8.決断
ソロルが現れた日からまた数日経った。
聖地への出発の日が迫ってきているが、あれからずっとソロルの動きはない。これまでは一日に何度も現れることもあったらしいが、いまや目撃することすらない日もあるらしい。圧倒的な力差を感じたというのに、警戒心の強い野獣のようだ。ウィルたちはそれを私の存在を恐れているからだと納得していると言っていた。しかし、私はそれに同意してはいない。ソロルが警戒しているのは私のことではない。きっと、私の指にはまるこの指輪だろう。
少なくとも私はあの日以来、あの不気味な青い目を見ていない。おかげで、ソロルへの恐怖も徐々に薄れつつあった。
ソロルのことさえなければ、この環境はルーナの教育に大変よかった。好奇心のおもむくままに遊びに行くルーナに対し、教会の人々は優しく接してくれる。中にはどう接すればいいのか分からない者もいるだろうが、私の従者であるせいか、誰もルーナにつらく当たる者はいなかった。そのため、ルーナは安心して様々な人に話しかけることができているようだ。
ここでの共用語はアルカ語。クロコ語で話したところで、わかってくれるとは限らない。そんな人々との会話のたまものだろう。たった数日の間に、ルーナのアルカ語は――口語のみだが――日に日に上達していった。あとは文語だが、困らない程度には読めるようになったらしい。
ニフテリザも教えていてびっくりするくらい覚えは早いのだそうだ。これが〈金の卵〉の知られざる特性なのか、はたまたルーナがたまたま頭がいいだけなのか、そこは分からないのだけれど。
ただ、ルーナの成長ぶりを見ていると、多くの〈金の卵〉が可能性すら見つけ出せないままに葬られている現実は、なかなかもったいないと思った。ルーナとの触れ合いで人々の心も少しは変わってくれないだろうか。そうなれば、この世界はもっとルーナにとって生きやすいものとなるはずなのに。
「今日もいろいろ話していたみたいだよ」
ベッドの上で子猫のように眠り込んでいるルーナを見つめながら、ニフテリザがそっと教えてくれた。
「特にカルロスはルーナの相手が上手いんだ。稽古の見学だって言って現れたと思ったら、いつの間にか狼に変身してルーナの遊び相手になっていてね。その光景はまるで、家庭犬と子猫が遊んでいるみたいで微笑ましいけど、皆はちゃんと稽古を見ていてもらっていたかと思ったら……ってちょっとがっかりするみたい」
ニフテリザは今も毎日のように聖戦士たちに稽古を見てもらっている。しかし、私にとって、聖なる武器の煌めきは見るだけでも苦痛だ。よって、その光景を見に行くことはないが、私の代わりにルーナが遊びに行っていることは知っていた。
カルロスの部下たちは複数いて、その中でも輿入れの旅に同行する予定の三名はどれも魔の血をひかぬ人間だ。強靭な竜人たちに囲まれながらの生活であるためか、はたまた、人間というものはもともとそうなのか、彼らは何かとニフテリザを気にかけてくれている。二名は男性だが、一名は女性だ。しかし、正式な学校で聖戦士となり、竜人や他の魔物たちと混ざりながら戦う彼女とニフテリザでは、鍛え方が全く違う。
その違いを日々目の当たりにしているのだろうか。ニフテリザには時折、必死さと焦りを感じていた。
「ルーナはいいなって時々思う。〈金の卵〉という種族は可哀そうだけれど、変身したルーナは狼になったカルロスとも対等にじゃれあえる。もちろん、カルロスのほうはだいぶ手を抜いてくれているんだと思うけれど、それでも、私よりはずっと力も出るだろう。そこが羨ましい」
そこまで頑張らなくたっていい。聖戦士になんてなる必要はない。そんな言葉をかけてしまいそうになるほど、彼女は非力な自分というものに苛立ちを感じているらしい。
「どうしても、強くなりたいの?」
そう訊ねるにとどめると、ニフテリザは強くうなずいた。
「足手まといにはなりたくない。……でも、ここで君たちと別れ、何もかも忘れて人間として暮らすには、あまりにも気がかりだ。じゃあ、どうするべきか。答えは一つでしょう?」
子猫姿で眠り続けるルーナを撫でながら、ニフテリザはそう言った。
ソロルが出現したあの日、ニフテリザの稽古は中断した。
稽古はあくまでも護身術。前線で戦うためのものではない。だから、ソロルの出現している間、ニフテリザは隠れなくてはならない。ルーナの閉じ込められた客間に逃げて、一緒に閉じ込められなくてはならなかった。それが、ニフテリザにとっては悔しいことだったらしい。
ソロルがいても隠れなくて済むように。そんな言葉を彼女はたまに口にする。見ていてこちらが辛くなってしまうほどだ。
ニフテリザは真面目なのだろう。時折、述べる恩義の言葉はおそらく本心からのものだろう。くすぐったいものだ。それに、どうしてそんなにも固く考えるのか、分からない。
しかし、悪い気はしなかった。ニフテリザの幸せに繋がるかはわからないが、彼女がもしも離れないという選択をするならば、喜んで受け入れたいと思う気持ちがあった。
だから、私はこう答えた。
「私としても、戦う間、誰かにルーナを守っていて欲しいという気持ちはあるの。それがニフテリザのように気心の知れた人だったら、とても助かるわ」
その言葉は、ニフテリザの目に光をともした。どうやら、私が思っていた以上に、彼女にとって救いとなったらしい。
「ぜひ、任せて」
身を乗り出して、ニフテリザはそう言った。
「稽古を積んで、君の代わりにルーナを守ってみせる。この子は人懐こいから、すぐに知らない人についていこうとしちゃうんだ。その分、私が見張っている。それに、この剣をくれたお礼もあるから」
いつも使っている安物の剣。護身用に過ぎないものだが、非常に軽いため、扱いやすい。ルーナを守りながら戦うとしても、問題はないだろう。稽古の内容も悪くないものだから。
ニフテリザが今後もついてくることは、私にとってもメリットがある。そう、無理に置いていく必要なんてない。幸せというものは、私が勝手に決めることではない。ニフテリザがそうしたいと望むのならば、その望み通りついてきてもらったっていいのではないか。
きっと私は寂しいのだ。ルーナが一緒なだけでは心細い。
今までにない大仕事をしなくてはならない緊張を、誰かとの関わりで癒したいのだろう。その相手が、愛する隷従の懇願で助けてやった人間の女であることは、放浪する魔女ながら情けないほどに弱々しいことかもしれない。
本当にこれでいいのか。弱者でしかないような人間の癒しに甘えていいのだろうか。
頭をよぎるのは異様に青い目をしたソロルの姿だ。桃花を食い殺した女の姿をしているわけではないが、本質は同じ人食い。
忘れてはいけない。奴らは人の血を引く者を好物とする。ニフテリザだっていつ狙われてもおかしくないのだ。いざとなれば、失うかもしれない。守り切る力はあるのか。私にその覚悟があるのか。失ってしまう未来が訪れても、乗り越えられるのか。疑問は常に頭の中を駆け巡っていく。
それでも、ニフテリザの目は輝きに満ちていた。ルーナが怖がる太陽の日差しのようだ。それを強く拒むことが、私にはできなかった。
「そう気負わなくたっていいの」
結局、こうなってしまう。私は本心に逆らえない。私だってルーナと同じ。ニフテリザとこれっきり別れてしまうのは、寂しかった。
「でも、あなたがそうしたいのなら、そうすればいい」
本心では嬉しいはずなのに、自分でも驚くほどそっけない態度となった。
魔女としてのプライドなんてものがあるとは言わない。ただ何物にも染まるほどの初心さはとっくの昔に失われているだろう。そんな私が偶然手にしたこの友人。ニフテリザが何故、美しく見えるのか。何故、好ましく思えるのか。人間と魔女の違いは何処にあるのか。そういったものが頭をよぎっていった。
この人は愚かだ。自分の力を冷静に分析できていない。ついて来るよりも何もかも忘れて生きていく方が賢いだろう。しかし、そうではない。そうではないという部分に、私は惹かれているのかもしれない。そして、癒されているのかもしれない。
「ありがとう」
考えていると、ニフテリザは何故か私に礼を述べた。
「私のしたいようにさせてもらう」
その笑みの明るさは、かつて苦手なものでもあったはずなのに、今はただ羨ましく、好ましいものに見えた。




