4.人狼戦士
塵はまだ降っている。銀世界と呼びたいほど美しい。寒さを感じることもなく、ただ退廃的な美しさだけがそこにある。しかし、この美しい世界を人間たちは認めない。悪臭はそれほどまでに酷いのだろう。だが、どんなに鼻に訊ねてみたところで、私にはどうしても分からなかった。
この世界は分からないことだらけだ。どうして、自分が生きるということに直結しないものを大切にしようとするものがいるのか。こうした信仰も秩序のためには大事なのだと言われれば納得は出来る。しかし、身を投じてまで支えようという者たちの心は、なかなか理解しきれないところがあった。
特に、私よりも魔の血が濃く、そう言った生まれのせいでいい思いもしてこなかっただろうと感じられるはずなのに、正義を信じて自らの力で私利私欲のままに生きようとしない人狼の聖戦士とかいう種族の理解は難しい。
私にはむしろ、カリスの方が分かりやすい。
「アマリリスというのは貴様だな」
セルピエンテ教会の外で塵を眺める私に話しかけてきた大男。一目でわかった。人狼の気配がぷんぷんする。辿っていたあの気配と同じ。彼こそが、コックローチの教えてくれた〈御馳走〉だろう。すでに大剣を抜いているが、不意打ちをするという考えはなかったらしい。
「ウィルに言われてきた」
「カルロス。あなたがカルロスね」
逞しい体格の男性。人間にしか見えないが、人狼特有の気配がする。コックローチに会ったあの場所に残っていた気配と一緒だ。
カルロス。彼の目を見た。目印はつけ終わった。
「ああ、そうだ。イリスの〈赤い花〉の魔女。アマリリス!」
そう言って、カルロスは姿を変える。着ていた鎧も変形し、守備を整えた狼となる。
なるほど、面白い。装着する者が変身することを考慮して作られた魔防具だ。普通は人狼の変身といえば、衣服は裂けてしまうか、衣服ごと変身してしまうかの二択だ。力が強ければ強いほど、変身能力も高まる。どちらが本来の姿なのか分からないが、身に着けたものの行方など、人狼本人の感覚でしか分からない。だが、どんなに変身能力に長けた人狼であっても鎧のように硬くて丈夫な衣服までを変身によって生み出せる者はなかなかいない。そこで、魔防具というものが重宝されるのだ。
こういったものはディエンテ・デ・レオン以外だとあまり良く思われないと聞いている。そもそも人狼のような変身人間が聖戦士として活躍するなど、多くの人間たちの常識ではあり得ないのだ。しかし、実際は違う。ここは特に、カルロスのような存在が認められているのだろう。アルカ聖戦士であったエスカもジャンヌも言っていた。彼らにとって魔であることは罪にはならないということだ。
相手はこれまでの人狼ではない。ごく普通の傭兵であり、悪に手を染めるような存在ではない。とても素晴らしい風潮じゃないか。
感心していると、カルロスが唸り声を上げた。
「イリスのアマリリス。俺も聞いたことがある。人狼に生まれた以上、覚えておくべきだと聞かされた。亡国から来た〈赤い花〉アマリリスに気をつけろと。まさか、この俺の前に来るとは思わなかったが、来てしまった以上、戦うほかはない」
実に好戦的だ。余裕が見られないということは、それだけ私を恐れているのだろう。それならいい。せいぜい怖がらせておこう。私が空腹となるときまでが彼の命の期限。しかし、それは今ではない。
目印はつけたのだ。適当に争って仲間を呼ばれぬうちに退散しよう。
「その結果、殺されたとしてもいいってわけね」
「いかに百戦錬磨のお前であろうと、俺だってクルクス聖戦士として剣と鎧を与えられたのだ。魔女一匹に勝てぬ人狼戦士など求められていない。巫女様を御守するのは強い者でなければならん。だから、お前が勝つのなら、俺にはその資格がなかったというだけ」
「ふうん。真面目な人なのね。それなら助かるわ。おいで。お望み通り、力試しさせてあげるわ」
適当に相手をするのには慣れている。襲うふりをして逃げるのもいつものことだ。腹が減っていないときは、いつもそうしている。
「さあ、かかってきて」
安い挑発だったが、カルロスは面白いほどに釣れた。私を殺せると思っているのだろうか。少し脅かしてやろう。彼を指さして、私は目の前に集中した。
1、2、3、カルロスが跳躍する。5、6、鎧の音が響き渡った。8、唸りながらこちらに飛びかかって来る。10、11、12、溜めた力を解放する。
――蜘蛛の糸の魔術。
切断か、緊縛か。どちらでもいい。どちらでも怯えさせることができる。
もちろん侮ってはいけない。相手はクルクス聖戦士だ。あの鎧のとげにでも当たってかすり傷を負えば、私も死んでしまうかもしれない。
だが、恐怖はなかった。鎧のせいだろう。彼の動きは人狼にしては鈍いものだった。
――《切断》
鎧を着ているからといって、そのすべてを防御できるわけではない。
動くということは、それだけ脆い部分がある。何もかも防御できるような鎧があるとすれば、もっと身分の高い戦士が身に着けるだろう。
目論み通り、私の魔術は完全には防がれなかった。だが、カルロスの体もどうやら無事だ。切断は成功せず、ただ標的を突き飛ばすに留めた。
14、15、カルロスが苦しそうに呻く。しかし、血は一切流れていない。
まあ、いい。
怯えさせればいいのだ。今は殺す時ではない。それに、カルロスのことが大体わかった気がする。
突き飛ばされたカルロスが起き上がり、こちらに牙をむいた。
「くっ……ぐう、やりやがったな。それが、我々人狼を惨殺してきた牙というわけか」
「こんなものじゃないわよね。もっと力を見せて」
挑発すれば、カルロスはよろけつつも体勢を立て直した。
それでいい。素直であるのはいいことだ。カリスといい、彼といい、人狼は好ましい人物ばかりだ。どこまでも前を見据えるその姿は大変美しい。
もしも魔女の性などなければ、友人にだってなれたのだろうか。そんな妄想さえしてしまうほどに、私は人狼を愛している。
「言われなくとも……」
17、カルロスが再び走り出す。
気を抜いてはいけない。
相手はただのオオカミではないのだ。賢さだけではなく、力もある。人と狼の姿を切り替えるほどの並々ならぬ魔力もある。いくら獲物だからとはいっても、人間の血を引いていない純粋なる魔ということを忘れてはいけない。
だから、全力で痛めつける。そのつもりで魔術に集中し始めた。
19、20、もっとひきつけ、力を解放する。22、23、突然、声が聞こえた。
「いけませんね」
25、うなじに冷たい感触が走り、私はそのまま凍り付いてしまった。
同時に、頭に浮かんでいた数字が一瞬で消えてしまった。
聞こえてきた声は、非常に丁寧な青年の声。この瞬間まで、全く気配に気づけなかったことに戦慄を覚えた。
「我が同胞を食べようだなんて」
竜人ウィル。海巫女を護るレグルス戦士。
すっかり忘れかけていたその名前を思い出した。突きつけられているのが何かを察知し、さらに身が凍る。魔術を放つことも出来ぬまま、カルロスは迫ってきた。狼の姿が瞬時に切り替わり、大剣を手にした大男になる。その矛先が私の喉元を押さえつけた。
挟まれた状態のまま、私は奥歯を噛みしめた。このまま殺される恐怖ではない。苛立ちと怒り。屈辱と反発ばかりだ。私の命の全ては、二人の聖戦士に委ねられている。
反抗的なまま鎮めることのできない眼差しをただ正面のカルロスに向けていると、背後から冷静なウィルの声が聞こえてきた。
「さて、落ち着いたところでお話を聞かせてもらいましょうか」
「話すことなんてないわ。私は獲物を探しに来ただけ」
殺されるかもしれないという恐怖がじわじわと浸透してくる。現実と未来への想像がだんだんとはっきりとしてきた。自分の力を過信していたということだろうか。しかし、後悔しても、もう遅い。ただ宿に残してきた二人の事が心配だった。
けれど、断罪の時はなかなか訪れなかった。私の命を握りしめるウィルは、非常に冷静だった。
「こちらにあるのです。〈赤い花〉の魔女」
「貴様は俺に本気で魔術を向けた。それだけでも本来ならば死罪だ。一人旅ならよし、同行者がいるのならば同罪に問われる可能性もある」
「心配なさらずとも、一人よ」
「果たしてそうでしょうか。調べればすぐに分かりますよ」
頭をよぎったのはルーナの心配だった。人間であるニフテリザはうまく誤魔化せるだろう。無理やり連行されたといえばいいだけ。しかし、ルーナは最悪、私と運命を共にすることになる。もしくは、クロコ帝国に返還されてしまう。非常に不味い。せめて、逃げるように伝えられたらいいのだが。
「仮にいたとしても、単独犯に違いないわ。私の目的はただ魔女の性を満たすことだけ。〈赤い花〉のアマリリスについて、人狼ならば多くが知っているはず」
私の言葉を補足するように、カルロスが言った。
「イリスから来たアマリリスというのは人狼狩りの魔女のことです。世界各地で多くの同胞がこいつの手にかかって死んでいる。中には悪人もいたかもしれませんし、単なる噂に過ぎませんが、こいつは善でも悪でもなく、魔女の性により人狼を食って生きるだけのケダモノだと聞いています」
「――なるほど、魔女の性というやつか。たしか魔女や魔人という生き物は性に縛られていると聞いている」
ウィルはそう言うと、急に力を抜いた。呆気にとられる私のうなじから、冷たい感触が引いた。カルロスが目を丸くして、その様子を窺う。私の方も気持ちは同じだった。そんな我々に、ウィルは言った。
「剣を下ろしなさい、カルロス。心配せずとも私が責任を持つ。彼女が力を放つよりも、この私が剣を抜き、首を刎ねる方が早い。それが、魔女と竜人の能力差だ。……分かりますね、アマリリスさん」
丁寧に言われ、私は慎重に頷いた。
確かなことだ。聖獣の子孫……ましてやレグルス戦士に逆らわないほうがいい。そんな危険な賭けに出ることはない。私の目的は今すぐに命を懸けてまでこの男を手に入れることではないのだ。
今日はただ挨拶にきただけ。生き延びる道があるのなら、つまらない尊厳など捨ててしまうべきだ。
「抵抗はしないと誓う。で、どうして、その剣を収めたの?」
いまだ私の喉元を押さえつけるのをやめないカルロスのことは放っておいて、私はウィルに向かって訊ねた。ウィルもまたカルロスを咎めることはなく、私の問いに答えてくれた。
「ただの魔女ならばここで粛清していたでしょう。カルロスは我々の同志です。そんな彼に危害を加えるものは排除せねばならない」
「では、何故?」
「あなたが〈赤い花〉の心臓の持ち主であると聞いたからです」
ウィルの言葉に、カルロスもはっとした。
何を思ったのか、聖剣を持ったまま、私からゆっくりと離れていく。
解放されたものの落ち着かない。ちらりと後ろを見れば、ウィルの異様に澄んだ瞳がこちらをじっと見つめていた。
「〈赤い花〉に何の関係が?」
警戒心をあらわに、私は訊ねた。
恐怖を見せるわけにはいかないが、かつての記憶が蘇りそうになる。薄っすらと覚えているのは競り会場の光景。魔術などろくに使えなかった幼い私を、人々はこぞって競り落とそうとした。その後、ニューラに引き渡され、ローザ大国の西南部チューチェロへ向かった日のことが、薄っすらと蘇った。
母と引き離された後、私は大きなことを学んだ。〈赤い花〉に関心を持って接してくるものは信用してはいけない。育ての親であり、魔術と愛も教えてくれたニューラでさえも、そうだった。
この者たちはどうなのか。嫌な予感しかしなかった。
「やはり気を悪くしましたか」
ウィルは苦笑気味にそういった。
「ご心配なさらず。我々は金儲けなど考えていません。あなたの返答次第で、魔術をカルロスに向けたことを忘れてあげましょう。お連れの方々の安全も保障しますよ」
把握されている。逃げ場はないらしい。
「どういうこと?」
「海巫女様がちょうど〈赤い花〉の魔女や魔人を探していたのです。どうか、ご同行願えますか」
「海巫女様が?」
名誉なことだが、あまりいいことではない。
私のような身分というものすらないような女が海巫女様にお会いできるのは滅多なことではないだろう。しかし、彼女が〈赤い花〉を探しているとなれば、あまりよくないことだ。
可能であれば、断るべきだが……断るという選択肢は果たして今の私にあるのだろうか。恐らくない。一人きりならば魔術を駆使して逃げ出すことも出来ただろうけれど、さすがにルーナたちを見捨てて自分だけ逃げるわけにはいかない。
「分かった」
今は素直に応じることしかできなかった。




