7.未来の話
ウリアと二人きりで話すのは気が重い。
アズライルが言っていた通り、彼はとても誠実な人のようだ。きっと、私の力になりたという気持ちは本物だろう。私に対する敬意も感じられる。悪い気はしないが、それだけに彼と対面するのは緊張した。
カエルムへ発つまであと数日。イムベルを去る前に、と伝えられたのはウリアに直接指示を送っているロベルト=アロ長官という枢機卿の一人の言葉だった。
リリウム教会の教育省長官である彼は何かと多忙である。そのため、直接会ったことはないが、こうしたことは珍しいことでもない。この度の祝福の儀に際して、大きくかかわることとなった礼部聖省長官もまた、祝福の儀に出席し、ブランカたちと少し会えただけで、私などとは全く会わず、公務のためにイグニスから他所へ行ってしまったそうなので、そういうものなのかもしれない。おかげで彼の名すら覚えていないほどだ。
マルの里から同伴することとなってしばらく経つが、そういえば、いまだに身分ある聖職者たちと直接会話をした記憶はあまりない。純血の人間で固められている集団とあってこちらもまた用もなく近づくつもりはないのだが。
枢機卿に限らず、修道士というものは、制度上、魔の血を継ぐ者であってもなっていいはずなのだが、そのような特徴を持つものは表立ってあまりおらず、いたとしても身分の高い位置にいることはあまりなかった。
修道士も枢機卿も数が少ないわけではない。しかし、その中に魔の血をはっきりと受け継いでいると思われるものはほとんどおらず、たいていは、純血の人間の男性が聖戦士や諜報員と思しき魔物や魔族に指示を送っている場面しか見ない。
こんな背景があるものだから、彼らへの印象はほんの少しずつ近寄りがたいものとなっていく。ブランカに頼まれた際に聞かされたように、聖職者の中にもマグノリア王国の地下街で〈赤い花〉を競り落とそうとしたと主張した者がいるなどという経緯を思い出すと、彼らには私のことも単なる都合のいい存在にしか思われていないのではないかと不安になるものだ。
だが、伝言を任されたウリアは一切陰りのある表情を見せず、まったくこの環境に不満がないといった様子で今日も私と向き合っていた。上司であるロベルト長官とやらに対しても、一定の信頼を置いているらしい。
「ロベルト長官のお言葉は、聖下および他の長官や大司教など枢機卿のお方々との綿密な話し合いによって生じたものです。したがって、私がお預かりした言葉もリリウムのお言葉と考えてよろしいでしょう」
いつもながらのやや硬い調子でそう言って、ウリアはようやく本題に入る。
「お預かりしたお言葉をそのままお伝えしましょう。伝言はこうです。『世界は愛に満ちているが、同時に悪も満ちている。純粋なる心は深き信仰の礎となるが、時には悪魔の囁きに汚染され、恐ろしい狂気にもなりえるだろう。マルの里の盟友たちが信仰と現実との狭間で悩んだように、今やこの世界に〈赤い花〉が安全に暮らせる場所はリリウムの誓いに守られる聖域の外にはあり得ない。あなたが神の恩恵に寄り添われながら美しく咲き、やがて何かのきっかけで枯れ果てるまでの安息を我々は約束しよう。すべての誓いはカンパニュラに。ロベルト=アロ』」
ため息が漏れそうなところを必死にこらえた。回りくどい伝言だが、要するにカンパニュラにルーナとともに居座れという後押しなのだろう。
「あなたがその気でしたら、いつでも準備はできるそうです。勘違いなさってほしくないところは、これは命令ではなくお願いであるというところです。あなたを拘束したいわけではない。ただお互いにとって得になる道を示しているだけのことです」
「得であることは理解できているわ」
確かに魅力的なのだ。何を迷うことがあるだろう。思い切って首を縦に振るだけで、安全な未来が約束される。これまでのように人狼狩りで命を落とすかもしれないという可能性に不安を覚えることもなくなるし、何者かにルーナを奪われるかもしれないという恐怖におびえなくても済むのだ。
それなのに、素直になれないのはなぜか。答えはわかっている。まだまだ信用できていないからだ。指輪を受け取った以上、輿入れの儀には付き合おう。しかしこれは、ブランカのためである。誠実な彼女の手助けをしたいという思いもあることが大きい。ブエナのことといい、ウィルやカルロスたちのことといい、ブランカへの信用は少しずつ確かなものになってはきている。
しかし、ブランカたちを信用できるからといって、その繋がりである教会全体を信じられるわけではない。魔の血を継ぐものたちとリリウム教会は本来、水と油だ。なぜなら、リリウム教会が率先して魔物たちと対立し、血を流したことで人間の国が築かれたのだから。この歴史は根強く、人々の心に時に寄生し、時代が変わっていても厄介で迷惑な偏見をもたらすものだ。人狼や吸血鬼といった聖戦士が堂々と存在している時代だと聞かされても、心の底から信用するのは難しいものだった。
ウリアやロベルトという人物が裏表もなく温厚な人だとしよう。しかし、カンパニュラにおとなしく連れられていった私やルーナを待っている人々もまた同じような人物なのだろうか。一度、その危険性について想像してしまうと、言葉は詰まり、ウリアたちの喜ぶような答えはなかなか出せなかった。
「お悩みになるのも仕方ありません」
沈黙で察したのだろう。何も答えられずにいた私の代わりに、ウリアのほうからそう言った。
「あなたは自由に生き、神の定めた掟に従って暮らしてきたのです。いったいどれほどの月日をそうしてきたのかは分かりませんが、突然、狭い塀に囲まれた世界でしか生きられないとなれば、閉塞感に戸惑うことでしょう」
「……そうね」
本当はもっと違う部分に苦しんでいるのだが、とりあえず納得を装った。しかし、ウリアには見抜かれていたらしい。
「しかし、アマリリスさん。あなたにはもう少しだけ、我々を信じていただきたい」
ウリアは真正面から私を見つめてくる。猛禽類に見つめられているような威圧感がある。
「警戒心も広すぎる世界では必要不可欠のことでありましょう。しかし、あなた一人の警戒心ではすべての脅威は防げません。放浪を続けていれば、遅かれ早かれ、ルーナさんを奪われることだってあり得たかもしれません。その点、我々の聖域――特にカンパニュラでは塀という条件はあるものの、自由すぎる世界よりも安全で、かえって自由気ままに過ごすことができる世界になっているのですよ」
それはそれで幸せなのかもしれない。そもそも私が広すぎる世界を放浪していたのは、高尚な心情によるものではなく、単に居場所がなかったためだ。
カンパニュラ。世界最高峰の学園都市。ルーナの学び舎にこれ以上なく相応しいだろうその場所は、私にとっての居場所となりえるのだろうか。
「長官はお急ぎなのかしら。まるで私の決断を早くお聞きしたいかのようだわ」
「……早めにお伝えしておいた方がいいとお考えのようでした。時間はあっという間です。皆様、こうして今はイグニスにご滞在ですが、すぐにイムベルにご到着になられるでしょう。もしも、カンパニュラをご希望でしたら、早いうちより伝わりますとこちらもそれだけ速やかな準備が可能となります。カンパニュラの都合もありますので、ルーナさんの学びの選択肢も広がることになるだろうとのことでした」
気を遣ってくれている、ということだろうか。
思えば、時間による焦りというものも長く無縁だった。あったとしても、せいぜい人狼狩りに関してのことだけだっただろう。そうではなく、私の人生そのものに関する時間の流れというものを意識したことがあまりなかった。人狼さえ殺せば私の時間は止まる。ルーナの時間も私に拘束されると魔導書にはあったから、そうなのだろう。しかし、人間たちの中で暮らすとなれば、いやでも意識せざるを得なくなる。真に新しい世界が始まることになるのだろう。
彼らと共に生きるか、危険を承知でルーナと共に去るのか。やはり決断するには後押しが必要だった。ルーナはあんなにも学びたがっているというのに。
「すみません」
やがて、ウリアが真面目な表情で詫びてきた。
「つい、決断を急かすような態度をとってしまいました。お許しを。ただ、あなたには理解していただきたいのです。何があなたとルーナさんの為になるのか、どうかしばしお考えいただきたい」
「……わかりました」
こうしてウリアを介しての話し合いは終わった。
出発まであと十日ほど。その間に、同じような場面が何度繰り返されるのだろう。明日は今日よりも前向きに考えられるだろうか。それとも、今日よりもさらに迷いを深めてしまうのだろうか。
何が私とルーナのためになるのか。未来の可能性を見つけようとすればするほど、頭の中に蜘蛛の巣でも張られていくかのような靄がかかっていく。
そうして見つめる未来の姿もまた、謎めいたベールに包まれる亡霊のようだった。




