4.グラディウス御殿にて
グラディウス御殿に戻れば、そこにはまだ誰もいなかった。
何事もなかったように扉を閉めておいたのだが、直後、ばったりと出会った人物の表情を目にして、諦めてしまった。
隠し事なんてなかなか出来たものではない。ただの人間相手ならばまだしも、鳥人だの吸血鬼だの、人狼だのが相手であれば当然だ。
私とコックローチの密談を嗅ぎ取ったのは思っていた通り、カルロスだった。彼の気配の接近のせいで大切な情報を少なくとも二つ、買いそびれた。それは腹立たしいことだが、もともと堂々と会えるような立場でないのは承知だから、怒りを向けることもできない。
カルロスの表情は険しかった。だが、その感情は私に向けられているのではない。彼は閉められた扉の向こうを睨んでから、手招いてきた。
「アマリリスさん、ちょっとこちらへ」
棘のある言い方だ。だが、以前よりも距離は縮まったほうだと思う。もともと彼との出会いは殺し合いだった。こうして礼儀正しく話すのも違和感があるはずだろう。しかし、旅はそう短くないし、会話の回数も増えれば慣れてくるものだ。従うままに近づいていけば、カルロスは怖がりもせずに私の腕を掴むと小さく唸った。
「やはりあの翅人だな。アマリリスさん、奴とはどういう関係で?」
思ってもいなかった力の強さに怯んでしまった。普段、人狼の力強さを意識することはない。彼らはいつだって私に触れる前に死んでしまうのだ。中には油断させるために触れさせたこともあった。だが、その記憶は遠いものだし、ある程度覚悟をして受けるものと油断したときに受けるものとは全然違う。
「何でもないわ。ただ、情報屋と客の関係ってだけ」
「情報屋……それは俺も知っている。だが、本当に情報屋ってだけだろうか。アマリリスさん、あなたは知っているかな? 翅人の職業の割合について」
「花売りも多いってこと? 知っているわ。でも――」
言いかけたところで、カルロスの力がさらに強まる。その痛みに声が詰まった。
「やはりあなたは大胆な人らしい。わざわざ教会まで出向いて俺を殺しに来た時から何も変わっちゃいないようだね。指輪が抑えるのはあなたの性だけ。気性のすべてを抑えるわけではないことは我々も覚えておかねばならないようだ」
「彼は……詐欺師などではないわ」
「ああ、情報屋としての質は疑っちゃいない。あのソロルのことで、奴の世話になったこともある。しかしね、俺が警戒しているのはそこではないのです。あなたが一人きりで奴と会うことは望ましくない。情報屋は花売りを兼業していることもある。腕のいい花売りは、長い年月をかけて獲物を信用させるものだ」
「でも、コックローチは……痛――」
口答えしようとすれば、またしても腕を締め上げられた。別に虐めているつもりはないのだろう。カルロスはやや乱暴に扉のそばから私を退かすと、そのまま力任せに扉を破り、外を確認した。
コックローチが立ち去って少し経つ。そこにはやはり誰もいなかった。そのすべてを確認すると、カルロスはやっと心を落ち着けて扉を閉めた。
「とにかく!」
人間の姿をしているが、その目は野獣のようだった。
「奴とあなたが二人きりで会うことは許可できない。悪いが、このことはウィル様に報告させてもらう。窮屈かもしれないが、これもあなたの為だ。もしも、役目を果たし、指輪を返して立ち去り、我々人狼を脅かす存在に戻るのだしても、あれは信用しない方がいいと助言しておこう。利用してもいいが、信用するな。ルーナ嬢を悲しませたくないのならね」
「……ルーナのために、慎重になれってことね」
「そう言えば、あなたは聞いてくれるだろうからね。……さて、煩い説教はこれくらいにしておこう。どんな情報を買ったんだ?」
「サファイアの夫について」
「我々に聞かせられるものか?」
「彼は……ジャンヌというアルカ聖戦士と知り合いだったそうよ」
「ジャンヌ?」
考え込むカルロスに、私は付け加えた。
「シトロニエ出身のアルカ聖戦士。……私がマルの里を訪れる少し前に殉職したの。人狼狩りのためにシトロニエのジュルネの町に入っていた人。調べればすぐに分かるのではない?」
「そうか。じゃあ、伝えておこう。……だが、死人の交友関係となるとまた時間がかかりそうだな」
「ずいぶんと親しかったようよ。ジャンヌが死んだとき、その場にいたのですって」
「現場にいた……ジュルネの町……ジュルネ教会に当たれば身元が割り出せるか」
「カリスもその場にいたみたいだけれどね」
そう言ってみれば、カルロスもまた大きくため息をついた。腕を組み、苛立ちの表情をみせる。その様子だけで、今のカリスの態度をどう思っているかが一目瞭然だった。
「あの女、やはり隠し事ばかりじゃないか」
「あなたたちは、カリスのことも監視しているの?」
「さてね。俺は知らない。だが、そうかもしれないな。説得したいという希望のために配慮してはいるが、一向に進展がないと来た。いつまでもこうしてはいられんぞと直接言ってあるが、俺が言っても生意気な返答しか寄越さない。このままだと過激な連中に拷問にかけられてもおかしくない。立場が悪くなってしまうぞとあなたから伝えておいてくれますかな」
「……分かったわ」
物騒な人だが、彼なりの優しさなのだろう。それが適切かどうかはともかくとして、カリスもどうしてこういった立場の同族ではなく、よりによって難しい立場の人間に恋なんてしてしまったのだろう。
「――それと、サファイアの夫についてもう一つ。あの情報屋によれば、彼はただ単にソロルを支えているだけではないようよ。聖剣を悪用しようとしているのかも。ここを含む聖地でよからぬことを企んでいるかもしれないと言っていたわ」
「聖剣を悪用……か。分かった。警戒しておくよう鳥人たちにしっかりと伝えましょう。ただ、彼らは古代の神様のご子孫たちだからね。一人の人間の力などあまり重く見ないだろうね」
「それでも、あのソロルの危険性は伝わるでしょう。マルの里で竜人戦士を殺した。そんなソロルが守るアルカ聖戦士よ。警戒するに越したことはないわ」
「……うむ、分かった。マルの里での悲劇も強調して伝えておこう。怒鳴って悪かったね、アマリリスさん。もう行っていい」
「――ええ」
そうして、やっと解放されたのだった。
カルロスの厳しい視線を背中で感じながら、私は考え続けた。
コックローチがどういう人物かなんてこの際、どうでもいい。彼がカルロスの恐れるような人物であったとしても、みすみす捕まるつもりはない。彼の人柄まで信用しているつもりはないからだ。だが、彼の情報の質は信用している。それによれば、カリスは私が思っている以上に苦しんでいるようだ。
今度、直接会ったときに、あらためて話してみよう。彼女も分かっているつもりのようだが、時間は残酷だ。そろそろ気持ちにけりをつけてもらわねばならない。冷たいかもしれないが、それだけの罪を彼は犯しているのだ。
それに、不安なこともある。
「彼らはここで何を企んでいるのかしら……」
いくら何でも鳥人戦士が目を光らせる聖地で、空巫女を襲うことなど難しいはずだ。ソロル単体でもいつかは肉体を滅ぼされるだろう。それなのに、聖剣によって一人の人間に何かをそそのかしている。それは何なのか。彼らは具体的に何をするつもりなのか。
答えの見えないまま考えていると、急に無邪気な笑い声が聞こえてきた。見れば、前方にルーナとやや困り顔のニフテリザがいた。話しかけている相手は三名の鳥人。その一人の顔に見覚えがあった。二人は立派な嘴があるが、彼にはない。浅黒い肌や特徴的な顔立ちも、少し懐かしいものだった。
「アズライル……」
呟いたとき、ルーナがこちらに気付いた。
「あれ、アマリリス! 起きていたの?」
その言葉に三名の鳥人たちもこちらを向く。
アズライル以外は知らない者たちだった。だが、身に着けている衣服や紋章で、特殊な立場にいることがわかる。ここに仕える他の鳥人戦士とは違うようだ。どちらも男性だ。片方は猛禽類らしい厳つい顔をしているが、もう片方の者はとても優しそうな眼差しをしていた。どちらも私に気付くと丁寧に礼をしてみせた。
ルーナがいつの間にか駆け寄ってきている。手を引っ張り、私を輪の中に入れようとする。相変わらず、無邪気なものだった。
「あのね、アズライルだよ。覚えているでしょう?」
「ええ、もちろん」
「こっちのカッコイイお兄さんはミケーレ隊長で、こっちの優しそうなお兄さんはラビエル先生だって」
「先生?」
尋ね返すと、ラビエルと紹介された優しそうな鳥人が答えた。
「私はカエルム大聖堂の侍医です。ジブリールやミケーレ隊長と共に空巫女ネグラ様に仕えております」
「……そうでしたか。はじめまして」
正式に挨拶をする前だが、おそらく、後でまた顔を合わせるだろう。思っていたよりも上の立場だったので少し怯んでしまった。
「アズライルにルーナさんとニフテリザさんを紹介してもらっていました。ルーナさんはとても利発的なお嬢さんですね。カンパニュラで音楽を学ぶのだとか」
「え……ええ、その予定です」
曖昧な返事になってしまったのは、イグニスでのウリアとのことがあったせいだろう。
身分ある鳥人戦士に見つめられていると、ルーナを預けて去るという選択を取ろうとしていることが咎められているような、そんな気になった。
しかし、ラビエルは穏やかな表情のまま、柔らかな笑みを浮かべた。
「素晴らしいことです。ルーナさんのような〈金の卵〉が真摯に学ぶ姿は、きっと学生たちの心を揺り動かすでしょう。あまり大きな声では言えませんが、我々の中でも〈金の卵〉の聖油については賛否両論なのです。聖油は魔樹などからも取れます。そちらを使うべきだという声はカエルムでは大きいのです。我々の巫女ネグラ様は〈金の鶏〉であらせられますからね」
真剣なその言葉に、少し安心感が生まれた。ミケーレ隊長の方は何を考えているか読み取れない。喋るつもりもなさそうで、アズライルの横できりっとした顔をしている。ウリアの態度にも似ているが、それよりも尖ったものがある。持っている槍も物騒なもので、恐らくこれには大量の〈金の卵〉の皮脂が使用されているのだろうと想像できた。
それでも、ラビエルの言葉に反論をするつもりもないらしい。彼はただ黙ったまま、この場に同席していた。なので、私の方も安心してラビエルと話すことができた。
「やはり、ネグラ様は心を痛めているのですか?」
落ち着けば、世間話くらいは余裕なもの。ニフテリザやルーナが傍にいるからなおさらだ。それに、これは個人的にとても気になる質問でもあった。
ラビエルは静かに頷いた。
「聖油はあらゆる場面で使われます。我々のような医師も、聖油に頼ることがございます。けれど、〈金の卵〉の犠牲で作られた聖油には、鳥人として抵抗があります。彼らは我々の敬愛する〈金の鶏〉たちの息子や娘であるようなものですから」
「……それでも、あなた方でも御止め出来ない事情があるのですね」
そっと述べると、ラビエルとアズライルの表情がさっと暗いものになった。ミケーレ隊長の表情はさほど変わらない。かねてから想像する聖戦士らしい印象を彼だけが強く持っている。
「我々の世界は理想だけでは成り立ちません」
落胆の気持ちを込めたラビエルの返答に、ふと目を向ける。その顔はだいぶ鳥に近いが、それでも私がこれまで誤解してきたよりも、表情の読みやすい顔だ。きっと、その見た目通り、天使のような人と称されるような人格なのだろう。
「正義とは何か。優先すべきことは何か。守るべきものは何か。そういった価値観の齟齬はどうしても生まれるのです。とくにカエルムとイグニスは優先すべきものが違います。イグニスで聖油作りに携わっている人々の新しい生活基盤の準備などについて、資金調達や土地の確保などといった話し合いをするだけでも決着がつかないのです」
「……それでも、あなたはいつかこんな時代が終わると思っていらっしゃるの?」
責めるつもりはなく、ただ確認のために訊ねた。ニフテリザはそんな私をひやひやした表情で見ている。ルーナは話が難しいのか、きょとんとした顔をしていた。ルーナの方はそれでいい。まさか自分が当事者であり、それもかなり暗い内容なのだとあまり知ってほしくなかった。
ラビエルは悲しそうな眼をした。その表情で、だいたいのことは分かった。きっと思い続けているのだろう。思い続けてきたのだろう。しかし、こんな目をしてしまうほどの時間が経っているのだろう。
ラビエルが言葉を見つけるのを待たずして、アズライルが口を開いた。
「ああ、そうだ。紹介しましょう。ラビエル先生は、実際に研究のために魔樹より特別な聖油を生み出していらっしゃいます。とても素晴らしい聖油で、魔力を宿してはいますが、魔女や魔人の同胞たちが安全に使えるような対策もされている優れものなのですよ。そもそも、世を震撼させる悪人は純血の人間であっても現れます。それなのに、魔女や魔人だけが危険に曝される聖油なんておかしいはずですからね」
アズライルがにこりと笑ってそういった。
「そう……思われるのですか?」
訊ね返してみると、アズライルもラビエルもほぼ同時に頷いた。
不思議そうな表情だ。その姿を見て、私の中で一つの気づきが生まれた。彼らにとっては、当然の問題なのだ。それを当事者である私が意外そうに訊ねることに、少し驚いたのだろう。
「ええ、思いますよ。当然のことです。我々の敵味方は種族では決まりません。魔の血を引いているというだけで一部を除き断罪される時代は終わらせなくてはならない。どんなに厳しい現実があろうと、この理想だけは忘れないようにしております」
ラビエル医師の言葉に、これまで頑なだった何かが崩れていく気がした。
聖なる武器は恐ろしいものだ。それだけ魔女や魔人という存在が人々の恨みを買った歴史もあったのだろう。だが、〈金の卵〉由来の聖油が魔女や魔人に対してだけ即死するほどの毒性を産んだのは、偶然だとも聞いている。そもそも〈金の卵〉を生み出した錬金術師は魔人だといわれている。それゆえ、彼が〈金の卵〉を生み出した際に使ったといわれる魔人の血液が何か関係しているのだろうと推察されている。
そういった偶然に過ぎないのに、聖油の魔女や魔人への効果は奇跡の力だとか聖なる力だとか言われている。悪人は魔女や魔人だけではないのに、と嘆く善良な魔女や魔人もいるが、私はもうそういったものには慣れてしまったものだった。
それでも、アズライルのような多種族の者がそう言ってくれると、なんだか心が軽くなった。これまでぴしゃりと閉ざし続けていたせいで錆びついてしまった心の扉が少しだけズレたような、そんな気がしたのだ。
「そう……ですよね。ええ、そこが代わるのでしたら――私としても……嬉しいことです」
この戸惑いは”意外”のためだろう。頭の中で、私はどうもリリウム教会の実態をひとつのイメージに固定化してしまっていたのかもしれない。
しかし、違う。このイメージに囚われていてはいけない。固定概念に支配されながら見つめ続ければ、見落としてしまうものがたくさんあるはずだ。これまではそれでもよかったが、今の状況の私に必要なことは、常に広い視野を持つことなのではないだろうか。
それは、私の長年に渡る価値観がようやく変化し始める兆候だった。




