8.葛藤
ウリアとの話が終わり、ぼんやりと宮殿の中から外を見つめていた。
美しい世界には塵が降り始めた。人間たちの大半が活動をやめているが、宮殿の敷地内では魔の血を引く者たちが代わりに働いている。
宮殿や教会には塵の予報ができるという魔術師もいるらしい。おそらく、魔人や魔女が担っていると思われるが、その存在は神秘のベールに包まれている。だがともかく、彼らの報告をもとに、人々の働きは決められている。日が昇り、影一つない世界では人間が、日が陰り、異臭がするという美しい塵が降る時刻には魔族や魔物が、それぞれ自分たちの役割を担い、滞りなく働いている。
静かだが、活気ある営みだ。その中に当然のようにぽつんといられることにも、だいぶ慣れてきたかもしれない。
窓より塵の降る空を見つめてながらそう思っていると、物陰より視線を感じた。
「カリス?」
振り返ると、そこには何もいない。ただ、いつものように不自然な影があった。その陰から出てくることなく、彼女は応えた。
「ここ連日、説得が続いているようだな」
開口一番、彼女は言った。
「相変わらず、盗み聞きが得意のようね」
「影道は対象を決めて使わねばならないからね。お前の気配を目印にしていたら、たまたま聞いてしまう機会が多いというだけだ」
言い訳じみたことを言ってから、カリスは改めて本題に入った。
「どうだ。少しはその気になれたか?」
「わからない」
即答する私に、カリスは小さく唸った。
「……分からない、か。むしろ、決まっているのでは? どう断るか考えているようにも見えるな。だが、お前が頑ななのと同じく、向こうも頑なだ。リリウム教会の連中はさっさと安心したいのだろうな。未来の保険として、せっかく現れた〈赤い花〉との繋がりが切れることを望んでいない。そのためにルーナの教育という餌で釣っているように見える。……お前も、そろそろ覚悟を決めておいた方がいいかもしれないぞ。教会を怒らせればどうなるか分かったものじゃない」
「覚悟ね。あなたの助言も彼らとほぼ同じってわけ?」
「ああ、そうだ。ルーナがカンパニュラに居れば、お前も変な気を起こせないだろう? それだけじゃない」
影より強い視線を感じる。睨んできているようだ。
「お前自身にもカンパニュラに居てほしい。前に言ったとおりだ。指輪をはめたまま、あの巨大な檻の中で平和的な幽閉生活でもしてくれないか。指輪を返せば、お前はまた怪物になる。私を襲いに来るだろう。また戦うのもいいが、お前の相手は疲れる。バラバラにされるのも御免だ」
もっともな話だ。私だって命を脅かす何かが安全な場所に隔離されるのならば、安心するだろう。だが、面白くない。カリスにそういわれてしまえば、ますます反発心が生まれてしまう。リリウム教会が本当に私たちに危害を加えないつもりだとしても、彼らの言うままに狭い環境で監視されながら暮らすことは苦痛だった。
そんな私の表情を見た為だろう。カリスの表情も険しいものになった。
「……それとも、なんだ。すべてを拒否してまともなうちに私に殺されるのが望みか?」
その口調には、苛立ちが隠されていない。
敵意すら感じるカリスを見つめ、そのまま私はため息交じりに応えた。
「それもいいかもしれないわね」
冗談のつもりだったが、言ってみると空しい気持ちが生まれた。
それもいいかもしれない。
ルーナがもしも手元にいなければ、いつかはそんな終わりが来ていただろう。
退屈は決められた寿命に縛られない生き物にとって命を脅かす病だ。生きるという気力を失えば、迫りくるのは死神だけ。どんなに慎重に生きていたとしても、人狼を食べるという気力がなくなって衰弱していくことで終わっていた可能性は高い。
じわじわと死ぬのがいいか、気力のあるうちに最高の獲物に挑んで敗北する終わりがいいのか。どちらもごめんだが、美しいのは後者だろう。もしも死ぬ時がくるのなら、それはカリスのように心から惚れ込んだ獲物に殺されるほうがいい。
冗談だが本気でもある。私なりの愛の告白のようなものだったかもしれないと思うと、空しさついでに気恥ずかしさも生まれた。
だが、カリスの方は呆れたように唸る。
「気色悪い冗談を言うな。だいたい、ルーナはどうするのだ。身勝手な怠慢のために道連れにするつもりか?」
つれない女だ。だが、それが彼女なのかもしれない。
「ルーナのこともずいぶん気にかけてくれるのね。商品にしようとした罪悪感でもあるの? それとも、彼女の血肉がお望み?」
「〈金の卵〉は確かに美味だと聞くが、安易に手を出して教会や今のまともなお前を敵に回してまでほしいとは思わないし、過去の経歴による罪悪感でもない。ただ単に見ていて心配なだけだ。彼女は私の恐怖も忘れてしまっている。猫といったが、何も知らない雛と同じ。攫われかけたあの日の記憶は忘れていないはずなのに可笑しなものだ。こちらが話しかければ嬉しそうに笑顔を向けてくる」
「ルーナと話すことがあるの?」
「ある。それも、お前と明確に敵対していた頃からだ」
「――なんですって」
彼女自身からは聞くことがない。ただ、いろんな人に話しかけているところは見てきた。だが、それが自身を襲ってくる可能性があるカリスにまでだとしたら、それも、私と敵対していた時代からとなると、確かにかなり心配だ。
ひょっとして、彼女は恐怖心というものが継続されないのだろうか。そんな可能性すら考えてしまうほどの驚きだった。
「ああ、お前は知らないだろう。ここ数か月ほどだったか、これまで何度かルーナと話したことがある。我が名誉のために、一応、言っておこう。私は確かに人間を獲物としているが、生き物として狂っているつもりはない。会話や情を重ねた生き物を食い殺すほど知性がないわけではない。……ただ、わかるだろう。これは、あまりいいことではない。かつて危害を加えようとした私を恐れずに話し相手になる。あの無邪気さはいつの日か彼女自身の命を危険にさらすだろう。世の中には盗賊として生き抜いてきたこの私でも引いてしまうような悪人がいるものだ。お前ならわかるだろう?」
「……これまでルーナと話していた? そんなバカな」
信じられない話だ。だが、嘘だと言い切ることもできなかった。普段から言い聞かせているつもりだ。
ニフテリザだってそう。優しくではあるが、ルーナに世の中の危険は教えている。それなのに、通じなかったのだろうか。ああ、通じなかったとしても不思議ではない。これまでどれだけの間、ルーナと共に過ごしただろう。そのうえで、思う。カリスの話を嘘だと言い切ってしまうことが出来ない。
これが本当だとして、感情のままに叱り飛ばしたところでルーナには伝わらない。鞭を手に躾けたとしても、彼女の根本が変わるとは思えなかった。
「嘘だと思うのならば、本人に聞くがいい。……あの子も寂しいのだ」
カリスは妙に優しい口調で言った。
「好奇心旺盛なのは生まれつきかもしれない。だが、それだけではない。お前が魔女の性に苦しむ間、ルーナもまた寂しさと孤独に苦しんでいた。ニフテリザ。あの人間は確かにいい相手となっているだろう。だが、あの女もいつまでも一緒にいられるわけではない。魔物ではないから主従にもなれないのだろう? ならばどうすればいいのか。どんな環境に置くのが一番なのか。……お前の警戒心が間違っているとは言わないが、頑なになりすぎるのも危険なことだと理解しろ」
彼女もよく分かっているのだろう。そのように言われてしまうと反論しようがない。ルーナの幸せは私の責任でもある。それが、ひとつの独立した命を魔法によって所有してしまった者の責任であり、また、魔女のプライドでもあるのだ。
あの無邪気さはきっと病の一種だと思ったほうがいいのだろう。病を治すには秘薬や魔術はもちろん、言葉だけではだめだ。相応しい環境において過ごさせるという療法が最も効果的だということもある。
カンパニュラはルーナにとって相応しい環境となるのではないか。そのためならば、多少、不満があろうと私も共に過ごすべきなのではないか。
だんだんと選択肢が狭まれて行く気がしてきた。このまま突き進んでいいのか迷い続ける時間も減っていく。好条件のはずの道だが、私の歩みを止めるものは何だろう。カリスの助言も、ウリアの助言も、ロベルト長官の言葉も、何もかも私を惑わす罠にさえ思えてしまう。
私の頑固さのせいなのか、はたまた、本能的に何かを感じているのか。何が正しいのかわからなくなってしまいそうだった。そんな私の沈黙に、カリスは大きくため息をついた。
「まあいい。ここで急かしたところで何にも結び付かない。……どうやら、私は説得というものが下手であるらしい」
自嘲気味な言葉にふと尋ね返す。
「サファイアの夫の事ね? まだ考えを改めていないの?」
サファイアの夫であるアルカ聖戦士。その素性を、リリウムの紋章に忠誠を誓っている味方のアルカ聖戦士たちは何もつかめていない。諜報に長けた優秀な戦士たちだと聞いているが、あと一歩、彼にたどり着けないようだ。
仕方がないことかもしれない。アルカ聖戦士は星の数ほどいる。そのなかで身分も名前も出身地もわからず、ただサファイアという妻がいたというだけの情報で探せと言われても、途方もない労力がかかるのは当然だ。ウィルやカルロスの聞いた話では、最近、所在が分かっていないアルカ聖戦士の情報を中心にしているようだが、任務中に死去したものや、単なる休暇中であるものや、剣を返して別の道を歩みだしたものなど、それだけでもかなりの数がいるらしい。
一応、帳簿はあるが、せめて何処で学び、何処に所属しているアルカ聖戦士であるのかがわからねば、特定は難しい。カリスはその特定を何よりも恐れていると見える。排除の心配が強いのだろう。
だが、これもあまりよくないことだ。あまりにもはぐらかせば、やがては教会よりカリスが睨まれることになるだろう。
「カリス。他人の心配をしている場合ではないわ。あなたも覚悟を決めるべきなのでは?」
黙ったままのカリスの陰に向かってそういえば、狼のうなるような声が聞こえた。思い悩んでいるのはお互い様なのだろう。
「……そうだな」
やけにおとなしくカリスは答えた。
「だが、もう少しで心が変わるかもしれない。その希望が見え隠れしているのだ。奴が目を覚ますときも近い。だが、ここで奴が特定されれば、最悪の場合……殺されるかもしれない。愛や人情、慈悲というものは大義の前には無力だと私は知っている。……彼が死ぬところを私は見たくないのだ」
「目を覚ますのはあなたのほうよ。死霊を突き放せないということは、それだけ故人への愛着が強いということ。けれどそれは罪。庇うあなたも罪となる可能性だってあるのよ」
彼女の潜んでいると思われる陰に向かってはっきりとそう言うと、宮殿の壁にうなだれる狼のシルエットが見えた。わざわざ私が言わなくとも、彼女だって分かっているのだろう。しかし、分かっていてもどうにもできないことがある。今の私が大きな選択肢の前で立ち止まってしまっていることに少しだけ似ているのかもしれない。
「……奴はまだラウルスにいる」
やがて、カリスは報告した。
「動きはない。どうやらイグニスに行きたい用事があるらしいのだが、ソロルが彼を制している。お前が滞在しているためだと思う」
「この指輪が怖いのね。本当にその男性を失えば、あのソロルも無力化するということかしら。リリウム教会の監視も恐れてくれるともっといいのだけれど」
「監視は恐れているようだ。ソロルは人間狩りついでに全ての聖戦士の動きを確認していた。おそらく、私の監視にも気づいている。たまに助言に来る私を殺すようにと彼をせっついているところを見る。彼を孤独にしておいて、操り人形にするつもりだ。そんなことは絶対に許さない」
「勇ましいわね。でも、気をつけなさい。彼は人間であなたは人狼。この違いは必ずあなたに不幸をもたらす。何があってそこまでその男に執着するのかは知らないけれど、死にたくないのなら、どんなに辛くともその男との関係がいつまでも崩れないと思っていては駄目よ」
突き刺さるものがあったのだろうか。カリスは沈黙してしまった。立ち去ったわけではない。影はその場にとどまっており、彼女の気配もたしかに残っている。
「カリス」
「分かっている」
まるで分かっていないような言い草で、彼女はそう言った。いや、分かりたくないのだろうか。その男と敵対することがどうしてそんなにも辛いのか。やはり、特別な感情を感じているのだ。だとしたら、その男との関わりも、私が思っているよりもより深いものであるのかもしれない。
嗚咽は全く聞こえないが、カリスは泣いているように思えた。そう思うほど、影より漂ってくる気配は悲痛なものだった。再び黙する彼女を前に、私はどうしていいか分からず、やがて辛うじて思いついた質問を投げかけてみた。
「いつも、その人をどう説得しているの?」
「……未来の話をしている」
素直に答えてくれた。
「命あるものはいつか死んでしまう。死んだ者は戻ってこない。だからこそ、生き残った者は過去ばかりにとらわれず、未来を見つめなくてはならない。彼の辛さのそのすべてを理解できるわけではない。だが、私がその傍に寄り添って、退屈しのぎに付き合うことくらいはできると、そう伝えた」
それは愛の告白ではないのだろうか。結果がどうであったのか、答えは言われなくとも察することができる。ソロルが弱体化しているという報告はない。アルカ聖戦士たちが追い詰めようとしているが、その気配は闇に葬られており、人狼や吸血鬼などといった魔力に恵まれた聖戦士であったとしても、ソロルの気配だけを頼りに追いかけるのは難しいことであるらしい。
このままカリスがうまく動けないとなれば、いつかはカリスの気配をたどって別の誰かがサファイアの夫を突き止めることになるだろう。正義を主張するリリウム教会のやることとは思えないが、建前だけでは人々を守れないというのが彼らが主張してもおかしくはない。
カリスは怯えているのだろう。それほどまでにサファイアの夫が好ましい人物だったのか。その男に少し嫉妬してしまうくらい、彼女は恋に悩んでいる様子だった。
「――分かっているさ」
やがて、震えた声で彼女は言った。
「私だって、いつまでも駄々をこねるつもりはない」
悲しそうな声だが、芯のしっかりとした逞しさは残っている。
「もしも、このまま説得が失敗し続けるようなら、私も考えを改めよう。上の指示に従うしか能のないアルカ聖戦士どもやクルクス聖戦士には任せておけない。その時は、この私がこの手で彼を殺し、憎らしいあのソロルを絶望の淵に叩き落してやると約束する」
「カリス……」
怒りに満ちたその声は、自棄になっているようにも感じられた。その通りに行動しようとして、果たして無事でいられるのだろうか。あのソロルが支えとなる男を簡単に手放すとは思えないし、アルカ聖戦士として武器を託されたというその男自身だって、人狼女ひとりを相手に苦戦することはないはずだ。
しかし、変な気を起こすなと忠告しようにも、カリスの気配はとっくに遠ざかっていた。
私が言いたいことは戦うことではないのに。ただ、その情報を教えてくれればいいだけなのに。そんな嘆きも、今の彼女には届かないようだった。




