4.影の中の助言者
ルーナたちはどこまで行ったのだろう。
ウリアと別れて、ルーナとアズライルの姿を探すべく、宮殿をさまよう。宮殿は広いが、人はそんなに多くない。誰もが気軽に立ち入れるような場所ではないから当然だが、ここで働いている人数も少ないわけではないと聞いている。それなのに人気を感じないということは、それだけ広いということかもしれない。その端々まで見事な装飾がなされていた。
しかし、いちいち感心するような気分ではなかった。悩みの種が増えたばかりの今、私が求めるのはルーナのぬくもりだった。無邪気な彼女に甘えてほしい。明るく話をしてほしい。求める思いが焦りとなって、歩む速さに現れる。
だが、こんな私の歩みを一瞬にして止めた者がいた。
「アマリリス」
カリスだ。物陰から幽霊のように急に現れ、私を見ていた。堂々と姿を現したのは、誰にも見られない、とその敏感なはずの嗅覚が判断したためなのか。ともかく、美しい装飾の一部かと見まがうようなその姿に、一瞬だけ見惚れた。単純に美に目がいっただけだ。かつての殺害欲求は全く浮かばない。それを分かっているのか、カリスのほうも以前よりもだいぶ警戒心が薄れていた。
「カリス。ルーナを見なかった?」
尋ねてみれば、カリスは睨むような顔のまま答えた。
「無邪気に見物している。心配せずともあの鳥人間に任せればいいだろう」
「鳥人間だなんて信仰に篤いのではなかったの?」
「私が敬うのは神獣とその巫女だけだ。子孫は敬わない。その力に恐れはするけれどね」
律儀にも答えてくれた。
「それより、お前に報告に来た」
「サファイアのことね? 何か動きがあったの?」
「特になし」
期待外れな返答にあきれてしまう。
「特にないのなら無理に報告しに来なくていいわ」
「馬鹿者。最後まで聞け。奴らはいまラウルスにいる。ラウルスで待機している」
ラウルス。いやな響きだ。思い出すのも恐ろしい。桃花の悲鳴がまた頭の中に響き渡りそうで怖かった。
「それだけでも把握しておいた方がいい。敵のいる位置がわかるのは今後の判断も左右する重要なことだぞ」
「あらそう。じゃあ、常時、あなたが奴らを見張ってくれるとありがたいわね」
恐怖を紛らわすためにも揶揄い気味にそう言ってみたのだが、カリスはあまり乗ってこなかった。
「そうする。ついでにお前の口からトカゲ共に伝えてくれると助かるところだ」
「あなたが直接行っても大丈夫よ。カリスという麦色の女人狼は味方だと誰もが分かっているわ」
ウィルもカルロスもカリスの存在を認識している。どちらもカリスが私のそばに現れたり離れたりすることを黙認していたらしい。ブランカの従者や人間の聖戦士たちは分からない。もしかしたら、カリスを警戒するかもしれないだろう。 しかし、ウィルもカルロスも、カリスの気配や匂いはきちんと把握しているので問題ないと言っていた。その素性や過去についても含めて、とのことだ。
彼らにとって重要なことは、自分たちに危害を加える者かというところであり、カリスのこれまでの経歴の細かい善し悪しではないようだ。不用心にも思えることだが、それだけ自信があってのことなのだろう。
「一応言っておくけれど、ウィルかカルロスにしておきなさい。他の人たちはあなたの姿に驚くかもしれないから」
「うるさいな。お前の指図はうけない。必要とあらば、お前のところなどすっ飛ばしてそいつらのところに直接行くから安心しろ」
不満そうにそう言う彼女は人間の姿をしていても傲慢な獣のようだ。
それにしても、ディエンテ・デ・レオンから教皇領に来るまでの間に、カリスの容姿にはだいぶ清潔感が生まれているような気がした。肌の様子もいい。身なりを整えるだけの余裕があるみたいだ。
リリウム教会の者たちも頭の固いものばかりではない。盗賊だろうが何だろうが、役に立つ生き物にはそれなりの報酬を渡すもののようだ。
カリスの方も、生き方をだいぶ改めたとみえる。ならば、なおさら思うことがあった。カリスの心についてだ。
「カリス」
私は勇気を出して彼女に尋ねた。
「説得はどうなったの?」
途端に彼女の視線は逸れる。人間の姿をしているが、その尾はきっと垂れ下がっているのだろう。心内がよくわかるその様子に、私の方もため息を漏らしてしまった。
「すまない」
柄にもなく力ない声で彼女は詫びてきた。
「いいの。もとより難しいことよ。まともな人間なら、死霊を憎むでしょう。いくら愛する人であっても、故人の尊厳を踏みにじるような死霊に味方するなんてこと――」
「奴は寂しい男なんだ」
カリスは淡々と言った。
「不幸な身の上の末に手に入れかけた幸福すらも崩れ去った。そこへ偽りの愛を囁く死霊は現れたらしい。死霊の方は全く奴を愛してなどいないのに」
庇うような言動は今に始まったことではない。マルの里からここへ来るまでの間、説得は失敗続きであり、そのたびに私が彼を少しでも悪く言おうものならすかさず庇うようなことを言っていた。その様子はただものではない。ただ同情しているだけとは思えない態度に、私は半ば苛立ちすら覚えていた。
「あなたは、もしかして、彼を愛しているの?」
まっすぐ尋ねてみれば、カリスは俯いた。
「……わからない。ただ、放っておけないのだ」
返ってきたのはいつもの生意気な言い回しではなく、牙でも抜かれたかのような力ない答えだった。
「愛しているのね」
強く確認するも、カリスの返答は曖昧だった。違うなら違うとはっきり言うだろう。
なんてことだ。これでは冷静に監視できるとは思えない。
性愛の感情と混乱について、実は共感できるほど経験がない。これまでの私には、愛するような異性などいなかった。しかし、ルーナとの関係を恋愛に置き換えてみればちょっとは理解できる。私だって、それがルーナだとしたら、放っておけるわけがない。同時に、ルーナを悪者だと簡単に認めることも困難だっただろう。
あまりよくないことだ。理解はできるし同情もできるが、いつまでもこの状況のままでいられるわけではない。サファイアを支えているものが誰なのか、その素性を調べるウィルたちも苦戦している。死霊を追いかけ続けるのが困難であるため、支えている者の判断までに至らないのだ。
だからこそ有力なのが、その支えている者のことを知っているカリスの具体的な証言……だというのに。
「今のままではよくないわ。いずれは――」
「それも分かっている……分かってはいるのだが……」
「彼の名前と出身地。まだ知らないの?」
問いかける私の視線からカリスは逃れようとしていた。誤魔化せないことだ。本当は何もかも知っているのだろう。知っているうえで、説得が終わるまで話さないつもりだ。それほどまでに、その男は彼女にとって大切な存在なのだろうか。
「身体的特徴でもいいわ。それは分かるはずでしょう?」
「……もう少し待ってくれ」
どうしても素性を知られたくないのだろう。それがどういう恐れを生むのか、彼女も知っているのだろう。さまざまな愛を説くリリウムの教えも、正義を前にすれ儚く砕け散る。どうすれば多くの人を守れるかを天秤にかけ、やがて下される決断は、世を乱す者への断罪だろう。縁者さえいなくなればソロルは弱体化する。死者に縋る哀れな男を一人の人間ではなく、単なる弱点としか捉えていないような判断がなされてもおかしくはない。
カリスは彼を殺されたくないのだ。
「まあいいわ。これからも監視と説得をお願い。でも、気を付けて。いつその男があなたに牙を剥くかもわからない。あまり人間を舐めては駄目よ」
横取りだとかプライドだとかそういうものは関係ない。ただ、純粋な気持ちで私はカリスの身を案じていた。その思いが正しく伝わることはないだろう。しかし、それでいい。今のこの状況がおかしいだけ。指輪で歪められているだけの関係なのだ。彼女には、私がただの強欲な魔女だと思っていてもらってもいい。その方が、いつか正しい関係に戻るときに、余計な葛藤が生まれなくて済むだろう。
黙ったままの彼女のそばを立ち去ろうとすると、再び呼び止められた。
「待て、最後にもう一つ」
威圧さが一切含まれていないまなざしで、彼女は私に言った。
「ウリアとかいうあの男の要望を、前向きに考えてはくれないか」
「それも聞いていたのね」
「ああ……指輪が没収されないのなら、お前はもう人狼殺しではない。それなら、私だってお前を殺す必要がない」
「必要がない? 恨んでいると言っていたじゃない。私はあなたの身内を殺したのよ」
「エリーゼもルーカスも不幸だった。しかし、それはお前のせいではない。お前に課せられた魔女の性のせいだ。自然の掟によって、彼らは死んだ。その性がなくなってしまうのなら、私の敵はいなくなる」
「変な考え方をするのね。この環境に身を置きすぎた? 人狼なら人狼らしく、私を憎み続ければいいのに」
「ついでに言えば、その性によってお前自身の心が苦しめられていたことを私は知っているぞ」
鋭く言われ、言葉に詰まってしまった。
魔女の性による捕食。それは、生き物として仕方のないことだと何度割り切っただろう。人狼を食べなくては、私は生きていけない。殺さなくては、生きていけない。しかし、納得した傍から嵐のように吹き付けてくるのは、殺した人狼たちが善良な生き方をしていたとしたら、という可能性とそれによる苦しみばかりだった。
はたから見た私はどのように見えただろう。狩りの後に罪悪感のために泣きながら眠った日もかつてはあった。ニューラのもとにいたころだ。その一方で、純粋無垢な子供の人狼を狩りやすいからと殺したことだってあった。飢えに苦しめば、私はいくらでも悪魔になれると知った時だった。
あんな自分に、あんな世界に、私は戻りたいのだろうか。それが自由だと信じてまで。
「……あなたがそう言うのなら、そんな未来もいいものなのかもしれないわね」
ぼんやりと言ってみて、ふと疑問が浮かんだ。
カリスに言われて考え直すなんて不思議なものだ。彼女は獲物であって友達などではないはずなのに。しかし、これも指輪のせいなのだろう。取った時の反動で、彼女を殺してしまうかもしれないというその可能性すら、今は怖かった。
特別な感情を抱いてはいけない。正しい関係に戻った時に辛すぎるから。
しかし、ひょっとして、もう手遅れなのだろうか。
「お前と放浪し続ければ、ルーナもいずれ危険な目に遭う。お前の暴走が落ち着いたとしても、恨みを抱いた我が同胞が真っ先に目を付けるだろう。何の罪もないあの子がお前の罪を背負うことだってあり得るのだぞ」
それを言われてしまうと弱い。しかし、それでもウリアの誘いに乗ることもまたカリスを殺してしまう未来を想像することと同じくらい怖いことだった。一度うなずけば、私の自由はなくなってしまうかもしれない。
これは〈赤い花〉だけの問題ではない。この世界では、純粋すぎるものからそっといなくなってしまうものなのだというのがニューラの教えだった。母はそうやっていなくなったのだと。純粋すぎたがために、母は花狩りにあってしまったのだと。
私に殺されていった人狼たちを思い出せば純粋なことがどれだけ危険なのかについては納得できる。純粋なものから先に私のモノとなっていったからだ。
そうやって生きてきた私が、どうして前向きに考えられるだろうか。
「だが、お前が戸惑うのも無理はない」
カリスは言った。いつの間にか姿は消えている。不自然にできた影だけがあった。その中にもぐりこんだのだろう。表情はわからない。だが、優しい友人のように思える声色だった。ほっとするような、不思議な声だ。
「ゆっくり考えるといい。まだ時間はある。イムベルにたどり着くまでに決めればそれでいい。その決断次第で、我々もこれ以上、敵対せずにすむだろう」
「……あなたは不思議な人ね。まるで本当は私を殺したくないみたい」
思ったままに言ってみた。カリスは前に口を滑らせていた。私が誰かに似ているのだと。その誰かのためだろうか。誰であろうと私ではないのに、このカリスという人狼はずいぶんと感受性豊かに思えた。
人の血を継ぐ私と人の血を持たないカリス。どちらがより人間らしく生きられるかと比べれば、カリスのほうだと思ってしまう。ルーナの時と同じだ。人の血と人間らしさとはこうも関係のないものなのだろうか。それとも、私が知っているよりも、魔というものは情に厚いものなのだろうか。
結局、カリスはその表情を見せてくれなかった。私のつぶやきにもまともに反応せず、しばしの沈黙の後にそっと告げるにとどめた。
「そろそろ行ってくる」
不自然な影が揺らめく。その中にカリスがいることの証拠だ。
「何かあったらすぐに報告する」
「お願いね」
こうして、今度こそ彼女の気配は遠ざかってしまった。
殺伐としていた過去が嘘のようだ。まるで旧来の友人を見送るような気持ちだった。これが通常だったら、どんなによかっただろう。しかし、今が異常なのだ。今が異常だということを、まだ忘れてはいけない。
全てをつないでいるのは私の指にはまるたった一つの指輪だけ。この先、どうするべきか、理性と感情、願望と疑惑などに挟まれながら、私はまた悩み始めた。




