6.赤い花の指輪
セルピエンテ教会は外観よりもさらに広い。礼拝堂よりも、それ以外の場所の方がずっと広い。そこにアスル御殿が隣接するわけだから、さらに広大だ。
せっかく宿をとったのだが、私はそのアスル御殿の客間に半ば閉じ込められていた。ルーナたちが待っているはずの宿と比べ、この客間も明らかに広い。置かれている家具の質も全く違う。ベッドで寝そべってみれば、今まで感じたこともないような感触に包まれた。そのまましばし横になり、私はじっと天井と自分の指にはまる誓いの指輪を眺めていた。
ブランカは教えてくれた。この指輪は〈赤い花〉の忠誠の証であり、それと同時に武器でもあるらしい。
捕まえた昆虫をいち早く虫かごにしまってしまうかのように、速やかに指輪は与えられ、たしかに利き手の人差し指にはめるまで厳しく監視された。
〈赤い花〉のために存在する古の指輪。華やかなのは外見だけで、その意味は厳しく躾けた犬をつなぐ鎖にも似ているが、今のところ何かしらの変化が自分の身に起こったような感覚はなかった。
本当にこれで、私は強くなれるのだろうか。
考えながら、ただ時間を潰していた。
宿に残してきたルーナとニフテリザは、もう間もなくクルクス聖戦士たちが連れてきてくれる。私にとっては人質も同じだ。だが、彼らは彼女たちに危害を加えないと強く約束した。そうなれば、ここは確かにあの宿よりもずっと安全だろうし、常に竜人戦士たちと共にいることもルーナを守る際に役立つだろう。隠れ蓑を手に入れたようなものでもある。
だが、整理しておこう。しっかりと考えねばならないこともある。
まずは、ニフテリザの今後についてである。そもそも私がニフテリザを連れ歩いた目的は、彼女にとって第二のスタートを切れる場所を見つけるということだ。ディエンテ・デ・レオンはまさにその場所であろう。もしも、ニフテリザが望むのならば、この場所に彼女の住処を用意してもらうくらいのわがままは聞いてもらえると信じたい。しかし、私が強制しては意味がないだろう。その選択をニフテリザ自身にさせなくては。
輿入れの旅の準備に、死霊との恐ろしい関わり合い、ニフテリザとの今後の話し合い。これから起こるだろうことが、私の頭の中でぐるぐると回りだす。
「面倒臭そうな日々の始まりね……」
ぼんやりと指輪を眺めながらそんなことを呟いた。その、直後だった。
「腹立たしい日々の間違いじゃないか」
突如響いた声に、衝撃が走った。
慌てて起きてみれば、部屋の隅の物陰にいつの間にか、そこにはカリスがいた。人狼であるからといって、私に気づかれずにこの場所に容易に侵入できるものだろうか。いや、影道を使えば可能だろう。ここは民間の宿とは違い、特殊な魔術もかけられていない様子だ。聖堂の客間であるにも関わらず、と思われるかもしれないが、伝統の魔術を継ぐものがいなければこんなものだ。心配せずともまともな人狼ならば、こういう場所で狩りは行わない。
しかし、問題は、「私に気づかれずに」という点である。声を聴くまでカリスの存在に全く気付かなかったのだ。それがあまりにも衝撃的で、私はしばしカリスを注視してしまった。
「〈赤い花〉の聖女だと……虫唾が走る。何故、お前なんだ……」
「カリス。見ていたのね」
「カルロスを盾にすればお前にも気づかれぬと思ったのでね。しかし、待っていたのは胸糞悪い光景だった。お前の首が飛ぶことを期待していたというのに」
しっかりと距離を取りつつ睨み付けてくるカリスを見つめながら、私はふと指輪を眺めた。
なるほど、これは、分かりやすい変化だ。あんなにも人狼を欲していた体が全く反応しない。今の私にとって、カリスはただの他者だった。喉から手が出るほど欲しいと思っていたあの感覚が思い出せない。
その外見が美しいと思うのは変わらないが、根本的な感覚が変わってしまった。ただの知り合いを前にしているようで、その毛皮も欲しいとは思わなくなっていた。
「どうした」
私の動揺が顔に出ていたのだろう。カリスに問われ、私は慌てて目を逸らした。
「話を聞いていたのなら分かるかしら。どうやら、私は本当に魔女の性から解放されているようよ」
「――それはつまり、私を殺したいと思わないということか?」
「ええ」
短く答えれば、カリスは不敵な笑みを浮かべた。
「信じられんな」
笑いつつ、警戒を崩さない。
「いつものお前なら、そうやって油断させ、気を抜いたところを切断するなり拘束するなり、というところだ。善意につけ込んで哀れな同胞を捕らえたときもあったことを私は知っているぞ、悪魔め。それに、今のお前なら、不法侵入した人狼一匹殺すくらい自由だろう。何なら、侍女どもがうやうやしく後片付けしてくれるかもしれない。冗談じゃない。ゴミクズとして捨てられるのは勘弁願いたいものだね」
「いつもの私ならそうでしょうね。でも、ゴミクズとして捨てられる? 馬鹿を言わないで。そんな下手な壊し方なんてしないわ。勿体ないじゃない。今までどれだけあなたに弄ばれたと思っているの。まずは綺麗な毛皮を剥いで、骨の髄までぐちゃぐちゃにしてあげる。あなたの隅々まで味わうのが楽しみ……ね」
そう言ったものの、悪い冗談にしかならなかった。
私の表情もまた、変化が強く表れていたのだろうか。カリスもさすがに分かったらしい。じっと見つめてから、彼女は深く息を吐いた。
「なるほど。巫女様のいうことはとりあえず信じよう」
「分かったならば助言してあげる。今がチャンスよ。今の私にはどうしてもあなたを殺す未来が見えない。今のうちに遠くまで逃げれば、もう二度と私に怯える必要もなくなるでしょうね」
普段の自分ならば何か考えがなくては言えないような助言だが、今だけは本心からそう言っていた。
殺すということが恐ろしくなってしまったのだ。なぜ、腹が減らないのに殺さねばならない。今の私にとってカリスは食べ物ではない。今のうちに、さっさと逃げてほしかった。
しかし、カリスは愚かなまでに注意深い人狼だった。
「それはどうかな。役割はいつか終わるのだろう。魔女に再び戻ってしまえば同じだ。むしろ目を離した分、いつまたお前が来るかがわからない。一方で、お前は一度覚えた気配を忘れないのだろう? それならば、生き残るためにも監視を続けるべきといえる。用済みになった直後、まともなうちにお前を殺してやればいい。お前が魔女としての感覚を取り戻すより先に。綺麗なままのうちに私の手で殺してやろう」
「賢くて面倒くさいことを考えるのね。それなら、好きにしなさい」
突き放した言い口で目を逸らした。さすがに、巫女に選ばれてしまった私を今すぐに襲うなどという考えはないらしい。ならば、好きにさせてやろう。心配せずとも彼女に殺されるつもりもないし、そんな未来のことはその時になって考えればいい。
「お前が憎い事と、古代の神への敬意は別だ。言われなくても好きにさせてもらう。せいぜい、役割を果たせ。私をあまり苛立たせないで欲しいものだね」
「あなたの為に頑張るわけじゃないけれど、そのつもりよ。あなたこそ、古代の神に敬意があるのなら、邪魔だけはしないで欲しいものね」
「するわけないだろう。私はお前よりも信仰心に篤い。それに、同胞が人間や神の子孫に混じって頑張っているのだ。彼の顔に泥を塗るようなことはやめておこうじゃないか」
「あらまあ、カルロスに恋でもしたの?」
揶揄ってみれば、カリスは面白いまでに不満そうな顔をした。
「色ボケ魔女め。欲望だらけのお前の頭にはほとほと呆れるよ。……まあ、いい。何とでも思え。お前がしばらく大人しくなるのなら、海巫女様に感謝しようじゃないか。だが、忘れるなよ、アマリリス。お前の命の期限は、役目を果たしたその瞬間までだ。役割から解放され、魔女の性がお前に再び授けられるその瞬間、私の剣がお前の首を刎ねるだろう」
「恐ろしい死の宣告ね。わざわざありがとう。常にあなたの影があることを覚えておくわ」
私の言葉を受けると、カリスの姿はそのまま闇に飲まれていった。影道というものがどんな場所なのかは知らない。だが、どんなに姿を隠したところで、私にはその居場所がだいたい分かる。分かったところで、何だというのだろう。ただカリスがそこにいる。それだけにしか思えなかった。
授けられた指輪を見つめながら、私はつくづく思った。
魔女の性というものがないと、こんなにも冷静でいられるのだろうか。今はもう、カリスやカルロスを殺したかった時の気持ちが全く思い出せない。何故、殺して楽しいのか。何が満たされるのか。これが欲に直結していたなんて、信じられないほどだったのだ。
「私はいま、真の意味では魔女ではない」
これまで通り――いや、これまで以上に魔術は使えるだろう。それでも、この力は仮初のものだ。自分が自分の為に作り出したものではない。仮初の力を得る以上、私に課せられた責任。その重みを感じながら、今はただルーナとニフテリザの到着を待ちながら、身体を休めた。




