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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
6章 ネグラ

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43/199

1.カエルムの都

 イグニスを出発してカエルムまでの道のりはやや険しかった。

 同じ教皇領であるし、地図上ではさほど離れていないように見えたが、とんだ勘違いだったようだ。だが、疲れが蓄積されたのはそれだけの理由ではないだろう。私は魔女だが、同行する仲間には人間もいる。彼らに合わせた道のりで、彼らに合わせた進み方をしていると、どうしても炎天下の中を歩くということもあるのだ。それが、疲労の原因でもあった。

 いつもは意識しない魔の血の弊害。生粋の魔物よりは軽いと思われる日射による刺激が、いつも以上に悪さをしてきたのだ。指輪はしっかりとはまっているが、人間らしく新鮮な水を飲まねば倒れてしまいそうだった。


 それはブランカたちも同じであるし、ニフテリザやカルロスでさえもそうだった。ただ、カルロスはいい。耐えきれなくなれば彼は影道に逃れる権利を守られていた。表向きは周辺調査ということにして、人狼にだけ許された絶対的な日陰に隠れることができたのだ。あの術がこんなに羨ましい時がくるなんて思わなかった。

 ルーナの体力も心配だった。カエルムにつくぎりぎりのところで、とうとうルーナの体力は尽き、最後は子猫の姿で私に抱きかかえられながらの旅となった。彼女が〈金の卵〉でよかったと思う瞬間だった。


 このようにカエルムまでの道のりはとても辛いもので、カエルムの都の中心であるモルス教会とカントル館にたどり着いた時の脱力感はただごとじゃなかった。これで終わりでないことを聞いて驚愕したが、とりあえず一休みできるという有難さは何物にもかえられなかった。

 明日は疲れを癒し、明後日はここを旅立ってカエルム聖山へと登るらしい。その頂上付近にはカエルム大聖堂とグラディウス御殿が待っている。そこは空巫女ネグラの居住地であり、ブランカの祝福はそこで執り行われる。宣言通りなら、アズライルもそこにいるのだろう。会えるとしたら、少し楽しみだ。


「大聖堂までの道のりにつきましては、明日にでも打ち合わせをいたします」


 カントル館にて私たちを迎えてくれたのは司教であった。彼は同行しないが、ここで待機をしなくてはならない竜人戦士ウィルの持て成しを引き受けているらしい。ほかにも、数名の鳥人たちが挨拶に来たが、その誰もがここに残る予定のものだった。


「今日の午後、大聖堂よりジブリールという白い鳥人戦士が参ります。彼女は、我がカエルムに君臨するレグルス聖戦士。普段は空巫女の傍を片時も離れぬように努めておりますが、事情が事情だけに彼女もまた護衛のために駆けつけますので、どうかご安心を」


 司教の説明を聞きながら、手をつなぐルーナはうとうとしている。その手をしっかり握って支えながら、私はきちんと聞いていた。

 レグルス聖戦士のジブリール。まさか、この地におけるウィルのような立場の者がわざわざ来るとは。それだけの行事だということだろう。何を今さらと自分でも思うが、この祭儀にまつわる人々の意識の差を感じるたびに、ブランカの輿入れはこの世界にとってどれだけ重要なものなのかということについて疑問が生じてしまうのだ。


 リリウム教会を支える者たちの中には、古き風習が残っていることをあまりよく思っていない者もいるのらしい。それは、カエルムの鳥人戦士たちの態度と、イグニスで感じてきた人々の態度とを比べてみて、改めて思ったことだった。

 この都の人口の大半は鳥人だ。大衆の空気に染まらないことは難しいのだろう。目の前にいる司教や助祭、修道士たちもまた、イグニスで神に仕える者たちに比べ、そうした空気を感じた。


「お部屋は係りの者が案内します。我が家だと思って遠慮なくお寛ぎくださいませ」


 おそらく、今まで利用したいかなる宿よりも丁寧な扱いだ。私もルーナも、そしてニフテリザも、長らく我が家というものを意識することはなかったが、せっかくだから遠慮なくそうさせてもらおうじゃないか。


 案内された先は、リリウム宮殿と比べるとひっそりとした印象の客間だった。比べる相手が悪いだけで、一般的な宿に比べると清潔であるし、非常に過ごしやすいものだ。

 ちなみに、ここも影道防止の魔術はかけられていない様子だ。これには理由がある。リリウム教会には人狼や吸血鬼の戦士も多い。彼らはカルロスのように堂々と戦う者ばかりではなく、カリスのように、ひっそりと闇に紛れて諜報する者もいるからだ。

 要するに、表立って人々の生活を守っているのは人間や人間のふりをした魔の血を引く聖戦士だが、裏側では魔物として生まれた力を活用し、治安維持のために秘密裏に活動している戦士たちも少なくないのだ。


 私はどういう存在として受け入れられているのだろう。〈赤い花〉の聖女伝説について、世間一般の人はどう思っているのか。肯定的な印象ばかりだったら、〈赤い花〉を商品として取引する風習は生まれなかっただろうし、否定的な印象ばかりだったら、その花売りたちが息をひそめて活動し、わざわざマグノリアの地下街という限定的な場所にまで行って商売をすることもないはずだ。だからこそ、信じすぎてもいけないし、疑いすぎてもいけない。その絶妙な距離の取り方は、常々悩むところだった。


 だが、少なくとも、モルス教会およびカントル館のものに、私たちにあからさまな敵意を向けるものはいないはずだ。それだけを確認すると、私はようやく客間の寝台に横になれた。


「アマリリス、少し眠る?」


 ニフテリザに問われながら、仰向けになってみる。

 客間は非常に静かだ。カントル館そのものが静かだった。宮殿と比べているからだろうか。聖地であるここだって、都と言われている通りの規模の場所だ。だが、仕えている人数が違いすぎる。


「あなたはどうするの、ニフテリザ」


 自分の声すら響かない。静けさを生み出す構造なのだろうか。声が壁に吸い込まれていくような、そんな気がした。


「私は……ちょっとヴィヴィアンたちを探してくる」

「またお稽古? 旅で疲れているんじゃない?」

「疲れちゃいないさ。彼らが稽古をしていたら一緒にする。動かないと落ち着かないんだ」

「じゃあ、わたしも一緒に行きたい」


 窓の外を見ていたルーナが会話に入ってくる。いつもは勝手にどこかに行くのに、今日は事前に主張をするとは、それだけでも成長したものだ。ルーナにはぜひ、イグニスでの勉強の成果を見せてもらいたいのだが、あいにく、今の眠気と疲労感では、まともにルーナの勉強を見てやれないだろう。

 それなら、彼女の好奇心に任せて聖戦士たちやこの場所の人たちとアルカ語で会話をさせるほうがいいのではないだろうか。願望混じりなのは認めるが、そう思ったので口うるさくは言わなかった。


「ねえ、いいでしょう?」

「私は構わないけれど……」


 ニフテリザからまでも窺われ、私はため息交じりに告げた。


「一人で勝手にどこか行かないのよ。約束できる?」

「もちろん! わたし、いい子だもの」


 その返答はなかなか不安だが、ニフテリザだけではなくここにはウィルたちもいる。心配ないだろう。

許可を出せばたちまちのうちに、二人して客間を出ていってしまった。夜は不安もあって甘えられながら一緒に眠ることのルーナだが、昼間はこうやって私と離れて過ごしている時間も多い。

 寂しいことだが、外で無邪気に話している姿を見聞きすると、安心もする。こういう世界こそ、ルーナのような子に相応しい。平和の陰でたくさんの〈金の卵〉が利用されていることを忘れれば、世界は美しいと素直に思えるだろう。


 だが、ひねくれ続けるつもりもない。私が求めるのはすべての〈金の卵〉の解放ではなく、あくまでもルーナの安全だ。ニフテリザは、そもそも人間だから大丈夫だと信じている。リリウム教会は“今”を重視する。どんな過去があったにせよ、今はどういう人物なのかが重要なのだ。

 ニフテリザの過去は魔女の疑いを晴らせぬまま消え去った胡散臭い人物のままだろう。しかし、今のニフテリザが世界にとって害とならない淑女であることは十分伝わっているはずだ。それと同じく、ルーナもまたそうだ。むしろ、あの成長、あの知性の伸びは、将来、何かの役に立つかもしれない。そう思ってくれる人間が一人でもいてくれれば、もっともっと未来は約束されるだろう。


 ――じゃあ、私は?


 指輪を手でなぞりながら、考える。

 希望は、はっきりとしたはずだった。ウリアの提案は半分だけ飲み、半分だけ保留となっている。指輪の恩恵は使えば使うほど大きなものとなるだろうし、代償もまた同じだ。返してから狂気に支配されるまでにどのくらいの時間がかかるのか。指輪を返したあとで、私は本当に世界にとっての敵にならずに済むだろうか。さまざまな不安が頭をよぎるにつれ、不安という名の精霊が私にささやいてくる。

 ルーナと共に檻の中に入ったほうがいいのではないか、と。


「カンパニュラか……」


 呟いたちょうどその時、客間の隅で物音がした。見れば、いつの間にかそこに、狼姿のカリスがいた。見事な体つきだが、殺したいまで欲しはしない。生きていてこその魅力がそこにあると冷静に思うことができる。

 私の表情を見てから、カリスは人の姿へと変わる。


「いよいよ教会の奴隷になる覚悟ができたのか?」

「そんな言い方されると、余計嫌になるわね」


 茶化し気味に答えたが、カリスは鼻で笑うばかりだ。


「奴隷も悪いもんじゃないと助言しておこう。自由は失うが、食べ物の質はいいし、何より剣を向けられない。役に立てている限り、処分されることはない」

「あなたはもう首輪をされている身分なのね」


 揶揄ってやったが、それは自分も同じだと気付いてむなしくなった。この指輪の何が首輪と違うというのだろう。広い大地で弱肉強食の掟に従っていがみ合っていた私たちも、いつの間にか人間社会の愛玩動物に成り下がっているようだ。

 でも、悪いものじゃない。それは本心の助言なのだろう。私にも理解できる。世界は残酷だ。自由はあるが、非情な場面も多い。ルーナたちと幸せを感じながらいつまでも暮らしたいのならば、プライドなど捨てて首輪をされている方がマシなのかもしれない。


「それより、奴らのことを報告しに来た」

「動きがあった?」

「ソロルたちは今、イグニスにいる。ようやくサファイアの夫も、イグニスでやりたかったことをかなえられたらしい」

「やりたかったことって?」

「思い出巡りのようだ。奴には義弟がいたんだ。サファイアの弟だと聞いている。サファイア亡き後、奴は残された義弟の後見人となり、イグニスで一緒に暮らす予定だった。カンパニュラかイグニス学園かに入学する予定だったが、ローザ大国を出る前に失ったそうだ」

「失った? ローザ大国で……?」

「ああ、ちょうどフリューゲルという場所だ」

「フリューゲル?」


 思わぬ地名を出され、つい食いついてしまった。


「いや、フリューゲルとチューチェロの間くらいと言っていたかな。あのあたりに少年少女を誘拐し、人形にしてしまう魔女がいたそうだ。その魔女に目を付けられ、奴の義弟も奪われたらしい。魔女に人形にされたものは生きていられない。そもそも、魔女の住む城は霧に閉ざされ、普通の人間にはたどり着けない。だから、二人でイグニスで暮らす予定もなくなったんだ。奴はどうやら、弔いの最中らしい。共に暮らすはずだった部屋を眺めていた」

「人形の魔女……」


 なんてことだろう。よく知っている話だった。


 その魔女の本名は知らない。ただ、ニューラがいつも警戒していた。彼女によれば、その魔女は昔ながらの顔なじみだった。しかし、少年少女を奪うという魔女の性は本人にも抑えられず、ニューラが育てていた〈赤い花〉もたびたび襲われ、一人は奪われてしまった過去があるそうだ。

 実際に、私や桃花が幼かったころ、彼女と思しき気配は度々ニューラの家にまで近寄ってきた。

 そういう時、私たちの自由はほとんどなくなる。魔女にも簡単には破れない鍵のかかる部屋に二人で閉じ込められてしまうものだった。


 フリューゲルとチューチェロのちょうど間くらい。よく知っている場所だ。そこを通り、魔女と接触したということは、フリューゲルかチューチェロでもっと記録が残っているということではないのか。サファイアという人物について、その弟について、誰か知っている人がいるのではないだろうか。


「この後はどうやらカエルムに近づいてくるらしいが、やはりソロルが抑えている。お前と距離を保たねばならない理由があるらしい。おそらく、お前と奴を接触させたくないのだろう」

「……カリス。その人の名前、まだ言えない?」


 説得が失敗していることは聞くまでもない。

 その人物がソロルの忠告を真面目に聞いている時点でよくわかる。明らかなことをわざわざ聞いて口で言わせるほど意地悪ではない。ただ、譲歩できない部分も当然ある。

 ソロルは危険だ。ソロル自身がブランカを諦めない限り、粛清しなければならない。それにあのソロルはブランカのみならず、ほかの巫女への危険にもつながる。いかに、神聖な場所で聖獣に守られているからといっても、その守りが絶対のものだと言える根拠はない。むしろ、未知の狂気にさらされれば、屈強な鳥人や角人でさえも対応ままならず、最悪の事態が訪れることだって考えられる。そうならないためにはどうしたらいいか。簡単であり、残酷なことなのだ。一人の人狼の覚悟と、一人の人間の覚悟が決め手となる。


 しかし、カリスは苦しそうに俯くのだった。


「それは……」

「ダメな時は自分の手で、とそう言ったわね。でも、あなた、本当にそんなことができるの? 自分はまっとうな生き物だと言っていたじゃない。辛いなら、私が悪役になることだって出来るのよ」

「……だめだ」


 別に無理をした提案ではないのだが、カリスは首を振った。


「お前は海巫女様と共にいろ。その判断は私が下す。心配されずとも、私は人狼なのだ。お前が思っているよりも厳しい選択をすることもできる。……ただ、今はまだその時ではない。もう少し、待ってくれ」

「分かったわ。あなたがそう言うのなら、そうする」


 ベッドの上に寝転がったまま答える。外は雨が降っているのだろうか。何か音が聞こえてくる。稽古はたいてい外でするはずだから、ニフテリザたちも屋内にいるだろう。今頃、雑談でもしているだろうか。

 そんなことを考えていると、ふと私は別の音に気付いた。いつの間にか、カリスは私の眠るベッドのすぐそばまで来ていたのだ。驚いてその顔へと視線を向けると、彼女の歩みも止まった。


「どうしたの?」


 警戒をしてしまったのは、たぶん、彼女が人狼だからだろう。今の私は牙を抜かれた野生動物と同じだ。人狼は魔女も食べる。魔女の性が目覚めるまでは、大人の人狼は恐怖の対象でもあった。その時の感覚は消え去ってはいないのだろう。無防備に寝そべる自分の視界に映るカリスの姿は、やや怖いものに思えてしまった。

 だが、その警戒を悟ったのだろう、カリスの表情に戸惑いが生まれた。少なくとも、脅かすつもりはなかったようだ。


「いや……」


 カリスは何故か動揺しながら答えた。


「ただ、似ていると思って……」

「似ている? 前にも言っていたわね。誰に似ているの?」


 他人の空似なんていくらでもあるものだ。よくよく比べればそんなに似ていないものであっても、一部の特徴が一致すると似ていると思ってしまうものだろう。私だって、ニフテリザとカリスを一致させてしまうことが度々ある。似ているのは髪の色と長さだけだというのに。

 しかし、それにしても、カリスの戸惑いは奇妙なものだった。こうなると私だって気になってくる。一体、誰に似ているというのだろう。私に似ている人狼でもいるのか。多種族の友人でもいたのか。

 今までになく、かつては獲物だった者のプライベートな部分に興味がわいてきた。


「……いや、気のせいだろう」


 しかし、カリスはあまり教えてくれなかった。それ以上は近づかず、そっと後ずさりをして表情を変えた。


は、とても優しい人だった。いくら同じ魔女でもお前とは違う。他人の空似という奴だろう」


 かつての蔑むような表情で言われ、何故だかほっとした。


「あらそう。差し支えなければ、その優しい魔女とやらの話も聞いてみたいところだわ」


 そう返してやると、カリスは少し考える。

 素直な人狼は可愛い。そこに独占欲や殺意などわかない。ただ単純に、友好的な感情を抱くだけだった。指輪をいずれ返すことを考えれば危険な傾向だが、今は少しだけ浸っていたい世界でもあった。


「私の恩人なんだ」

「恩人?」

「何も知らずに、毛皮商人に手を引かれていた幼い私を助けてくれた。両親のことは覚えていない。ただ、私の手を引く大人と彼女が争っていたのは覚えている。彼女は、善意に縛られた性を持つ魔女だ。今ならその仕組みも理解できるが、私に待ち受けていた未来を聞かされて以降は、彼女は絶対的英雄だった。脅威となる悪を打ち滅ぼす、正義の味方のようなもの。純粋だった子どもの頃の私が夢見た善の魔女だったんだ」

「善意に縛られた魔女……」


 では、カリスは魔女に救われ、魔女に殺される運命だったかもしれないわけだ。

 それにしても人助けが性だなんて、単純に羨ましい。誰だか知らないが感謝しよう。その人がいてくれたおかげで、つまらない毛皮商人にカリスが殺されることもなかったのだから。


「彼女はただ助けてくれただけじゃない。ラヴェンデルの隅で人間のように暮らす人狼たちの一族を知っていたから、そこに連れて行ってくれたんだ。おかげで、親は分からないが、比較的安全に暮らすことができた。大人になってからは事情が変わってしまって、かつてのような村ではなくなったのだが――」

「それは、ルーカスたちの一族?」

「そうだ。ルーカスもいたし、エリーゼもいた。ラヴェンデルで暮らす以前のことはそんなに覚えていない。ただ、恩人の名前と、私自身のカリスという名前は、はっきりと覚えていた。きっと亡国となったイリスの狼の血を引いているのだ、と教えてくれたのはラヴェンデルの大人だった」


 懐かしそうにカリスは語る。


「ルーカスは最初、よそ者の私を揶揄ってきた。だが、悔しくて喧嘩を挑んで、こちらが勝ってからは、そういう態度はとらなくなったな。大人になってからは笑い話だったよ。エリーゼは初めて会ったときはまだ小さかったから、いつまでも赤ん坊のイメージだった……二人とも、いい仲間だった」


 私に怒りをぶつけるわけでもなく、ただぽつりと彼女は呟く。それが逆にきつかった。

 魔女の性は本当にどうしようもない。罪悪感や後悔をするくらいなら、割り切らなければならないのが正しい魔女の生き方だ。しかし、カリスの姿を見ていると、私は自分を責めそうになってしまった。私が一方的に悪のように思えてしまうのだ。カリスだって人間を食べてきたはずなのに。


「さぞ恨んだでしょうね。その二人を私が殺したということを忘れては駄目よ」

「なんだかもう忘れてしまいそうだ」


 カリスは茫然と言った。


「指輪の効果は凄まじい。お前はすっかり変わってしまった。あの時、激しく恨み、憎み、蔑んだはずのお前はどこに行ってしまったのだ。今、話しているのは、たしかにアマリリス。お前だ。でも……今のお前を仇として殺すのは……ためらいがある」

「ためらい?」


 鼻で笑ったものの、怯えが生じる。


 どうやら私と同じように、カリスも平和ボケしてきているらしい。かつての私がいないのなら、私が知っているカリスもいない。いつの間にか目の前にいる狼は、狼でなくなっていた。厳しすぎる自然から脱落し、安寧の地に必死にすがろうとしている人間のようだ。そうでなければ、カンパニュラに留まるように勧めたりはしないだろう。

 リリウム教会は私たちの間の因縁に奇妙な変化を加えてしまったようだ。私もまた、まるで純血の人間のように向けられた情に反応しそうになる。指輪だけが頼りだ。こうしてますます絡まった糸は解けなくなっていくのだろう。定まりつつあるたった一つの未来の光景が見えた気がして、震えが生じてしまった。


「甘いのね」


 言葉にしがたい不安や不安定な気持ちを必死に抑えて、私はカリスを茶化した。


「今ここで指輪を外せば、私はあなたを殺してしまう。私たちの関係なんてそんなものよ。恩人だか何だか知らないけれど、その人と私を重ねることはやめた方がいい。私に殺されるときになって後悔するのは嫌でしょう?」


 助言し終えてから、私は我ながら気づいた。

 私だってカリスを説得している。殺したくないという気持ちは偽りのはずだ。指輪によって性が抑えられているからに過ぎない。しかし、まるで本心からカリスに逃げてもらいたいと希望しているようではないか。これでは他人のことを言えない。

 常々思ってきたことだが、やっぱり私とカリスは似たもの同士なのかもしれない。カリスは嫌がるかもしれないけれど。


「指輪を外せば、ね」


 カリスもまた茶化すように言った。


「それができないと私は知っている。今のお前は常に聖戦士どもの監視下にあるのだ。ルーナのこと、ニフテリザのこと、そして自分自身のこと、そのすべてをないがしろに出来ないからこそ、指輪を外すなんていう愚行はできない。それくらいは賢い奴だと思っているのだが」

「……そうね、ルーナたちの立場を悪くするようなことはできないわね」


 素直に認め、私は天井を見つめた。


 自由のない日々はあとどれだけ続くのだろう。カンパニュラではまだ、窮屈さを感じずにいられるのだろうか。

 そうはいっても、指輪をしている以上、聖職者の許可なく何処かへ行くことも禁じられるはずだ。今より聖地に捧げる巫女たちのように、不自由な生活を強いられることとなる。これまで自由気ままに生きてきた私にとって、考えるだけでとても辛いことだ。


 それなら、大仕事の報酬としてルーナを学園に預けて、私一人、落ち着くまで広い大地に出てしまった方がいい。指輪を取ったとしても、理性のすべてがなくなってしまうということはないと信じよう。相手を人狼だけに定めれば、人間社会の敵とはならない。それに、ウリアが言っていたように、リリウム教会もいろいろと手伝ってくれるかもしれない。


 しかし、この未来は今の状況が変わるということでもある。


 こうして、カリスと会話を重ねることなんて出来ないだろう。まるで友人のように話しているが、指輪を失えば、我々は殺しあうだけの関係に逆戻りだ。

 それでいい。最初はそう思っていたはずだった。だが、なぜだろう。今は、かつての本来の私たちの日常を思い出すだけで、切ない気持ちになるのだ。切なくて、妙に苦しい。そして、導き出される願望が一つ。


 カリスともう少し話をしてみたい。


「そろそろ、イグニスに戻る」


 ふと、沈黙していたカリスが口を開いた。


「もう少し、奴と話をしてみる。今のままでは、奴だけではなく、死んだサファイアやサファイアの弟までの名誉が傷つく。そう訴えれば、さすがに奴も考え直すのではないだろうか。とにかく、イグニスにいる間に説得を続けてみる」


 そう言って、カリスは影の中に消えてしまった。


 気を付けてという暇もなかった。カリスの気配はかなり遠くまで行っている。

 影道を通る感覚は人狼にしか分からない。だが、影道を通る人狼がどれだけ早く移動できるかは、私もよく知っている。イグニスまでそうかからないのだろう。遠くまでいってしまった気配に向けて、せめてもの思いで私は願った。

 

 今度こそ、カリスの説得がうまく行くように。

 そして、その切なる情が、少しでも届くように。

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