5.ジズの祝福
聖シエロ礼拝堂は、想像していたものよりも小さな場所だった。
事前に案内されていたペンナ礼拝堂と聖ジズ礼拝堂は、どちらもかなり広かっただけに、少し驚いてしまった。特に、常日頃一般公開されているペンナ礼拝堂の広さは圧巻なものだった。期間限定で公開される聖ジズ礼拝堂も負けてはいなかったが、ペンナ礼拝堂に存在する翼を広げるジズ像はあまりにも美しく、リリウムの使徒に守られる初代空巫女シエロの少女像も神々しいものだった。そこには分かりやすいほどの神秘が詰め込まれていた。
そういった場所が一般人向けのものだからこそ、公開されることのない聖シエロ礼拝堂の素朴さには驚いてしまったのだ。だが、素朴ながら目を引くのが正面奥にある祠だ。ここが大聖堂ではなく、大神殿であった頃の名残がそこにある。少なくとも、イグニスでは見ないだろうと思われるものだった。
通常ならば聖壇があるとされる場所に存在する祠には、古代文字が刻まれているらしい。気になるところだが、今は近づいて確認することができない。
祝福の儀は始まっている。
取り仕切るのはイグニスとは違い、司教や司祭などではない。助祭でもない。祠の前に立つのはここまで私たちを案内してくれたジブリールであった。そして、彼女に守護されるように立っているのが、空巫女ネグラ。〈金の鶏〉という種族である彼女の姿は、一見すると人間にしか見えない。だが、その目は鏡のように輝いており、人ではないという特徴がよく出ていた。ネグラは非常に美しい女性だった。口を開けば、聞く者の心を鷲掴みにする美声が飛び出し、祝詞までが芸術のようだった。
ネグラとジブリールの前で跪く美しい乙女が私の未来を約束している海巫女ブランカだ。その後ろに、ブエナとゾラ、ゾロの三名が続く。カルロスやその部下は私たちと同じ観客席で見守っている。同じく、ジブリールと同等の立場であるはずのラビエル医師やミケーレ隊長もそうだった。アズライルはさらにその後ろだ。若手の鳥人戦士たちを引き連れ、儀式の様子を真剣に見守っている。
ここに参加出来ていないものが大半である中、ああやって最後尾であっても見張りを任されることは名誉であるのだと耳にした。ルーナが何処からか聞いた話ではあるが。
ともあれ、そんな神聖な場に、私はルーナの手をしっかりと握りながら参加していた。イグニスの時よりも慣れたためか、以前のような拒絶感はもうなかった。それに、カエルムの祭儀は心地よい。おそらく、ここにはあらゆる魔を拒絶する空気が一切流れていないからなのだろう。
イグニスの時とは違って女性も混じっている鳥人や〈金の鶏〉からなる聖歌隊が奏でる唄の詩は、ジズを称え、すべての魔物たちの救済を求めるイリス語の詩ばかりだった。その中に私の横で純粋に美しさに酔いしれる〈金の卵〉ルーナも含まれていたらどんなにいいだろう。この件に関しては、脱〈金の卵〉を掲げるラビエル医師の存在で、少しは納得できた。今はただ、いつか、歌われる詩の世界が来るように願うしかない。
祭儀が進むと、申し訳程度にアルカ語でリリウムの神や救世主を讃える唄が歌われたが、それっきりだ。カエルムで何が重要視されているかがはっきりと分かる瞬間だった。ここは本当の意味で、魔物のための世界なのだ。
「我らの主ジズは声高々に告げました」
やや鋭い口調でネグラがそう言ったとき、聖シエロ礼拝堂の天井付近で鷹のような声が響き渡った。私もルーナも釣られて見上げてしまった。もちろん、そこで鷹や隼などが放し飼いにされている様子はない。ただ声だけが響いただけだ。
同席している鳥人戦士たちや〈金の鶏〉たちは動じていないが、同じように気を取られたのはニフテリザやカルロス、カルロスの部下たちもそうだった。
「『この空は空を舞う者の為の世界。生きとし生けるすべてのものを見守りながら、慎ましく生を全うすべきである』と。そして、三聖獣に捧げられる花嫁たちに優しく語りかけました。『主を信じ、病める時は我らの空を見上げなさい。いつか死があなたを迎えに行くこともあるだろう。しかしそれはつかの間の休息にすぎない。恐れるようなものではないのだ』と」
唱えるネグラの姿はとても神々しい。その隣でじっと立ち尽くしているジブリールは守護天使の彫刻のようだとしか言いようがなかった。現実離れした光景が、大して広くない聖シエロ礼拝堂の中で繰り広げられている。そのうっとりとするような美しさは感心するが、同時に、圧迫感も感じてしまった。
と、そんな私の横でルーナは息をのんだ。握っているその手に力がこもる。目の輝きは面白いことを見つけて観察するときの猫のものに似ている。きっと、この空間に純粋に感動しているのだろう。
やがて、カエルムならではの面々で構成された聖歌隊が、最後の美声を聞かせてくれた。イグニスの少年たちも大層美しい声を聞かせてくれたが、ここはここでうっとりしてしまうような世界が存在した。人間離れしたその音楽の世界に、ルーナの関心はますます引き寄せられていく。
そうして、彼女が夢見るのはカンパニュラでの音楽漬けの日々だろうか。愛らしいその瞳が見つめる先に、彼女が望むような明るい毎日があることを祈るばかりだ。
ここは全ての魔物たちの幸せを願う場所。リリウム教会の勢力が増した後も、破壊し尽されるわけではなく、うまい具合に融合した現状は有難い。
こうして見つめていると、かつては蔑んだこともあった世界が、私の目から見ても輝きを失っていないように見えるのだから不思議なものだ。
脳裏によみがえるのはアズライルの言葉。そしてそこから感じた思い。純粋に感激したというわけではない。所詮、彼の言葉だって部外者の同情にすぎないと思う。それでも、彼らは考えようとしてくれている。聖なる力の問題点や矛盾、疑問に、彼らなりに向き合い、解決しようとしていた。それは、この私であっても、純粋に嬉しいと思えることだったのだ。
それは、一晩、自分の気持ちに向き合って、気付いた感情だった。
「ジズの祝福があらんことを」
空巫女ネグラの言葉を合図に、聖歌隊がおそらく最後となるだろう唄を歌い始めた。アルカ語で歌われたのは、イグニスでも聞いた覚えのある歌だった。しかし、その語られる内容について、今回はさらに耳を傾けてしまった。
三聖獣たちが神に出会ったという内容。それは、単純にリリウム教会の権威を示すものにも思えるが、ぶつかり合うはずだったものたちがうまく混ざり合い、互いの落ち着く形に収まるというものだった。理想を語っているだけともとれるが、カエルムはまさにそういう場所だ。カシュカーシュ統治時代の名残とリリウム教会の影響と古代からのジズと鳥人、〈金の鶏〉たちの守ってきた風習とが混ざり合って残る世界だった。
ただ明日を生きることしか考えられなかった日々には気づかなかったものが、そこにはあった。野生を忘れた猫とネズミが寄り添っているような光景が目に浮かぶ。それが間違っているのか、理想の形なのか、私にはどうしても分からない。しかし、少なくとも手を繋いでいるルーナが求めるだろう世界だとは思った。
私が求めるものは、ルーナの喜ぶ顔だ。ルーナが幸せならそれでいい。その世界をリリウム教会が実現できると約束するのならば、信仰心など欠片も持たずとも協力はし続けるつもりだった。
ここは悪い世界ではない。飼いならされることも、不幸ではないのかもしれない。
カリスの姿を思い出し、私は静かに自分の祈りを捧げる。捧げる先は精霊であり、大地である。私の信仰と彼らの信仰はだいぶ異なるはずだが、それでも、本来は憎しみ合うようなものではないと少しだけ信じることも、悪くないかもしれない。
祭儀が終わった後も、恍惚としたものは残り続けた。
ルーナたちが祭儀の印象を引きずりつついつものように過ごす間も、私は今まで以上にぼんやりとしてしまっていた。客間にこもっていることも落ち着かないほどだ。グラディウス御殿の廊下をさまよい、なんとなくその雰囲気を、その空気を、全身で感じてみたかった。
目に映るすべてが昨日までとは違う姿に思える。
変わったのは世界だろうか。
「アマリリスさん、でしたね」
さまよいながら御殿の装飾の隅々までを見つめていると、急に話しかけてくる者が現れた。その声を聴いて、はっとした。ブランカではない、だが、ブランカと同じくらい立場のあるものがそこにいた。
ネグラだ。祭儀の時には離れていてもよく伝わったその美しい姿が、今度はあまりにも近くにあったものだから、一瞬だけ目が眩んでしまった。
「〈赤い花〉の聖女様。神様がわたくし共に導いてくださった貴重な御方。その指輪を受け取り、ブランカ様をお支え下さり、わたくしもとても感謝しております」
「い……いえ」
すぐに畏まった態度をとろうとしたが、ブランカと初めて会ったとき並みの緊張感に圧されてしまった。
隣に立つ従者もまた〈金の鶏〉だ。しかし、反対隣りにいるのは鳥人の女性である。ジブリールほどではないが、厳しさの現れた表情はなかなか威圧的だ。ラビエル医師のような人ばかりだったらいいのにとつい思ってしまう眼差しに、緊張が高まっていく。
「それに、あなたをお慕いしている可愛い女の子のことについてもお聞きしました」
ネグラは優しそうな口調で告げる。
この場でラビエル医師のような雰囲気を宿しているのは彼女だけのようだ。
「ルーナさんというのですね。あの子がカンパニュラで学ぶ日々のもたらすものに期待しております。のびのびと学習するあの子にカンパニュラの大勢の学生が関心を持てば、いつかは先代の空巫女が関わってしまったという罪の連鎖にも終止符を打てるに違いありません」
「……〈金の卵〉のことですね」
訊ねてみれば、ネグラは笑みをひっこめた。
「ええ、信頼のおける鳥人や〈金の鶏〉の聖職者を中心に、〈金の卵〉の命に頼らずとも聖油を製造する努力を積み重ねました。しかし、わたくし共の訴えは世界はもちろんのこと、イグニスの方々にすら、なかなか伝わりません。歴代の教皇もこの問題ばかりは後回しになさいます。納得はいきませんが、恨むわけにもいかず。歯痒く、心苦しい日々を送っているのです」
「彼らはその変化に必要性を感じていないのかもしれませんね」
なかなか棘のある言い方になってしまったが、後悔はしていない。
本心からのものだ。リリウム教会の者の一部には、これまで不快な思いをしてきた恨みに似たものもある。一方で、警戒するところのない人物もいると心から思えるようになったのは、本当に最近のことだ。
そんな私の心情を理解したのか、ネグラは言った。
「ブランカ様にお聞きしました。あなたはリリウム教会に警戒心を抱いているのだと。残念なことですが、それについて咎める気はありません。わたくしもまたイグニスの長官方より、ルーナさんだけではなく、あなたにもカンパニュラに残ってもらえるように説得するようにと言いつけられておりますので」
「……結論は決まっていらっしゃるのね」
やはり、こちらも攻防は続くのだ。
シルワに行っても、イムベルに行っても、様々な人から同じようなことを言われ続けるのだろう。
「悪いようにはしない、とのことです。執拗な勧誘はお嫌いになることでしょう。ですが、分かっていても、わたくし共はあなたが我々の目の届かない場所に行ってしまうことが怖いのです」
「いなくなったりはしません。だって、ルーナを預けますもの。ほんの少しだけ、心を保つサポートしてもらえたら、いつでもまたお力になります」
「指輪をお返しになった後のことですね。できる限りのことはするようですが、実を言えば不安です。あなたの性が捕食でなかったならばどんなに良かったか。あなたには申し訳ありませんが、わたくし共にとって、善良なる人狼たちもまた兄弟であり、姉妹であるのです。対象が居場所のない罪人になるとはいえ、魂あるものを使い捨てのようにあなたに捧げることが、少し怖いと思ってしまうのです」
きっとこの人はジズの膝元しか知らないのだ。
そう思ったが、蔑むつもりはない。ただ、悲しかった。生きるための暴力を怖がり、拒絶できる立場は羨ましく、悲しかった。
魔女の性のない今ならば、私だってネグラと同じになれるだろう。しかし、私は自由を取り戻すべく、指輪を返すと決断した。この決断を無視するのは怖いことだ。
けれど、羨ましさは決めたはずの私の心を蝕んでしまう。そこへ圧し掛かるのが、アズライルたちとの会話の記憶であり、大きく揺らいだリリウム教会への印象であった。
頑なになり続けることの是非がわからない。
それは大問題でもあった。
「それに、情けないことですが、わたくしは臆病者なのです」
ネグラは声を潜め、私に訴えてきた。
「得体のしれないソロルがわたくし共を狙っています。ブランカ様の輿入れが無事に終わっても、ソロルとそして今もどこかに現れているその他の死霊たちの脅威は消えません。あなたが教皇領にいる限り、死霊は伝説を恐れるでしょう。そう思うと、やはりこのわたくしも、あなたに留まっていただきたいと、そう思ってしまうのです」
私のためを思って、ではなく、これは自分のための願いだ。
誰だって命を脅かされるのは怖いだろう。これまで誰にも守られずに長く放浪生活を続けてきた私だって分かることだ。それゆえに、この訴えはなかなか心に響くものだった。色々と対面して考えが変わりつつある今だからこそなのか、今まで以上に素直さがあるからだろうか。
なにはともあれ、ネグラの訴える姿は、脳裏に焼き付いてしまいそうなほどだった。
「身勝手なことですよね。尊重すると言っておきながら……すみません」
ふと、ネグラは我に返る。
「出過ぎた真似をお許しください。このことはどうか内密に。とくにジブリールには言わないでいただくと有難いわ」
私と、傍にいた従者たちに向かって彼女は言う。
おどけた様子を見せてはいるが、うっかり出た本心だったのだろう。心配させたくないのか、何か確執めいたものがあるのかは知らないが、ともあれ、私は従者たちと同じような苦笑いを浮かべ、頷いたのだった。




