った。


「これが最後の説得だ。どう転ぶかは分からないが、どんな結果であれ、まずはお前に報告しよう。お前の方も、今はまず静かに教会を見つめているといい。焦らされるままに納得できない約束などする必要はない」


 そして、立ち上がるとそのまま影の中へと消えていった。

 取り残された後に待っているのは、深い沈黙と思考の時間だった。長く変わらないと信じた価値観が今になって大きく揺らいでいる。カリスが最後の説得を終える頃には、私の心はどうなっているのだろうか。


 この指輪さえ返さなければ、カリスとの関係も終わらない。

 ルーナの成長を見守る日々はきっと、静かで幸せなものだろう。

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