1.イグニスの都
教皇領の中心となる主都イグニスでは、こんな言い伝えがある。
昔、この場所にはイグニスという不老の炎の魔神がいた。炎の魔神は人々を愛していたが、人々は炎の魔神が何もかも燃やし尽くしてしまうことを恐れた為、あまり関わろうとしてくれなかった。
しかし、ある時代、魔神の生み出す特別な炎はただ恐ろしいだけではないことに気づいた若者が、魔神に近づいて語り合い、友人になったらしい。魔神の力を得た彼は、消えぬ炎によって周辺国には真似できぬ特別なかまどを手に入れた。
そうして、イグニスのいた場所にはイグニスの友人となった若者を王とする国が築かれ、若者が若者ではなくなるころには、比類なき大国としてその名を世界にとどろかせるようになったのだ。
自分の力で国が栄えることをイグニスは喜んでいた。ところが、若者が老人となり、故人となってしばらく経った頃、時代はいきなり変わってしまった。イグニスの炎はイグニスの知らないところで権力の象徴として使われ、若者のいた時代にはなかったような死臭の原因となってしまった。
そのうちに、国内や周辺国にて嫌悪は高まり、ある時に革命は起きた。かつて守護神と呼ばれていたイグニスは一部で全ての元凶とされ、憎まれ、やがて、群衆の力で亡き者とされてしまった。
リリウム教会が出来るよりもずっと昔から伝わる話であるらしい。
やがて、イグニス亡き後もイグニスの炎だけは利用され続け、あらゆる諍いの元凶となったが、今ではリリウム教会の管理下に置かれたうえで、聖なる武器の製造のために消えることなく使われている。
情勢が変わった今も、イグニスの遺産は人間たちの生活を守っているのだ。
イグニスの都の中心。イグニス大聖堂と隣接するリリウム宮殿には、三聖獣と魔神イグニスの姿が描かれている。なお、魔神イグニスはリリウム教会にて天使のひとりとして語り継がれているようなので、彼のことはアルカ語で大天使イグニエルと記されていた。
聖イグニス大聖堂のエントランスには、三聖獣たちに囲まれる炎の天使の姿が描かれている。これがイグニスなのだろう。なるほど、説明にある通り、その姿は魔神らしさはなく、天使そのものだった。
「面白いですよね」
眺めていると急に隣にいた者に話しかけられた。クルクス聖戦士だとわかり振り返ったが、その姿を正面から見て少し驚いてしまった。魔物であることはこの際、驚かない。竜人戦士がいるのだから、それ以外の古代の神の子孫がいたって驚かない。ただし、隣でにこにこしながら壁画を見ていた鳥人戦士の彼は、その外見的特徴の端々に特異性が見られたのだ。
カシュカーシュ人だ。おそらく、そちらの血が入っているのだろう。
そういえば、ごく近年までカシュカーシュ帝国とリリウム教皇領は直接的に戦っていたと聞いている。その頃はクロコ帝国と教皇領の境は曖昧で、ほぼクロコ帝国とカシュカーシュ帝国の戦争だったらしい。両者の目的はリリウム教皇領に存在する聖地であるが、おそらくはイグニスの炎を巡っていたのだと。
しかし、多くの血が流れてしばらく、教皇とカシュカーシュ大帝は取り決めをした。それは代々伝わる経典に基づくものであり、両者の正義にも関わることだったらしい。その時にお互いがどういう納得の仕方をしたのかはよく分からないが、とにかく争うことをやめて共に聖域を守ることを決めたらしい。その結果、何が起こったのかといえば、文化の交流と、混血児の誕生だった。とりわけ鳥人とカシュカーシュ人の混血児は多い。それは、鳥人たちの聖域であるカエルムが、一時期、カシュカーシュ帝国領となったことと、鳥人たちがカシュカーシュの教義によれば天使であり、血を交えることがよいとされていたことによる。
その結果、目の前にいるようなカシュカーシュ系鳥人の誕生につながるのだろう。この驚きが表情に出てしまっていたのだろうか、彼はふと私を見ると、照れくさそうに笑いながら口を開いた。
「突然すみません。ただ、あなたが噂の〈赤い花〉であると、この目で分かりましたので」
彼の言葉に静かに頷いた。アルカ語ではあるが、少しぎこちないように思う。
その目は確かに鳥の目をしている。何もかもを容易に見抜けるという素晴らしい目だ。魔女や魔人ですら体力を使うというのに、彼らは人が走るような感覚でそれを使えるというのだから羨ましいものだ。
ただ、目の前にいる彼のその目は鳥人のものにしてみては鋭さが足りない。それだけではなく、その顔には鳥人の最大の特徴である嘴が、彼にはなかった。肘より下がる翼もまた鳥人の特徴であり、そちらはきちんと彼にもあるが、顔の特徴が違うだけで全く違う種族の者に見えてしまった。
浅黒い肌は健康的で、その穏やかな雰囲気も好感が持てるものではあるのだが。
「面白いっていうのは?」
訊ね返してみると、彼はほっとしたように続けた。
「ああ、それは、この壁画の天使のことです」
そういって指をさす仕草に合わせ、彼の肘から下に延びる翼がゆらりと揺れた。
カシュカーシュの人々だけではなく、それ以外の広い地域でも広く天使だと思われていた姿だ。今でも、頑なにそう信じる人々もいるとは聞くが、昔ほどではない。ただ、昔の人がそう信じたことが頷けるほど、間近で見る鳥人は壁画の大天使イグニエルの姿に似ている。嘴のない彼はとくにそっくりだ。
「我が故郷ではイグニスは悪魔と信じられていました」
「故郷?」
「ああ……私、アズライルと言います。母はカエルムの鳥人でしたが、父はカシュカーシュの民で、子ども時代に少しだけ帝国領で育ちまして」
「そうでしたか」
「ええ、それで、カシュカーシュの人々はリリウム教会の人々がイグニスを天使だと信じていることに疑問を抱いていたことを覚えているのです。天使だとしても神に背くものだと教祖は人々に語り、人々もそれを信じていました」
「でも、カシュカーシュ帝はイグニスの炎をお求めになったのでは?」
訊ねてみると、アズライルは複雑な表情で頷いた。
「ええ、私が聞いたところによれば、皇帝陛下を支えるナビーの神託に従ったのだとか。ナビーは七人の男女の祭司のことです。我が故郷ではナビーの助言は重要で、皇帝陛下も従います。そもそも、彼らの言葉がもとになって経典が作られたのですから」
「じゃあ、あなたがここにいるのも、そのナビーという人たちの助言のため?」
さり気なく訊ねてみれば、アズライルは微かに笑みながら首を横に振った。
「私の故郷はカシュカーシュですが、今はカエルムの者です。このたび、正式にクルクス聖戦士として花嫁守りの一人に決まったため、我らが祖であるカエルムに骨を埋める覚悟で参りました」
「花嫁守りですか」
その名の通り、各聖地の御殿に住まう巫女たちを守る役目を担う戦士たちの総称である。レグルス聖戦士のような特別な存在ではなく、一般的なクルクス聖戦士に違いないと聞くが、そうであっても重要な役目を担っているのは確かなはず。見たところ、若いようなのでカルロスやウィルよりもずっと下だろうけれど、鳥人戦士であっても誰もがなれるものではない。家柄や実力よりもはるかに人柄で判断されるらしい。
なるほど、確かにアズライルは人の良さそうな雰囲気がある。輿入れの儀でカエルムに立ち寄った際には、彼に会うこともできるのだろうか。
「ただ、私もまだカシュカーシュで育った頃の感覚が抜け切れていなくて、たとえば、我ら鳥人の父祖である空の聖獣についてもその一つで」
そういってアズライルは聖鳥の絵を指し示す。
「父の故郷では、聖獣たちはみんなバハムートと呼ばれていました。我らの祖は空のバハムート。大いなる翼で空を覆い、神の命令通りこの世に夜と死をもたらした偉大なる父。そんな彼にジズという名前があることを、私は戦士の養成校で知りました。知らなかったことに驚かれて少し恥ずかしかったです」
苦笑いをしながらアズライルがそう語ったとき、宮殿と大聖堂をつなぐ長い廊下より、ばたばたとこちらに走ってくる躾の悪い少女が現れた。ルーナだ。無邪気なところは大変愛らしく、その姿を見るだけで思わず微笑んでしまいそうになるが、そのはるか後ろに置いて行かれたニフテリザや宮殿に仕える使用人、若き修道士やクルクス聖戦士たちが困った顔をしているのも見えて、こちらが怯んでしまった。
そんな彼らを振り返ることもなく、ルーナは私に抱き着いて来た。アズライルの前でもお構いなしだ。発情期が終わったことだけは安心できるところであるのだが。
「あのね、聞いて!」
とっさに出たのか、クロコ語だった。出来るだけアルカ語で話すようにと言ってあるはずなのに。
「ルーナ、お話はあとでね」
さり気なくアルカ語で諭したのだが、ルーナはすぐに視線をアズライルに向け、興味を示した。興味を示したのは、アズライルの方も一緒だ。
「この子は――」
その目がルーナの顔に向くと、ぴたりと動作が止まる。きっとルーナの本質もすぐに見抜く力があるのだろう。
「噂には聞いておりましたが、やはり驚きました。尊き子羊の血を引く子。直接見るのは初めてです」
尊き子羊とは多く〈金の卵〉を指す。普通に暮らせば人間と同じくらい生きることができる彼らも、その寿命を全うすることはない。雄も雌も成熟してある程度、子を残せば若くて質がいいうちに処分される。そうして鎧や武器以外の物品にも魔除けの効果がもたらされるために、彼らは人々を悪から守る尊き子羊と称えられるのだ。
もちろん、称えられたところであまりいいものではない。ルーナがその言葉の意味をどのくらい理解しているかは分からないものではあるが。
「ルーナというの。私の……妹のようなものよ」
紹介すると、アズライルはにこりと笑ってルーナに視線を合わせた。
「初めましてルーナ。アズライルです」
手を伸ばす彼にルーナは少しだけ怯えを見せた。しかし、その表情を見ると、少しずつ恐れがなくなったのか、やがて笑顔を取り戻してその手を握り返した。
「初めまして」
きちんとアルカ語で返事が出来たので、その頭を撫でてやった。すると、ルーナはちらりと私を見上げ、たどたどしいアルカ語で続けた。
「そろそろ祝福の儀が始まるよ」
「おっと、それはいけませんね」
アズライルがすぐに周囲を見渡し、ニフテリザと共にいるクルクス聖戦士に目が留まる。他の者たちも移動し始めているのだろう。ブランカが祝福を受ける大事な儀式だ。御供の〈赤い花〉がしなければならないような役割などないが、この指輪の力を借りる以上、今の私がどういう世界のものと旅をしているのかということくらいは間近で見ておくべきだろう。聖堂で行われる祭儀というものはあまり好きではないが、仕方がない。
「それでは、私はこの辺で。カエルムでお会いできた際はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
仲間と共にアズライルは去っていく。
カエルムには彼ら以外にも鳥人戦士はたくさんいるのだろう。共にいる戦士たちには鋭い嘴が存在し、猛禽らしさがかなり残っている。その末端ですら、他の魔物や魔族は相手にするのを嫌がる。それは、ウィルたちのような竜人もそうであるし、シエロに多数住んでいるだろう角人たちも同じだ。
彼ら聖獣の子孫が味方である限り、リリウム教会からイグニスの炎を奪おうとするものはいないだろう。もっとも恐れられていることは、これら三種の魔物たちとその他の種族の関係に亀裂が入ることだが、幸いにも聖獣の子孫たちは今の状況に不満を感じていない。感じさせないこともまた、リリウム教会の策なのだろう。
カシュカーシュ帝国がリリウム教会と争うのを辞めた理由も分かる。この世界のどこを見渡しても、聖獣の子孫たちに敵う相手はいない。そうした者たちを相手に一時はカエルムまで支配下に置いたことだけでも、かなりの成果だったのだろう。
だからこそ、気にかかるのはソロルのことだ。姿を見せずにしばらく経つが、私たちの目の前で一人の竜人を殺したことは衝撃だった。あれからしばらく、彼女はどこにいるのか。彼女を強者にしたアルカ聖戦士はどこにいるのか。カリスの接触はまだ、実を結んでいない。不安で仕方がない事実だ。
アズライルの姿が見えなくなるまで何となくその背を見送っていると、ルーナが腕を引っ張ってきた。
「ねえ、そろそろ行こうよ。ニフテリザも待っているよ」
「……そうね」
引っ張られるままについて行く間、ルーナは嬉々として今しがた聞いたのだろう知識をクロコ語で楽しそうに語ってきた。その楽しそうな姿に、少しだけほっとする。魔女の私にはぴりぴりしたものを感じてしまうような聖堂に、祭儀なのだが、ルーナにとっては楽しい旅行の一部のようだ。
だが、楽しそうな彼女の姿を見ていると、少し切なくなる。
こうしている間にも、イグニスの炎はルーナと同じ血を引く〈金の卵〉たちを材料に、聖なる武器を作り続けている。その現実をルーナは分かっているだろうか。自分と彼らの違いというものに疑問を抱いたりはしないだろうか。
純粋に目にするものに感動している少女の姿を見るたびに、そんな不安のようなものが胸にじわりと広がっていく。
この先、ルーナはどんな結論を導き出すだろうか。それがどんなものだとしても、私はルーナの味方であり続けたい。
そんな決意を胸に、いざ祭儀の時はきた。




