9.奇妙な密告者
旅立ちの日は間近に迫っている。ソロルの目撃情報はちらほらとしかない。私の出番もなく、カルロスたちのような魔の血を濃く引く戦士たちが秘密裏にソロルの情報を集めているところだった。
表向きは平和な教会だ。外ではニフテリザが稽古をみてもらい、ルーナは今もどこかで誰かを捕まえて話をしている。
アスル御殿およびセルピエンテ教会ではルーナの遊びの邪魔をする者はいない。ルーナは見た目も少女だが、中身は幼女のようなものだ。竜人の子供たちと楽しく遊ぶ彼女を、大人たちは微笑ましく見守ってくれた。私が約束した通り、ディエンテ・デ・レオン――マルの里ではルーナを悪用しようとする者はいなかった。私の連れであることがどの程度影響しているのかは分からないけれど。
ルーナも外で遊び、ニフテリザも何処かで稽古をつけてもらっている間、私は一人きりだ。外に出れば誰かしらにかまわれてしまうので、結局今日も客間に閉じこもって外を眺めていた。利き手の人差し指にはまる指輪の輝きを見つめては、対面したソロルの姿を思い出し、戦慄を覚える。
サファイアという女の肉体。異様に青い目は生前からのものだろうか。どんな女だったかは分からないが、少なくとも今は、三聖獣に敵対する存在に違いない。サファイアの肉体を潰したところで、別の死人の魂を見つけてやってくるのだろう。――だが、それでも今の脅威よりはましになるかもしれない。
死霊は確かに恐ろしい存在だが、古の時代には神ですらあった聖獣たちの子孫まで弄ばれているこの状況は、かなりおかしい。死霊というものはあのソロルだけではない。世界の何処かには他のソロルもいるし、男版といえるフラーテルもいる。それなのに、どうして死霊たちに文明を壊されずにいられるのか。それは、世界中の人々が死霊というものを毛嫌いしているからに他ならない。
死霊はせっかく手に入れた肉体を潰されることを恐れる。死者の魂を手に入れることはどうやら相当面倒なことらしい。うまく死者を支配し、大地に降り立つことのできるソロルやフラーテルはほんの一握りだと言われている。だから、よっぽどの勝ち目がないと強気な行動にはでないものらしいと聞いている。
あのソロルを見ていてもそれは正しいことなのだとわかる。最初にあった日こそ何もかも効果がないのではと思ってしまうほどの力を見せてきたが、今や指輪を恐れて近づいてもこない。
だが、それを単に指輪を怖がっているだけだとみていいのだろうか。
あのソロルにはやはり後ろ盾があるのだろう。死者にしがみ付く誰かがいるからこそ、強く存在し続けることができる。私にとってのこの指輪のような者が、サファイアを支配したあのソロルにはいるのだ。
しかし、それが誰なのか、そもそもサファイアがどういう人物だったのか、いまだにわかっていない。周辺の教会を調べても洗礼名簿にその名はなく、特徴の一致する死者の記録も見当たらない。どこからきた女なのか、そしてその遺族はどんな人物なのか、魔の血を継ぐ戦士たちがそれぞれの特性を利用してソロルを追跡し、調べようとするが、あまりいい結果には結びついていない。
こんなにも得体のしれない相手を前に、私はきちんと役目を果たせるだろうか。
責任感や充実だけではない。時間が経つにつれ、私の中には純粋にブランカという人を守りたいという奇妙な使命感までが芽生えていた。
魔女の性を封じられ、莫大な魔力を与えられ、衣食住も与えられ、至れり尽くせりなこの状況は、すべてブランカの為である。聖竜の待つ聖海に花嫁を無事に引き渡すことこそ、今の私に期待されている役目なのだ。
けれど、私はその役目に相応しい人物だろうか。圧倒的な力があるわけではない。ただ懸命に生きてきただけの私が、戦いの場で役に立てるのだろうか。
美しいこの指輪。先人残した聖具。それが私に指にはめられてしまうほど、世の中はおかしくなっている。今は亡き母より〈赤い花〉の心臓を受け継いだばっかりに。そして、同じ血を継ぐ者たちが、こんなにも減ってしまったばっかりに。
「探せばもっと、〈赤い花〉はいたはずなのに……」
「醜い泣き言は聞きたくない」
物陰より唸り声が聞こえ、私ははっと振り返った。誰もいない客間の隅で、不自然な影が出来ている。その奥には、はっきりと人狼の気配がした。麦色の髪も毛皮も目には見えない。それでも、カリスは確かにそこにいる。
「どうしたの? 私の役目はまだ始まってもいないわ」
「それは知っている」
「じゃあ、何をしに来たの?」
「ただ話に来ただけだ」
「話?」
不思議に思って聞き返すと、カリスは影道から出てきた。
その姿を見るのは久しぶりだ。人間の姿をしてしまえば、どこからどう見ても狼には見えない。こちらの姿もいつ見ても綺麗だが、かつてのように殺したいほど欲しいとは思わなかった。
ただ、この指輪を今ここで取ってしまえば、我慢できずに手を出してしまうのだろうと思うと、妙な緊張感が生まれた。
一方、カリスは全くそんな恐れを抱いていないように見えた。まさか、私を信用しているとでもいうのだろうか。仲間を殺され、あんなにも私を憎んでいた彼女が。
そんなことはないだろう。可能性があるとすれば、カリスは冷静に私という存在を分析しているだけ。竜人たちの住まう中でおかしな行動をとれるほど私が強くないということを知っているだけだ。
カリスは私から十分距離を保った場所に歩むと、人間のようなその目をこちらに向け、明らかに言葉を選んでから口を開いた。
「いったい何なの?」
「その……海巫女様を狙っているソロルについて、お前の耳に入れておきたい事がある」
「サファイアのことね」
「……そうだ」
動揺している。生前のサファイアを知っているのだろうか。それとも、あのソロルの行方についてだろうか。考えていると、カリスは語りだした。
「あのソロルを聖戦士たちが追っている。だが、監視しようにも、奴は死霊だ。急に現れ、急に消えることもできるから、意味がない。むしろ、下手に奴を嗅ぎまわるのは危険だ」
「それは知っているわ。たぶん彼らも危険は承知でしょう。死霊はそういうものだもの。亡者の想いに縛られる分、その縁の地や人の前にはいつでも現れることができる」
死霊の基本など人の血を引くものならば誰でも知っている。中には信憑性に乏しいものも多いが、少なくとも普通に生きていれば死霊の影におびえる必要のない魔物たちよりも生半可に人の血をひいてしまっている私のほうが詳しいだろう。
カリスもこれまで生きてきて死霊などにおびえたことはないと見える。だからこそ、当たり前のことを言い出したのだろう。それよりも、私が知りたいのは別のことだ。
「生前のサファイアのことをなにか知っているの?」
「いや、それは知らない。……ただ」
「ただ?」
「普通の死霊というものは、遺族に憎まれるものだ。単独で存在するものだから、目立った動きは見せない。せいぜい、経験の浅い〈赤い花〉のつぼみを見つけて花弁が開きかけたところで摘んでしまう程度。悪神の為にといいつつも、奴らはそこまで大胆な魔物ではない。吸血鬼や人狼を恐れる程度の奴らだ」
「吸血鬼や人狼を恐れる、ね」
以前は気にならなかった特徴だが、目の前で竜人を一人殺されでもしたら疑いたくもなる話だ。だが、とりあえずは納得することにしよう。
「死霊が特別になる理由は簡単だ。遺族が肯定する。それだけで、彼らは特別になれる。死者を愚弄するソロルやフラーテルを肯定する人間など普通はいない。特に信仰心に篤いものならば、死霊など魔女や人狼以上に嫌うだろう。……しかし、中にはそうでない者もいるのだ」
「やっぱり、サファイアの遺族があのソロルの存在を望んでいるのね」
「そういうことだ。あのソロルを支えているのは、彼女の夫であった哀れな人間の男だ。アルカ聖戦士のくせに、愛する女の亡霊に悩まされている様子だ」
「アルカ聖戦士? あなたはその人を知っているのね?」
食べるつもりなのか、単に粛清するつもりなのか、どちらにせよ貴重な情報だ。
聖戦士であるという点が引っかかるところだが、何も私が直接相手をすることはない。ウィルかカルロス、とにかく、リリウム教会の者たちに伝えなくては。
「その人の素性は?」
「素性は……知らない。だが、迷っているように見えるのだ。だから、いま、あの男を説得している。あの男がサファイアが死んだことを認めるだけで、あのソロルは弱体化するだろう。そうなれば、ブランカ様の輿入れもだいぶ楽になるはずだ」
「――説得?」
意外な言葉を受けて、単純に驚いてしまった。
相手は人間。カリスは人狼。人狼が人間を説得だなんてどういうつもりだろう。
人狼が信仰心に篤いという話は置いておこう。人間たちが思っているよりも、魔というものは悪ではない。彼らは彼らで大自然の掟というものを信じているため、そこで人間と信条が合致することだってあるだろう。リリウム教会による人間たちだけのための教義と、カリスの守っている教義が重なり合うものの一例が、この三聖獣への信仰であることはもう分かっている。その信仰のため、憎き私への攻撃をやめたことも理解できる。
ただ、この信仰の邪魔になる一人の人間の男を食べるわけでもなく、殺すわけでもなく、説得しようというのはいささか不可解であったのだ。
殺してしまえば早いのに。どうしてそう考えないのか。カリスのその真意を探りたくなった。
「不審に思うのも仕方あるまい。だが、理由はともかく、まずは説得したい。奴の気が変わればいいという話だ。ソロルはどうなってもいい。サファイアはどうせ死んでいるのだ。あの男も、目を覚まさねばなるまい」
「随分とその男に肩入れするのね。どうして?」
揶揄い半分に聞いたのだが、カリスは目を合わせぬまま黙っていた。
「……分からない。ただ、奴には……目を覚ましてほしいんだ。おかしいと思うか? その通りだ。今まで私が殺してきた人間はたくさんいる。食べるために仕方ないと納得してきた。だが、何故だろう。奴は……奴は、その誰よりも哀れに思えた。牙をむけることができない。息の根を止められなかった。……そして、放っておけない。あのままソロルに騙されている姿は見ているこちらも辛い」
カリスの目は虚ろだった。仲間を失った悲しみを人間の男で埋め合わせているのだろうか。それを、仲間の仇である私に伝えるのは、今が特別な状況下であるにしても滑稽な事だろう。
しかし、私に対して怒りを持ち続けるほどの気力がないらしい。そんな彼女が、何故かこれまでの私自身と重なったように思えた。
可笑しなことであるし、カリスも不快に思うだろう。しかし、指輪の存在は、私を冷静にさせてくれる。魔女の性から解放されているというだけで、私は獲物でしかなかったはずのカリスに気を遣うということが出来たのだった。
「分かった」
私はカリスに言った。
「そちらはあなたに任せる。説得できるというのなら、説得してちょうだい。こちらはただソロルの攻撃に備えるだけ」
「……すまない。奴を監視し、何かあったら、すぐ伝えに来る」
短く言われ、不思議な気持ちになった。信仰心というものはこんなにも根強いものなのだろうか。
私を恨んでいると言っていた。役目が終わったらすぐに殺すとも言っていた。無防備にこうして対面している今、八つ裂きにしたいほど憎んでいる可能性だってあり得るはずなのに。
「念のため、お前の口から竜人たちや海巫女様にも伝えて欲しい。説得に失敗したとき、奴を止められないかもしれない……だから」
まるで、かねてから志を共にする仲間のようだった。これまでいがみ合ってきた過去は夢の中の話だったのだろうか。そう思うほど、私たちの世界は変わってしまった。たった一つの指輪の力だろうか。いや、それだけではない。私が変わったように、カリスもまた変わっているところなのだろう。
「分かった。でも、一つ聞きたいことがあるの」
「なんだ?」
「どうしてあなたはそんなに必死なの? 信仰に篤いとしても、その男に思い入れがあるのだとしても、ここまで責任を持つことはないわ。わざわざ私と協力してまで彼を止めたいのはなぜ?」
意地悪な問いだっただろうか。カリスは目を逸らしたまま、しばし考え、やがてため息を吐くように呟いた。
「恩義だ」
「恩義?」
愛のためだとかいう言葉を期待したわけではない。
しかし、その単純な答えは、かなり謎めいたものだった。一体誰に対しての、どのような恩義なのか。その男に慈悲でももらったのか、あるいは、もっと違う何かがあるのか。
カリスも深くは教えてくれなかった。この答えをくれただけでも、十分すぎる譲歩だったのだろう。
「それ以上は言いたくない。とにかく、頼んだぞ〈赤い花〉の聖女様よ」
蔑むように言い捨て、カリスの姿は影の中に飲まれていった。
あとに残されるのは沈黙。カリスの気配がどんどん遠ざかっていく。美味しそうだという感覚は全くなく、謎めいた、神秘的な印象だけが彼女を取り巻いていた。




