3.聖鳥の止まり木
カエルム大聖堂およびグラディウス御殿は山の上に突然建っていた。
思わずそう表現してしまうほど、圧倒的な姿だった。一体どうやってこんな山の上に建てたのだろうと思ってしまうくらい、見事なものだ。
大空を飛び回るという聖鳥ジズが翼を休める聖地。よって、ここは「聖鳥の止まり木」という異名もある。いわれてみれば、大聖堂と御殿は止まり木のような形をしていた。
カエルム大聖堂とグラディウス御殿はつながっている。右に大聖堂があり、左に御殿がつながっている。そのうちの、大聖堂のみ一般礼拝者の立ち入りが許可されているようで、出入り口には人だかりができている。一般公開されているのは、大聖堂の中の三つの礼拝堂のうちの一つだけ。そこで人々は祈りを捧げ、立ち去っているらしい。季節によってはもう一つも公開されるが、今はその時期ではない。
そして、御殿に近い部分にあるもう一つの礼拝堂だけは関係者しか立ち入れないものだと教えられた。名前は聖シエロ礼拝堂である。祝福の儀はそこで行われるらしい。ジズの祠もそこにあり、大聖堂ではなく大神殿であった時代の名残も多数存在しているという。
グラディウス御殿には巫女や巫女の従者、聖職者たちの一部が居住している。大聖堂と同じ規模であり、通された客間もやはり広かった。内装や雰囲気は各地の教会のものに似ている。
壁には不自然な十字架がかけられているが、やはり特殊な魔術がかけられているわけではなく、影道に対しての抵抗力もないようだった。そこは安心だ。カリスからの緊急連絡も問題なく受け取れるだろう。
「ねえ、アマリリス」
すっかり疲れ切ってひと眠りでもしようかと思っていたところへ、ルーナが話しかけてきた。うとうとしていた目をこすりつつ返事をすれば、ルーナは嬉しそうに訊ねてきた。
「あのね、遊びに行ってもいい?」
「ダメ」
即答すると、面白いほどに頬が膨れた。
「どーして?」
「人がたくさんいるから。あなた、大聖堂にはいかないって約束できる? できないでしょう? だからダメ」
「できるよ! グラディウス御殿だったらいいでしょう? 入っちゃダメなところはちゃんと守るもん。教会のひとたちにちゃんと聞くもん」
必死に訴えてくるその姿は可愛いが、許可を出しづらい。眠いまま困っていると、隅で聞いていたニフテリザが割り込んできた。
「よかったら、私が一緒についていこうか?」
疲れているだろうに、そんなことを言い出した。遠慮しようかとも思ったが、彼女は彼女でそわそわしている。ルーナを任されずとも、ここでのんびりするつもりはないのだろう。やや力が入りすぎである気もするが、ニフテリザはいい大人だ。彼女のしたいようにさせてやろう。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「やったあ!」
ニフテリザが承諾する前に、ルーナがはしゃぎだした。だんだんと気も抜けてきたのだろう。心配なのは相変わらずだが、ニフテリザが一緒なら大丈夫のはずだ。
「じゃあ、アマリリス。ゆっくり休んでいて」
ニフテリザはそう言って、ルーナと手を引き退室していった。
残された後に待っているのはいつものような沈黙だ。とりあえず、カリスの気配を探ってみるが、近くにはいないらしい。こういう時の話し相手にちょうどいいのだが、仕方ない。
と、そんなことを無意識に考えている自分に気付いて戸惑いを覚えた。カリスが話し相手にちょうどいいだなんて。すっかり今の状況に毒されてしまったものだ。
「……やっぱり、私もカンパニュラにいた方がいいってことかしらね」
リリウム教会に身をゆだねるのはまだ怖い。しかし、ゆだねる覚悟ができれば、カリスとも敵対せずに済む。ルーカスとエリーゼを殺したのが私であることは変わらない。それでも、指輪によって魔女ではなくなった私だったら、カリスとの関係は確実に変化する。特別である今の状況が、通常のものへと変わるのだ。
指輪をはめて、カリスからの報告を待つようになってどれだけ経っただろうか。いつの間にか私は、この関係の終わりを不安に思うようになっていた。たった一つの指輪がつないだ縁。ルーカスとエリーゼのことで私に仕返しをしないというのなら、性なき今はカリスと敵対したくない。
――その性によってお前自身の心が苦しめられていたことを私は知っている。
カリス。あなたは何者なのだろう。
ぐるぐるとかつての獲物の幻影が脳裏に浮かんできたその時、ふと私の眠気を払拭する気配を感じ取った。カリスではない。ただ、その覚えのある気配は客間よりそう遠くない場所から感じられた。大聖堂にいるのなら、こんなに近くに感じはしないだろう。
ということは、グラディウス御殿のすぐ外だろうか。
眠気はすっかり消え去ってしまった。起き上がり、引き寄せられるようにその気配をたどる。さほどその構造に詳しくないグラディウス御殿をさまよいつつ、どうにか裏口にあたる場所を見つけてためらいつつも外に出た。現れる景色に目を奪われる。扉を出て、少し歩いた先にあるのは崖だ。その向こうは大空。そこは、カエルム地方の大自然が見渡せるとても静かな場所だった。
崖の手前に座り込み、風を感じながら眺めを楽しんでいる人物を見つけると、微かな安堵感と疲労を覚えた。思っていた通りの人物の背中だ。
扉をしっかりと閉める音が響くと、その人物は話し出した。
「やあ、アマリリス」
コックローチ。立ち入りは許されていないはずだが、そんなことは承知だろう。
「久しぶりね、コックローチ。あまりにも姿を見ないから、つまらない魔物にでも食べられてしまったかと思っていたわ」
「いやはや、不吉なことを言うものだね。せっかく久しぶりに会ったというのに」
「あなたが現れるということは、また何か私に売りたい情報を見つけたのね」
翅人の情報屋は無駄なことをしない。私の前に来るということは、私に売れる情報が確実にあるということだ。聖戦士に睨まれる危険を冒してまで来るということは、それだけ自信のある情報なのだろう。
「教えて」
「ああ、あるよ。君の前に現れるのは久しぶりだが、君をずっと見ていなかったわけではない。ついでに、私は君の知りたいことの一部を知っている。たとえば、〈罪人〉は、君が興味を持ちそうな商品だ」
「サファイアの夫のことね」
一瞬で想定できた。コックローチが振り向く。いつもながら嫌な笑みだ。長い縁であるし、彼の情報は信頼しているが、彼のような翅人の一部が花売りとして〈赤い花〉の子どもや弱者を誑かしていることを忘れてはいけない。
「そうだ。それと、君の愛してやまないカリスのことも見てきた」
「買うわ。いくら?」
訊ねればコックローチは指で示す。ここは教皇領だ。だから、単位を考えると……結構取られるらしい。
「おっと、待てよ。やっぱりこっちだ」
と、即座にコックローチは思い出し、数字を減らした。その額なら問題ない。教会から支給されている金銭もある。その額を投げてやると、コックローチはうまくつかんだ。
「確かに受け取ったよ。じゃあ、〈罪人〉について語ろう。この情報は、本当はもっと高い価値のものにしたかった。でも、同業者に邪魔をされてしまってね」
「同業者?」
「ああ、私と同じ翅人が彼の周囲をうろついている。こちらの情報も見られていることを忘れてはいけないよ、アマリリス」
情報屋に善悪などない。金をもらえば情報を売る。客を選ぶ者は多いが、そうでない者も少なくはないと聞いたことがある。
コックローチ以外の情報屋についてはよく知らないが、コックローチの質の高さを考えれば、サファイアの夫を相手にしている情報屋も侮れない存在だろう。
「お金が足りるようなら、その情報屋についての情報も買いたいところね……」
「まあ、それは後で。まずは〈罪人〉だ」
コックローチは指を立てて語りだす。
「〈罪人〉とはお察しの通り、サファイアの夫のことだ。本名を語りたいところだが、お得意様の一人にそれは駄目だと言われている。すまないね、アマリリス。これは額から抜いてあるから安心してほしい」
「そんな……誰なの、そのお得意様って」
「それは秘密だ。何せ、お得意様だからね。だが、サファイアの夫やサファイアを支配したソロルではないことは断言しておこう。それよりも、君は気にならないかな。カリスは本当に真実のみを語っているかということを」
「確かに、気にはなるわね」
「ならば、安心してほしい。私から見た彼女は確かにサファイアの夫を説得しては、失敗し、君のもとへ報告に行っている。健気なものだよ。しかし、彼女では知り得ないこともある。たとえば、彼女がいない間、サファイアの夫が愛しい妻の幻影と何を話しているのかということなど」
「じゃあ、何を話しているの?」
回りくどい話は嫌いだ。特に落ち着かないこの状況下で時間稼ぎはとても困る。睨むようにコックローチを見てやれば、彼もその意を悟ったらしく苦笑いを浮かべて素直になってくれた。
「君たちは彼が亡き妻の思い出に縋っているだけの哀れな人物だと思っているかもしれない。だが、そうでないようだと私は感じている」
「どういうこと? 何を見てそう思ったの?」
「ソロルが彼に言っていたのだ。『聖剣があなたの望みを叶えてくれる』とね。そう言われた彼は無表情だった。彼はイグニスで旧友とも会っている。その時は活き活きとした表情をしていた。それに、カリスと話すときもね。彼女の説得はいつも突っぱねるが、必死な狼を見るその目には何かしらの感情が確かに窺える。しかし、ソロルと二人きりの時は違うんだ。まるで彼自身も死人のように冷たい印象でね」
「聖剣が……願いを……?」
嫌な予感のする言葉だ。しかし、具体的に何を企んでいるかが分からない。まさか、彼に何かさせる気なのだろうか。私と戦わせるつもりか。いや、そうだとしたらここまで距離を離し続ける意図が分からない。
「あと、あのソロルはいよいよカリスの存在に苛立ちを覚えているらしい。二人きりの時は、よく彼に囁いているんだ。『カリスの話を聞くな。あの人狼を殺せ』と。物騒なものさ」
「それで、彼は?」
「彼は戸惑っている。実を言えば、同業者の目を盗んで、彼とカリスのことは以前から見てきたものでね。かつては本当に仲が良さそうだったんだよ、彼らは。火を囲んで語り合い、そのまま共に夜を過ごしていたこともあった。シトロニエにいた頃を覚えているかな? ジャンヌが死んだ日を覚えているかい? あの時も、彼とカリスは共にいた。……ああ、そうだ。これは言ってもいいはずだ。彼はジャンヌとも知り合いだったようだ。ジャンヌの悲劇の翌日、友人の死に落ち込む彼をカリスは慰めてもいたようだね。だからだろう。ソロルによって関係がこじれた後も、彼はカリスに怪我をさせたことがないらしい」
「ジャンヌの知り合い? カリスが慰めていた? ねえ、コックローチ。ジャンヌが死んだところもあなたは目撃したの?」
ジャンヌはてっきりカリスが殺したと思っていたのだが、もしかして違うのだろうか。
「ああ、見たね。同業者が一緒だったが、あの時は邪魔されなかったので、この目でしっかりと見ることができた。だが、ジャンヌの死については別料金だ。聞きたいかな?」
「……まずは〈罪人〉の話を」
「了解。では、料金いっぱい〈罪人〉の話を続けよう。サファイアの夫について。彼は優秀なアルカ聖戦士だ。戦う技術だけではない。知性も備わっている人材だった。死霊がどういう存在であり、どういう危険があるのか。そして、死霊に縋ればどんな立場となってしまうのか、彼はよく理解しているよ。理解していながら、どうしようも出来ないほどの苦しみに苛まれている。その一方で、カリスの説得に応じそうになっている瞬間もある。だからこそ、カリスは諦めきれないのだろう」
「彼が納得さえすれば、ソロルは弱体化するものね……」
弱点となる人物を排除すれば話は早い。最初にあのソロルと接触したときは、絶望しかけつつも冷静にそう思った。カリスが説得すると名乗り出た後も、その説得が失敗するたびに、どうにか見つけ出して殺してしまった方が早いのではないかと考えてしまうようになっていた。
だが、カリスは諦めていない。まっとうな人物に戻れる兆候を見ているからだろう。だからこそ、名前も明かさない。こっそりと彼をソロルから引き離し、同僚にも知られぬままアルカ聖戦士としてやり直させたいのだろう。
彼を愛しているのかと私は訊ねた。明確な答えは返ってこなかったが、否定はしてこなかった。だが、私が思っていた以上に、カリスの彼への思いは強いものであると見た。ソロルを恨んでいるのか。ただ単に彼を助けたいのか。その両方なのか。そこは分からないが、彼女は彼女で真剣なのは確かだ。
「……どうやら、君は本当に聖女様になってしまったようだねえ」
興味深げにコックローチが私を眺めてくる。その視線が不吉で、思わず指輪のはまる手を隠してしまった。
「あんなに殺したがっていたカリスに同情しているとは。あの頃の君はどこに行ってしまったのだろう。なんだか長年の友を失ったようで寂しいよ」
「同じようなことをカリスにも言われたわ……寂しいとは言われなかったけれどね。でも、今はどうでもいいの。魔女の性の感覚は消えてしまったもの」
「そうかい。じゃあ、君は安全な聖地で咲く花になるつもりかな? 正直、その方がいいかもしれないね。狭い世界で生きるとなれば、君に売れる情報は激減するかもしれない。だが、世界は恐ろしい。同族の中にも君のような希少種を血眼で探している人々がいてね、私のお客になったこともあったよ」
「へえ。じゃあ、これまでに私を襲いに来た無知で愚かな花売りの中には、あなたの情報を頼りにしていたものもいたのかしら」
「さあて、それはどうだろうね」
そう言って、彼は笑う。やはり信用のおけない男だ。情報の質は確かでも、人格は確かではない。十分に距離を取らねばならない人物だろう。
「それよりも、〈罪人〉の話には、まだ続きがある。彼の聖剣だ。別項目で料金を取ろうかとも思ったが、君はお得意様だ。特別に含めてあげよう」
「聖剣……」
「ああ。君にとっては猛毒だね。その事実は変わらない。ここで君と共に戦っている者たちの愛用する武器と一緒だ。だが、それ以外の部分が妙なんだよ。彼の持つ聖剣は時折、怪しげな光を放っている。ソロルはたびたび彼に言うのだ。『その聖剣が偽りの世界を正してくれる』のだと。そうして、彼らは巡礼者に混ざるらしい。単純に巫女を狙うのではなく、君と距離を取りつつ、少し遅れて巡礼するつもりのようだった。さて、ここで気になることが一つ。どうして、ソロルはサファイアの夫にも巡礼させようとしているのだろうね。どうして、聖剣は怪しく光っているのだろう」
コックローチは不思議そうな声でそう言った。
わざとらしく腕を組むその姿を見ると、なんだか苛々してしまう。
「イグニスでは、何か動きがあったの?」
「ないよ。向こうではかなりおとなしい。もともとイグニスに用があったのは彼だけだったようだ。ソロルは先回りも検討していた。君たちがイグニスにいる間にカエルムに向かい、さらにシルワへと向かう計画をソロルが話していたのだ。しかし、彼がイグニスにも向かいたいと告げたことで、計画が変わった。君たちの動きを待って、後を追う形になったのだ。どうしてだろうねえ」
「どうして、どうしてって、それがどうしてなのかを探るのがあなたの仕事でしょう?」
思わず嫌味を言ってしまえば、コックローチはけらけらと笑った。
「それもそうだ。だが、ご容赦を。同業者に邪魔をされてしまったんだ。料金はまけたわけだし大目に見ておくれ。……ともかく、カエルムやシルワでの彼らの計画は、とても大々的なもののようだよ。警戒するに越したことはないと聖戦士たちに伝えた方がいい」
「分かったわ。どうにか伝えてみる」
「いい子だね、アマリリス。話はこれまでだ。どうする? ほかにも情報を買うかね?」
誘われるままに迷いかけたが、グラディウス御殿より感じた気配に気づき、私はそっと振り返った。コックローチもその気配に気づいたらしい。
「……と思ったが、残念だ。どうやら時間切れのようだね、アマリリス」
「そうね」
「じゃあ、私はもう行くよ。お互い長生きをしよう。またね」
そう言うと、止める間もなくコックローチは風に紛れて消えてしまった。
一人残された私は、戻るべき場所を少しだけ見つめ、止まってしまった。ぎらぎらとした殺気に近いものを感じる。警戒心というものだろうが、それにしては強すぎる。
だが、そこにいる者が敵なのか、味方なのかは知っていた。
戻らねば。覚悟を決めて、私は再び扉を開けた。




