9.仮の約束
アズライルたちがカエルムに旅立ったのは、たしか、三、四日前のことだ。私たちがカエルムに向かうよりも少し前に飛び立ち、先に到着してから輿入れの儀に間に合うように準備をすることが初仕事だと彼は嬉しそうに語っていた。そんな彼とは会うたびに簡単な会話を重ねてきたものだが、私よりもルーナはもっと彼の世話になっていたようだった。
故郷でもよく年下の面倒を見ていたのだろうか。彼もまたルーナの扱いがとてもうまかった。おかげで、ルーナも滞在中、退屈に悩むということは全くなかっただろう。
まともに礼を言う前に別れは訪れた。気づいた時にはアズライルは仲間たちとともにカエルムへと飛び立っていた。教会の者たちに見送られながら大空へと飛び上がっていく複数の鳥人戦士たちをニフテリザが目撃したといっていた。彼もその中にいたらしい。ルーナに至っては、いつの間にか教会の者たちとともに見送ったというのだから、本当に抜け目がない。楽しんでいるのなら、何よりだ。
カエルムで会えるといいのだが。いつにもなく、アズライルのことをそう懐かしんでしまうのは、残されたウリアとの印象が全く違うからなのだろう。ウリアはこれまでも、これからも、このイグニス大聖堂にとどまり、団長としての職務を全うするのだ。その重圧のせいだろうか。この教会で見かける鳥人のなかでも、とりわけ厳格で不機嫌そうな印象をまとっていた。
実際、不機嫌なのかもしれない。なぜなら、私たちの出発も差し迫っている。それなのに、私ときたらいまだにルーナと自分の未来のことで悩んでいるのだから。
ロベルト長官もさぞ困っていることだろう。もっとも、彼は多忙ゆえに一度もまともに会話をしていない。おそらく、これからも、会うことはないまま時が過ぎるだろう。それでいい。そのほうがこちらとしてもやりやすいものだ。ただ、板挟みとなるウリアが気の毒でないわけではない。彼が内心、頭を抱えているのだと悟るたびに、私もまた戸惑いを覚えてしまった。
そんな日が続いていたからだろう。
出発が明後日と迫った日の午後、この目で見た光景はかなり意外なものだった。
ルーナが今日も無邪気に誰かを捕まえて話をしている。アルカ語の練習になるのは好ましいが、そのために迷惑をかけないかが心配である。しかし、今回はその心配を圧し潰すほどの驚きがあった。ルーナが無邪気に話す相手がウリアであったからだ。
ルーナは相手を選ばない。それは、数日前にカリスに聞いた話だ。
カリスの報告を受けてその日のうちにルーナを問い詰めてみれば、おそるおそる彼女も認めた。怒りを通り越してあきれる私を前に、でもでもだってと繰り返す。ルーナの目で見たカリスは、やや乱暴なお姉さんでしかなかったらしい。それが〈金の卵〉を食す可能性もある人狼だといわれたところで、実際に殺されるときにならなければピンとこないのだろう。そもそも、狙われたことは一度や二度ではなかったはずなのに、彼女の恐怖は継続しない。その事実に愕然としてしまった。
――だって、カリスはお話ししてくれたんだもの。ニフテリザもアマリリスも傍にいない寂しい時に。
泣きそうになりながらそう言われ、とうとう私も口を閉じてしまった。ルーナは寂しいのだ。それはカリスが言っていたことだ。ただ寂しいだけではない、そういう生き物なのだ。本当は、私がもっと傍にいてやらなければならなかったのだろう。狩りのためにそうできなかったことが、今の放浪癖につながっているのだとしたら、申し訳ない気持ちもあった。
そんなルーナだが、幸いなことに人の心にたやすく潜り込める才能はあった。カリスもそうやってルーナを襲うことを諦めたというから相当な才能なのだろう。日ごろ、ルーナがさまざまな人に話しかけ、私から見れば不愛想なだけの無口な人間からいろいろな話を聞き出していて感心どころかぞっとすることだってあった。
ウリアも例外ではなかったようだ。驚くべきことに、ルーナに無邪気に話しかけられながら、彼も時折その猛禽らしさの混ざる顔に優しそうな笑みを浮かべていた。
「あ、アマリリスだ!」
楽しそうに話していた途中で、ルーナは私に気付いた。宮殿の廊下中に彼女の声が響き渡ったが、ここしばらくの滞在で、誰もが慣れてしまったらしい。何より、教皇が彼女を好きにさせておくようにとのお触れを出したそうだから、誰も咎めたりはしないままだった。さぞ、のびのびとした毎日だっただろう。
駆け寄った勢いで抱き着かれ、ふらつきながら、私は改めてここしばらくの恵まれた環境をしみじみと思い返していた。
「ねえ、あのね、ウリアとお話ししていたの」
「何のお話をしたの?」
「カンパニュラのお話」
想像はしていたが、やっぱりそうか。そもそもの話、ここしばらくのルーナの興味は聖歌の種類かカンパニュラなどの学校の話ばかりだ。ニフテリザが真面目に聖戦士養成校の情報を集める傍らで、ルーナもまた学校という場所がどういう世界なのかを聞いて、目を輝かせていたらしい。
旅が終わったら、カンパニュラに行ける。すっかりそう信じているのだとしたら、その夢を奪ってしまうのは気が引ける。あまりに可哀そうなことだ。
「ウリアはカンパニュラ出身なんだって。お歌のこともいっぱい知っていたの」
「ルーナさんは記憶力のいい人ですね。カンパニュラに入学したとしても、勉強にはきちんとついていけるでしょう」
ルーナを喜ばせるためだけのような言葉に、思わず溜息をついてしまいそうになった。ウリアとしてはルーナがカンパニュラに興味を持てば持つほどありがたいということだろうか。そのうえ、カンパニュラの出身者であるのは厄介だ。出発まで間もないが、その短い間にきっと、ルーナは飽きるほど質問を浴びせ、ウリアもまた懸命に答えることだろう。
悩ましいが、微笑ましい。不安と戸惑いのあまり、ルーナの可能性をつんでしまっていいものだろうか。
「ルーナ」
無邪気に笑うルーナに私はそっと確認した。
「もしも、私と長く離れ離れになることがあっても、カンパニュラに行きたい?」
ウリアの表情が若干変わる。ルーナはそんな彼の変化には気づかず、まじまじと私だけを見つめていた。黄金の目の瞳孔が揺らいでいる。私の真意を彼女なりに窺ったあとで、ルーナはやっと答えてくれた。
「ずっと離れ離れなの?」
「いいえ。いずれはまた会えるわ。ただ、あなたが勉強している間、私はちょっと留守にする。それだけよ」
「また会える?」
「うん、また会える」
そう答えると、ルーナはほっと息をついた。寂しそうな顔をしていたが、それでも、どうにか笑みを浮かべた。
「アマリリスがそうしなさいって言うのなら、大丈夫。寂しくても我慢する。カンパニュラでいっぱいお勉強して待ってる」
「いい子にできる?」
「うん、わたし、いつだっていい子だもん」
それはどうかしら、と小さく言えば、ルーナはむっとした表情で見上げてくる。そのやり取りがいちいち愛おしかった。
カンパニュラにルーナを預ける。これはもはや避けられない道だと認めなくてはならない。ルーナだってそれを望んでいるし、きっと世界有数の安全地帯といえる場所だ。……そう信じておこう。
ただ、教会を信じるにしても、いくら可愛い隷従のためであっても、自分まで縛られるのはごめんだ。いくら安全な場所であっても、可愛い下僕のためだけに私までも下僕になるのは嫌だった。
「アマリリスさん……」
ウリアが複雑な表情で話しかけてくる中、私は先に釘を刺しておいた。
「まだ正式に決めたわけじゃない。これは仮の約束よ」
鳥人らしく鋭い彼の眼から視線をそらさずに、はっきりと告げる。
「自分の気持ちに嘘はつけないの。このまま輿入れの儀が終わったら、カンパニュラにルーナを確かに預けたあとで、この指輪はお返しします。ただし、万が一、この先、あなた方を信用できないことがあれば、この子は預けません。すでに預けていた後であっても、すぐに迎えに来ます」
許されているはずの権利だ。信用ならないところにこの子は預けられない。
それに、〈赤い花〉の希少性なんて知ったことではない。探せばどこかにいるはずだ。どうしても血統とやらを保護したいのならば、今もマグノリア王国の地下街あたりで震えているだろう孤児を救いだせばいい。あんな場所にいるよりも、ずっとマシだろう。
強い気持ちを汲み取ったのか、ウリアは食い下がることなく静かにうなずいた。
「かしこまりました」
そして、動揺をすっかり抑え込んで、いつもの逞しい雰囲気を取り戻す。
「ロベルト長官にお伝えします。いずれは聖下のお耳にも入るでしょう。あなたが指輪を返還するとお聞きになれば、がっかりされるかもしれません。ですが、だからと言ってあなたの自由が害されることはないと断言しましょう。ルーナさんのことはお任せください。あなたが納得する質のいい環境を整えると約束しましょう。また、指輪をお返しくださるのであれば、相応の助力も致します。聖女であるあなたが罪人とならないように……それについてはまた後日、その時に、別の者があなたとお話しするでしょう」
「分かったわ。……ありがとう、ウリア」
素直に礼を言えば、少しだけ彼との距離も縮まったような、そんな気がした。
思えば、イグニスの滞在期間はそれなりに長かった。輿入れの儀というものが月日に強く縛られているせいである。
イグニスでの祝福から一月後。それがカエルムでの祝福を受けるべき期間とされている。この由来は三聖獣が救い主の言葉を受けたリリウムの聖女と会談し、その高尚さに胸を打たれて忠誠を誓うまでに要した期間だといわれている。本当のところはわからないが、三つの聖域がリリウム教皇の影響下に置かれて以降は、聖獣たちの子孫でさえも信じている話であるそうだ。
輿入れの儀もこうした言い伝えに縛られながら進められる。マルの里からはるばるイグニスまでやってきた巫女の疲れを癒すには十分な時間が守られる。こうした事情を見比べれば、言い伝えなど後付けで、本当は巫女たちを休ませたいからなのだろうかとも思うが、思うだけで口にはしなかった。
ともあれ、この長い滞在期間のために、イグニスの時間はいつの間にか染みついていた。宮殿とも、ここで働く人々とも、別れの日が近づいてきている。それが、何となく寂しく感じてしまう。ここしばらく顔を合わせていたウリアもそうだ。彼の硬い表情を見るのは気が重かったが、いざ、別れる日が近いとなると急に寂しく思えた。
リリウム教会への信用はまだまだ確かなものではないが、少なくとも、ここで深くかかわってきたウリアたちの印象は決して悪いものばかりではなかった。それが、私自身の感想であり、寂しさの理由と思しきものだ。
ウリアの方はきっとそんな感傷になど浸っていないだろう。礼を言う私を不思議そうに見ながらも、彼は生真面目に姿勢を正した。
「いいえ、当然の役目です」
それは、どこまでも単純で感傷めいたものを感じない答えだった。
しかし、それでいい。それがウリアという人なのだ。そう思うに止め、私は変化しつつある未来を感じた。ルーナを預ける選択は、今後、どう転ぶのだろう。明るい未来はそこにあるだろうか。その真偽を確かめるためにも、ソロルからブランカを守らなくては。
イグニスを発ち、カエルムへ。その間に、失敗続きのカリスの説得は成功するだろうか。今もまだラウルスにいるというソロルの気配は消えず、サファイアの夫も変わらないまま。危険は常に一定の距離を保ったところにあった。
そんな、すっきりしない状況の中だが、それでも私はほんの少しの未来の光を信じることにした。危ないことかもしれないが、そうすると殺伐とした世界が少しだけ輝いて見えた気がした。
この光が本物であれば、どんなに素晴らしいだろう。半分は本気で、しかし、半分は諦めと共に、私は未来へ思いを巡らせたのだった。




