5.憧れの学園生活
アズライルは時間いっぱいルーナの相手をしてくれたらしい。きっと、真面目さと優しさを兼ね備えた男なのだろう。嘴はないが、二の腕から垂れ下がる翼を思い出す。鳥人に見慣れていないとその容姿はかなり目を引くものだ。案の定、ルーナは鳥人という存在自体に興味を持ち、怖がることもなくアズライルに様々なことを訊ねたようだ。
そういえば、マルの里でもそうだった。ディエンテ・デ・レオンを出発する頃には、私よりも竜人というものに詳しくなってしまっているほどだった。疑問に思ったら訊ね、教えてもらったことはなかなか忘れない。きっと頭はいいのだろう。
ただし、どんなに頭がよかろうと、それが従順さに直結するとは限らない。むしろ、頭の良さは時に反抗心を生み出す。最近のルーナは勉強に対する怠け癖が出てきた。ニフテリザが工夫して勉強に誘うが、あれこれ雑談を続けてしまうことが多くなったのだ。
今もそうだった。せっかく教会から紙や筆をもらったのに、全く使われていない。勉強を見るはずだったニフテリザも困り果てていた。
「あのね、ステンドグラスにはね、昔のお話が描かれているんだよ!」
アズライルに教えてもらったことを楽しそうにクロコ語で話すルーナに、困惑しつつも怒るに怒れないまま相手をしてしまうニフテリザ。今日はイグニス教会から借りた児童向けの教本から三編のアルカ語の詩を選んで読み解いてもらう予定だったのだが、本を開いたままルーナは話をやめない。
これでは日が暮れてしまう。見かねて私はルーナを叱った。
「ルーナ、そろそろお話をやめなさい。ニフテリザが困っているわ」
「ひどい、困ってないもん。ね、ニフテリザ!」
生意気にもルーナは言った。
しかし、私の叱咤が効いたのか、ルーナは話をやめて本をしっかりと持ち、書かれている詩の選別を始めた。やがて、一つの詩に目を止めると、ふうとため息をついて本を置いてしまった。
「どうしたの、ルーナ」
ニフテリザが訊ねると、ルーナはぽつりと呟いたのだった。
「カンパニュラ」
その単語に、私もぎくりとしてしまった。
「カンパニュラに行きたいな」
純粋な気持ちなのだろう。誰かに恋でもしたかのように遠くを見つめ、ルーナは頬杖をついていた。その姿から憧れを連想しない者がいるだろうか。アズライルやウリアに何を言われたのか知らないが、ルーナはすっかり学園都市に夢中だった。
「カンパニュラに行って何をしたい?」
ニフテリザが優しく訊ねると、ルーナは嬉しそうに答えた。
「音楽のお勉強」
「音楽?」
「うん! カンパニュラではお歌を教えてもらえるんだって。アズライルが言ってたよ。あと、カルロスも。カルロスってね、お歌が苦手なんだってー。遠吠えもへたっぴだから、狼や犬の仲間が困っちゃうんだって言ってたよ」
「ところで、そのお歌は何語で歌われるんだったかしら」
わざとアルカ語で口を挟んでみれば、ルーナも元気よくアルカ語で答えた。
「アルカ語がほとんど! イリス語もいくつか!」
「そう、じゃあ、カンパニュラに行くためにはどうしたらいいかしら?」
「お勉強!」
若干、面倒くさそうだが、まあいい。カンパニュラを出しにしたのが効いたのか、ルーナはようやく落ち着いて教本に向かい合ってくれた。これまでは私やニフテリザが覚えている詩編をわざわざ書いてやって、それを覚えるという形だったのだが、教本を借りられたのはありがたかった。
教会は本気でルーナを守ってくれるのだろうか。ブランカは確かに約束してくれた。直接会うことはできないが、教皇もまたそうなのだろう。しかし、この教会のすべてのものを信用することがどうしてもできない。無邪気に学校で学ぶことを夢見るルーナに危害を加えられることが怖かった。
それに、信用したところでルーナの安全と引き換えに私自身に待っていることは何だっただろう。ニューラのもとを飛び出してから、ずっと自由に生きてきたのだ。そんな私にとって、この組織は狭すぎる檻そのものだった。ただ単に協力しているだけの身である今でさえもそうだ。いつか終わるから耐えられるだけ。しかし、指輪をもらう選択をすれば、そのいつか終わるという安心感すらも消えてしまう。
だったら、指輪を盗んでしまおうか。
そんな危ない発想にまで落ちかけたが、ルーナやニフテリザのことを考えると勿論、ただの悪い妄想で終わってしまった。今でさえカルロスに手を出そうとしたことを赦された身なのだ。またしても教会を敵に回すようなことをすれば、本当にルーナともども火刑に処されるかもしれない。
「すごい。よく書けたね、ルーナ。字も綺麗だよ」
「本当? 嬉しい!」
二人の声で我に返った。ちなみにクロコ語だ。思考にとらわれ、視界が狭まっていた。指輪のはまる辺りが少し熱く感じる。痛くはないが、わずらわしい。魔女の性に悩まされない代わりに、まったく別の悩みを生み出してくれたのだから。
「ねえ、アマリリスも見て!」
その言葉に素直に応じて見てやれば、ニフテリザの感心が単なる誉め言葉の一つではないことを教えられた。たしかによく書けている。ヴェルジネ村で書いていた字を思い出せば、同一人物が書いたとは思えない。アルカ語を学びだしてそんなに経っていないはずなのだが、と驚いてしまった。
「ねえ、すごい? すごい?」
「ええ、よく出来ている。すごいわ、ルーナ」
偽りなく本心から褒めてやれば、ルーナは嬉しそうに目を細めた。
それにしても、ルーナの選んだ詩の内容に切なくなる。何を思ってこの詩を選んだのだろう。それは有名な詩だった。故郷を攻め滅ぼされた者が青春を思い出して綴ったという唄。その中の一つで、子ども時代を共に過ごして楽しかった日々を懐かしむ内容だった。
ルーナにはこんな子ども時代はない。私はまだ桃花と一緒に過ごしたという過去があるが、ルーナは違う。あんな狭い小屋に閉じ込められて、ただその時が来るまで生かされ続けてきた彼女が選んだと思うと、彼女自身がこの詩の内容をどれだけ理解しているかに関わらず、同情してしまった。
カンパニュラでは、ルーナも好きに過ごすことができるだろうか。どんな未来が待っているにせよ、その未来すら覗けないとなるとルーナも悲しむだろう。
私の決断次第なのだ。しかし、なかなか迷いから抜け出せない。葛藤は続いた。
結局、ルーナの勉強も無事に終わり、夕食も済ませ、眠る時間となっても、悩む心は晴れないままだった。
今日も一日大いにはしゃいだルーナは眠たそうな目をこすりながら、アズライルのほかの聖戦士たちに聞いた話も私にしてきた。今しているのは、マルの里からここまで同行した人間の女性聖戦士から聞いたという話である。
「……それでね、ヴィヴィアンも学校に入る前は魔物が怖かったんだけど……一番のお友達は〈白百合〉っていう魔女でね……」
「ルーナ。続きは明日にしましょう」
頭を撫でながらそう言うと、うなずくと同時にぱたりとベッドに倒れてしまった。衝撃のためか、その姿は少女から黒い子猫へと変化する。ふわふわとした毛を撫でてみると、とても気持ちがよかった。
愛らしい姿にうっとりとしていると、ニフテリザがそっと声をかけてきた。
「一日中、カンパニュラの話ばかりだったね」
「あなたもカンパニュラに行きたい?」
「行けたらどんなにいいだろう。でも、夢物語だよ。あの学園都市はそう簡単に通えるわけではない。偉い人の推薦か、多額の入学金が必要なんだって」
「詳しいのね。聖戦士たちに聞いたの?」
ニフテリザは頷く。最近、彼女は聖戦士たちの通う学校の情報を集めているようだ。日頃行っている稽古も遊びや興味などではないのだろう。ともに稽古をするカルロスの部下の三人からも、ニフテリザはすでによく話を聞いていた。
「ヴィヴィアンとマチェイはたしかカンパニュラではなくて、ディエンテ・デ・レオンのイルシオン学院ってところだったと思う。ベドジフはこの都にあるイグニス大学だったかな。世界各地に学校はあるけれど、どこに通うにしてもいい場所を紹介してくれるってカルロスが約束してくれたんだ」
「ずいぶん気に入られているわね。それだけ稽古の様子も頼もしいのかしら」
ニフテリザの腕前は見たことがない。聖戦士たちの武器がぶつかり合う稽古場など、想像しただけで恐ろしいから見学すらも避けてしまう。女性で飛び入りにしては筋がいいのだという噂しか知らない。噂が本当なら、心配はいらないだろう。
だが、本人は不満そうに首を横に振った。
「やっぱり見様見真似じゃダメみたい。皆もできるだけ教えてくれるけれど、今のままじゃ護身術程度だって言っていた。正式な聖戦士になりたいのなら、学校に通って、一人前になって、聖なる武器を授けられないと」
そうして、ニフテリザも世に混乱をもたらす魔の者を斬るようになるのだろうか。優しい彼女が人間と見た目の変わらない魔女や魔人などを斬る姿など想像もできない。それでも、あれだけ練習に向かうのだから本気でそんな未来に向かっているのだろう。
「カンパニュラなら質のいい教育が期待できるんだって。でも、カルロスたちでもカンパニュラの推薦は難しいって言っていた。卒業生であっても、だれもが推薦状を書けるわけじゃないからね。だからこそ、ルーナのことは羨ましいかも」
「……通わせるべきなのかしら」
「迷っているの?」
驚いたように訊ね返す彼女に、私は黙ってうなずいた。そんな私にニフテリザは大変不思議に思ったらしい。
「どうして? せっかくの機会じゃない。学費もいらないんでしょう? そんな恵まれた機会、ふつうは一生かかってもないんだよ」
「それは分かる。とても恵まれた話よ。……でも、だからこそ怖い」
「怖い?」
「ええ、怖い。とても怖い。本当に信用していい話なのかって考えてしまうの。だって、あまりにも恵まれているもの」
ルーナを保護してもらいたい。そう思っていたのは確かだ。その気持ちを伝えるつもりではあった。しかし、せいぜい何処かの教会だと思っていた。クルクス聖戦士たちと衣食住を共にし、限られた空間でひっそりと物事を知りながら私の帰りを待つだけなのだと。
それが、カンパニュラだなんて。質の高い勉学に身を投じさせる環境がすべて整っている。あまりにもいい話過ぎて、むしろ怖かった。
「それくらい彼らは君に負い目を感じているんじゃないかな」
ニフテリザは控えめに言った。
「ある人がそっと教えてくれたんだ。せっかく現れた〈赤い花〉を逃がすはずがないって。聖戦士としての誓いも、教皇様のお言葉も、すべてを裏切ることになる可能性だってあったって。その前に、君があっさりと承諾してくれたから有難がっているんだって聞いた」
「表面上は脅されていないけれど、脅されたようなものよ。……だからこそ、彼らを信用しきれないの」
むしろ、難しいと言ってくれたほうがよかった。ルーナを預けたいと願い出て、難しいが取り計らうと言ってくれたほうが信用できたかもしれない。
「たしかに強引だったね。でも、強引にならざるを得なかったんだと思う。彼らは誠実な人ばかりだよ。各地で起こっている魔女狩りも、時代遅れだから、どうにか止めさせなくてはって真面目に考えていた。魔物や魔族の人たちも、強い力を悪用して世を乱す人たちが許せないって。そういう人がたまに聖戦士の中にもいるのが残念なんだって」
「……この場所は、あなたにぴったりの環境ね」
ニフテリザの住める環境を探すことも目的の一つだった。とっくに見つかっているようだ。安心する反面、寂しさもある。唯一の人間の友。ニフテリザはすでに私とは全く違う道を歩み始めているのだから。
「ルーナだってそうだよ。いや、アマリリス、君だって同じ。ここは君にとっても安心できる環境のはずだよ」
「……そうかしら」
「そうだよ。だから、もっと皆を信用してみようよ」
ニフテリザは私を説得するようにそう言った。明るく、無垢なところはルーナに似ている。お人好しなところが彼女の特徴なのだろう。それが野蛮な吸血鬼を引き寄せ、魔女狩り裁判の犠牲になりかけた。
「ありがとう」
明確な答えは避けて、私はニフテリザに言った。
「もっと考えてみる。まだまだ時間はあるもの」
その場しのぎの言葉だ。だが、そんな私の真意も、この善良な人にはきっと伝わってはいないのだろう。




