2.気配
ルーナをニフテリザに託して真っ先に向かった先は勿論、人狼の気配のあった里の外れだ。
道中、どのような相手なのかを考えていた。そして、万が一、戦闘になった場合も殺さないように気を付けることを自分に強く言い聞かせていた。
エリーゼの後味はまだ残っている。せっかくの命なのだ。一回しか味わえないのだから、勿体ないことをしてはいけない。いまだに私の腹の中で溶け続けているエリーゼにも悪い。エリーゼを失って失意に沈むカリスにも悪い。
そうだ。カリスはいま、何処にいるのだろう。どこか遠くへ逃げ出してはいないだろうか。
幸いにも、カリスは賢くて愚かな人狼だ。生き延びるための策として、私から一目散に逃げる方法ではなく、私を常に監視することで身を守ろうと決めている。その為だろう。心配など無用だった。彼女もきちんと里に入っている。そんな気配がする。ならば、今頃、同族のよしみで私が接近している相手に助言していたりするのだろうか。
いや、そういうことはない気がした。ジュルネの町でエリーゼを助けようとしたのは、彼女が知り合いだったからだと思う。今日の日まで、私はルーカスやエリーゼ以外の人狼をたくさん殺してきたし、カリスはこれまでに何度も同胞を見捨ててきた。注意深く見つめ、同胞の死をその目に焼き付けていた。助言していたのかもしれないが、私に食い殺される同胞を助けようと身を乗り出すことはなかった。
だが、生き物なんてそういうものだ。よっぽど勇敢でない限り、誰もが自分の事で精一杯だ。カリスはごく普通の生き物なのだろう。死にたくないのなら、死ぬようなことはしない。それだけのこと。
さて、それは私も同じだ。
死にたくない、狂いたくない。だからこそ、好ましい獲物候補にはできるだけ目印をつけておかなくてはいけない。その為に訪れたのが、マルの里の北側に位置する山中であった。木々の数は少なく、他の生き物の気配はあまりない。そんなごつごつとした岩場にて、私の求めている気配だけがはっきりと残っていた。しかし、残念なことにその気配の主と思われる人物はいなかった。
「逃げた……?」
すぐに周囲の空気を確認してみたが、何処へ行ったのかが分からない。この場所にだけ気配は留まっていた。ただの人狼ではない。特殊な術を知っている者だろう。
「魔術かしら」
気配を消すという魔術もある。コツはいるが、魔女や魔人ではなくとも使用できるため、一人前の聖戦士たちがよく使用している。エスカもジャンヌもこれを使っていたのを思い出す。ただの人間には不完全となるが、エスカのように生粋の魔物が使うと完璧に気配を隠せる。そのため、後を追うということが難しくなってしまう。ということは、聖戦士なのだろうか。
せっかく望ましい獲物に会えると思ったのだが、どうも一筋縄ではいかないようだ。
「おやおや、奇遇だね」
声をかけられて驚いてしまった。誰もいないと思っていた岩場の影に、いつの間にかこちらを見つめる妖しい人影があった。心配せずとも、よく知った人物だった。コックローチだ。いつものマグノリア王国風の恰好でのんびりと休憩していた。
「君一人でいるということは、狩りかな。とすれば、先ほどまでここにいた御仁が狙いというわけか」
「知っているの? 教えて」
「アマリリス。君とは長い付き合いだ。そんな君が、私の持つタダの情報など信じるのかね?」
「幾ら? 何でもいい〈御馳走〉の情報を買うわ」
苛立ちを隠せなかった。
その〈御馳走〉と、ここで会えるものだと思っていたせいでもあるし、忌々しいコックローチの喋り方のせいでもある。懐に手を突っ込んで財布を取りだすと、彼は満足そうな表情を見せた。
「君にぴったりだと思われる情報は、大きく二つある。一つは君が望んでいる〈御馳走〉の情報。もう一つは〈亡者〉だ」
「〈亡者〉? ここで?」
嫌な響きだ。〈亡者〉とは死霊の情報である。桃花の死因でもあり、〈赤い花〉を好んで食べる彼らの存在は、私にとって天敵と呼ぶに相応しい。関わるべきではない存在だからこそ、コックローチの情報は貴重だった。
「詳しくは対価をもらってからだ。二つまとめてなら、この価格でどうかな?」
指で提示されたのは、さほど困らない額だった。躊躇うこともない。私はさっそくシトロニエとディエンテ・デ・レオンの硬貨を混ぜて放り投げた。コックローチはそれをうまくキャッチすると、やっとまともに相手をしてくれた。
「では、まずは〈御馳走〉の情報を話そう」
人差し指を立て、コックローチは一方を差した。
「君が求めている相手は、マルの里の西にあるセルピエンテ教会のクルクス聖戦士様だ。名前はカルロス。人狼であることを隠してはおらず、セルピエンテ教会の番犬のような頼れる存在のようだね。言っておくが、人狼戦士といっても、使い捨てなんかじゃない。レグルス聖戦士という役職をご存じかね? 三巫女を護ることを使命とする世界でたった三名しかいない優秀な聖戦士だ。カルロスはそのうちの一人であるウィルという竜人戦士の指令の下で近衛の長を務めており、その家柄も代々――」
「何処に行った?」
カルロスの華麗なる肩書などどうでもいい。
イライラを隠し切れずに短く問うと、コックローチはにやりと笑った。
「先ほどまでここで不審者の相手をし、異常が去ったとしてセルピエンテ教会に戻った。気配が途切れているのだろう? 聖戦士様お得意の術に加え、普段は極限まで魔力を抑え、人間のふりをしているから当然さ。不審者については後述」
「とにかく、セルピエンテ教会にいるのね?」
「アマリリス。焦っているね。あまりいいことではない。お得意様向けのおまけとして助言をするならば、カルロスに近づくつもりならもっと念入りにした方がいい。彼は正式な聖戦士だ。人狼であることを隠さずして信頼されている。特に彼の上司であるレグルス戦士を敵に回せばこの国に居られなくなるどころではない」
「じゃあ、他の人狼はいないの?」
「君が心より愛しているカリスがいるね」
「それ以外は?」
「残念ながら、私は見ていない。君が感じないのならいないのかもしれないね。カルロスだけだ。カルロスの家族やその他の人狼はこの里からもっと離れた隣村にいると聞いた。渡り鳥にでも返信できない限り、そこまで徒歩で狩りに行くのは少し辛いかもしれないね」
あいにく、私は変身の術を覚えてはいない。もう少し、ニューラの元で育てば教えてもらえたかもしれないが、その術は生まれながらの素質によるところも大きいので、今すぐに身につけられるようなものではないだろう。
ならば、カルロスしかいないということになる。
「……そう、残念だわ」
本当に残念だ。
カルロス。その名前は刻んだ。気配も覚えた。だが、襲っていい相手なのか。ただのクルクス聖戦士ならば躊躇いなどなかっただろう。しかし、レグルス戦士に信頼されているというならば、話は別だ。その地位は相当高いものであり、狩りに失敗すれば、私はあっけなく首を取られるだろう。
私一人ならばともかく、ニフテリザやルーナが同行している旅で、こんな危険な賭けをしてもいいものか。
残念だが、カルロスは諦めるべきか。……もしくは、もう少し様子を見るべきか。思考しながら、私はコックローチを促した。
「〈亡者〉についても教えて」
「よかろう。死霊はソロル。美しい人間の女の姿を支配し、ここ数か月の間、セルピエンテ教会にて守られる輿入れ前の海巫女様を眺めている」
「巫女を狙っているの?」
「おそらく」
死霊にしては無謀すぎる気もした。だが、そもそも彼らの考えることなど分からない。
大量にいるソロルやフラーテルについては、あらゆる伝承が残っている。冥界を収める魔王――ニューラの元にあった本では悪神と書かれていた――は、死霊たちに命じて人々の生活を根っこから蝕むものだとされているほどだ。
彼らがどんな信念で動いているのか、あるいは、何も考えていないのか知るところではないが、人間たちの世界に溶け込もうとしない生き物たちであるのは確かだった。
「マルの里は今、緊迫した状況にある。カルロスがここにいたのもそのためだ。ここで死霊の出現があり、それを調べていたらしい。……輿入れ前の巫女が死霊に狙われるのは、実は珍しいことではないことを知っているかな。古の伝説では、〈赤い花〉の勇者が巫女たちを守ったと言われているのはさすがに君も知っているだろう。その襲ってくる相手が、世の混沌を目論む悪神であり、その隷従である死霊なのだと昔から信じられている」
コックローチの言葉に、私は静かに頷いた。
「それは知っている。だから、死霊は〈赤い花〉を食べるようになったのだと。古の勇者への対抗として、強い力を得る前のつぼみを好んで食べて減らしてしまう」
桃花がいつかソロルに食べられてしまったように。
あの時のことを思い出して、少しだけ怖気づいてしまった。
「おや、怖がっているのかい、アマリリス。珍しいね。さっきまではあんなにギラギラとした目をしていたのに」
「別に、怖くなんてないわ。食べられるつもりなんてないもの。それに、此処にいるソロルの狙いは海巫女なのだと言っていたじゃない」
「確かなことはソロルにしか分からない。それに、海巫女様を襲うための準備として、君を狙うこともあるかもしれない」
コックローチに言われ、内心動揺した。目の前で桃花が食べられていってしまったあの日。あの悲鳴が脳裏に浮かび、固まってしまった。
あれから、私は強くなっているはずだ。あの頃に比べれば、魔術もだいぶ安定している。それなのに、どうして震えているのだろう。理由は簡単だ。今だって耳に、そして全身に、こびりついているのだ。桃花の苦しそうな悲鳴と、それでいて最後まで逃げるように言っていたあの姿が。
「それは困るわね。せいぜい、気を付けるわ」
幻聴に囚われる前に、振り払った。
数を数える余裕もないまま、私は周囲を見渡した。コックローチと私以外の気配はどれも遠い。
セルピエンテ教会はどちらの方角だっただろう。襲うかどうかはともかく、カルロスとかいう名前の哀れなほどに身分の高い番犬の姿でもこの目にしておきたかった。
「相変わらず君は面白い客だ。ぜひとも末永くお付き合いしたいところ」
コックローチの揶揄いでさえ、今は構う気にすらなれなかった。
「もういいわ、コックローチ。売りたい情報はこれまでなのでしょう?」
「そうだね。あとは君にとって不必要と思われるものばかりだ。……しかし、冷たいね。少しくらい雑談に付き合ってくれたっていいじゃないか。他の客――特に人間のお客はもっと付き合いがいいものだよ」
「他人と――ましてや人間と比べられても困るわ。あなたは情報屋。それ以上の存在価値はない。それ以下の存在でもないわ。さようなら、コックローチ。せいぜい、魔物のおやつにならないように気を付けて」
「さようなら、アマリリス。ご忠告感謝するよ」
帽子をかぶり直し、コックローチの姿は影に飲まれていく。その姿をしっかりと見送ってから、私は改めて、セルピエンテ教会を目指した。




