2.イグニスの祝福
こういう祭儀に堂々と参加するのは初めてだ。
ローザ大国のフリューゲルには小さな教会があったが、ニューラはそこに私や桃花を連れて行ってはくれなかった。魔女が行くものではないと彼女に教えられ、村人たちも日頃ニューラに世話になっていることもあり、あまり咎めては来なかった。ただ、フリューゲルの司祭は幼い私たちの教育について気にしていたが、それもニューラがしっかりと請け負っているという説明をしていた光景を少しだけ覚えている。
フリューゲルの教会でも様々な祭儀をしていた。村人たちが楽しそうに参加するものもあったので、私や桃花も大変興味を惹かれたのだが、それもまた参加することはニューラが許してくれなかった。曰く、祭りというものは恐ろしい。いつの間にか村人でない者が混じっていることがある。そうした者の多くは〈赤い花〉にとって好ましくない相手なのだと。その時は理解できず、ただ単にニューラを恨んだものだが、彼女のもとを飛び出して以降はその教えがよく理解できた。
この世界において花売りは情報屋並みにどこにでも現れる。花売りの大半は翅人であり、コックローチのように突然現れて〈赤い花〉の子どもを攫ってしまう。ニューラはそれを恐れていたのだ。思えば、母と共に世界を巡りながら育った頃も、教会や祭儀の場に立ち寄るようなことは殆どなかった。
だからだろう、祭儀の空気はとても張り詰めているように思えたものだし、自分の呼吸の音にすら敏感になっていた。一方、手を繋いでいるルーナは全く動じていない。金色の目を輝かせて、聖堂の中の硝子細工を見つめ、そして祭儀の進行で度々歌う聖歌隊を何度も凝視していた。聖歌隊の少年たちは、カンパニュラやイグニスの学校に在籍する学生だと聞いている。カエルムなど他の聖地とは違い、イグニスの大聖堂で歌うのは少年ばかりだと聞いていたが、本当のようだ。
カエルムやシエロ、イムベルと違い、ここは当然ながらリリウム世界の色が濃い。ほぼアルカ語で歌われる内容は、イグニスを偲ぶ歌が一篇あるが、それ以外はすべてリリウムで伝わる神や救い主の愛と希望、信仰を讃えるものばかりだ。これもまたカンパニュラ出身の作曲家によるものだと本で読んだことがあるが、実際に聞くのは初めてだった。
歌声は非常に美しい。声変わりをしていない少年たちによる性別のない世界が、聖堂全体に広がっている。美しいだけに怖いと感じた。神聖と人間たちが呼ぶ空気は息がつまりそうなくらいぞっとするものなのだ。それは何故か。説明しようにも、言葉が見つからない。
だが、ルーナの身震いは私の嫌悪感とは全く違うように思えた。感動しているのだろうか。ルーナは歌をうっとりと聞いていた。音楽が気に入ったのだろう。もじもじとしながら口をしっかりと閉じていた。じっとしていられるのはとてもお利口だ。あとで誉めてやろう。歌が終わると、ルーナの興味は何処へ行くだろうか。少し心配だった。
祭儀なんてほど遠い生活を送っていると、長時間じっとしているのも苦痛である。少なくとも私は、この緊迫した空気と“聖なる”雰囲気に息がつまりそうだった。とくに、指輪のはまる手が痛む。怪しげな指輪の何かしらの効果なのか、単に私の気疲れのせいなのか分からない。
早く終わればいいのに。
罰当たりにもそう思いながらの出席なのだが、そんな私からしても、聖壇の前でじっと立ち尽くして教皇の祝福を受けるブランカの姿はとてもいいものだと思えた。こんな場面、滅多に立ち会えるものではない。こんな貴重な場面を見守ることになるなんて、これまでは思いもしなかった。ニューラもさぞ驚くだろう。
古い信仰と新しい信仰。その新しい信仰の時代もすでに千八百年近くの歴史がある。その間に、何人の花嫁たちがこうして祝福を受けたのだろうか。
第六十三代目海巫女。そう名乗る穢れを知らぬ竜の花嫁の美しさに、ルーナもまた見惚れているようだ。
手を繋ぎながら私はひっそりと感じていた。ルーナにはこの光輝く世界の住人になってほしい。世間が許してくれるのなら、この子は〈金の卵〉ではなく普通の女の子として生きていくことを許してほしい。
ウィルやカルロスは言っていた。私が役目を果たすまでは指輪をはめたまま、〈赤い花〉の聖女として正しく振舞ってくれるのなら、カルロスに魔術を向けた事を赦すだけではなく、ニフテリザとルーナの今後も約束してくれるのだと。特に、ニフテリザは聖戦士という職業に興味津々だ。相応しい学校を紹介できるとカルロスも言っていた。
ルーナはどうだろう。無邪気な彼女を周囲の者たちは可愛がってくれる。私が何処からか盗んできた〈金の卵〉であることは薄々分かっているだろうが、そのために没収するようなことはない。
それもこれも、皆、ブランカの言葉があったからだ。聖女としての役割を私が担うのならば、これまでの罪はなかったことにしなければならないと彼女がかばってくれたことが大きい。
カルロスは最初、警戒をずっと解けずにいたが、今では指輪の奇跡を信じたらしく、出来る限り普通にふるまってくれる。私の方もぎこちなかったが、殺そうだなんて恐ろしいとさえ思えるほどまともにはなった。
これなら、ルーナにまともな道を用意してやれるだろうか。私がおとなしく力を貸せば、この子を安全な世界に預けることもできるだろうか。
鍵を担っているのは、今しがた祝福を受けているブランカだ。そしてもっと欲を言うならば、その先に立っているリリウム教皇。彼の耳に私の声を届かせることは出来るだろうか。お供に過ぎない私が、直接会うと言う事は叶わないだろうけれど、せめて彼に近い立場の者に願いを託したい。
輿入れの儀が終わった後の事。
私が再び魔女になってしまう前に、ルーナとニフテリザをしっかりと保護して貰える約束をしてほしい。
そのためならば、死霊との戦いで散ってもいい。
聖竜リヴァイアサンのもとにたどり着くまでの勝負だ。かの偉大な雌竜に花嫁を返すまでに、サファイアとかいう亡者を捕まえたあの死霊がどう動いてくるのか、仕掛けてくるときはいつなのか。
そうだ、今だって気を抜いてはいけないのだ。
「……アマリリス」
緊張で手の力が強まったせいだろう。
ほんの小声でルーナが話しかけてきた。私はそっと微笑んで、繋いでいないほうの人差し指を唇につける。文句も、話したいことも、後でゆっくりと聞こう。そんな思いを込めて見つめれば、ルーナは安心したのか同じように人差し指を自分の唇につけて、それっきり黙ってしまった。
祭儀も終盤だ。
最後に歌われたのは亡国イリスの言葉で語られる神の憐れみと光ある未来の詩。およそ人間とは思えないほど透き通った歌声が響くと、ルーナは再びその世界に酔いしれている。
確かに不気味なほどに美しい世界だ。暴力など何処にも存在しないかのように美しい。
このまま、何事もなく旅が終わればいい。怪しげなソロルの接近を、この指輪が防いでくれますよう。
柄にもなく私は、神か何かにそう祈っていた。




