1.人狼狩りの魔女
なんて美しいのだろう。辺りはまさに灰色の世界だった。
降り積もるのは雪ではなく塵。ヴェルジネ村の中でも賑やかな通りにいるはずなのに、今だけは世界が崩壊してしまったかのように静かだった。
理由はこの塵だ。この塵は人間たちに嫌われている。酷い悪臭を放つからだと言われている。
だが、私の鼻には伝わらない。頭から被る赤い頭巾も真っ白だろう。しかし、その忌まわしさがどうしても分からなかった。
なぜなら、私は人間ではないからだ。人間の血はわずかに引いているかもしれないが、それ以外の血がこの塵を受け入れるようにと私に囁いてくる。魔の血と呼ばれるそれを、全身に送っているこの心臓は、〈赤い花〉と呼ばれ、私が魔女として生まれた意味を教えてくれる。
塵は美しい。ただ白く輝いているだけだ。視界の悪さも吹雪に似ている。それなのに、寒くないのだから不思議なものだ。この不思議を共有できる他人は貴重な存在だ。そう、目の前の彼もその一人。灰色の世界でたった二人。私たちは長い間、見つめ合っていた。
彼の姿もまた美しい。眩い金髪はこの灰色の世界の中でよく目立っている。冷静に、穏やかに、私の顔を見つめている。だが、その人間らしい顔に騙されてはいけない。このヴェルジネ村の人々を恐怖に陥れてきた連続少女行方不明事件について、恐らく誰よりも真相に近い人だろうと私の心臓が教えてくれている。
「……なるほど」
やがて先に口を開いたのは彼の方だった。
「君は変わった心臓を持っているようだね。金の匂いのする心臓だ」
目を光らせるその表情は、悪人のもの。世界各国で罪とされる行為をたくさん積み重ねてきた人の顔だ。それでも、恐れる気にはならなかった。ただ美しいだけ。それ以上に何があるかと問われれば、思い浮かぶ答えはたった一つ。
「此処で君を捕らえれば、大金が手に入る。故郷の家族にもいい飯を食わせられそうだ。お嬢さん、どのくらい生きているかは知らないが、生粋の魔物と魔族の違いというものをその身に教えてやろうじゃないか」
そう言って、彼は塵に包まれながら姿を変えた。眩い金髪はタテガミとなり、軽装に身を包む人体はいつの間にか形を変え、黄金の獣へと変化していた。彼の姿は狼によく似ている。だが、人間たちの信じる創造主の作りたもうた純朴なる狼たちに比べると、もっと大きく、もっと逞しく、もっと美しい姿をしている。
人と狼の姿を持つ魔物。聖鳥ジズに運ばれてきた魔物たちの子孫。古くより人狼と呼ばれ、人々に恐れられていた存在が私のすぐ目の前にいる。その事実が私の心臓を高鳴らせた。〈赤い花〉が喜んでいる。狼を見て、興奮している。
血がざわつく感覚と共に、わたしは深呼吸をして彼の目を見つめ、そして唱えるように呟いた。
「……ルーカス」
たった今、その名前が頭に浮かんだ。
彼の表情が変わる。読み取った名に間違いなかったようだ。動揺は手に取るように伝わった。それが愛おしくて、自然に笑みが零れ落ちた。ルーカス――美しい人狼の男は私を見つめたまま鼻で笑う。
「名前を見抜いただけでいい気になるなよ。そのすまし顔、今に苦痛に歪めてやろうじゃないか」
ルーカスが怒っている。動き出す。その様子を見つめていると、頭の中で数が浮かんだ。
1、2、3、ルーカスが跳躍する。5、6、ルーカスが大口を開く。8、白い牙が見える。そして。10、彼は罠にかかった。
――蜘蛛の糸の魔術《切断》
勝負は一瞬で終わる。しかし、たった一度の快楽を数秒で終えるのはもったいない。だから、私はいつも狙いを逸らすのだ。
罪悪感なんてなかった。罪悪感なんてものは、食物連鎖から外れたものだけが抱けるもの。すなわち、人でも魔物でも魔女でもなく、神とやらのみが真に抱けるものなのだ。
「が……ああ……く……くそ……が」
灰色の世界に赤い花が咲いた。花弁を散らすように飛び散ったのは、ルーカスの体液。人狼の血も人間の血と同じく赤いのだ。魔女の血も同じ色をしている。私に流れるものと同じ血を流しながら、美しい獣は塵の上に転がっていた。苦しそうにもがいている。手足は真っ赤に染まっていた。痛みと苦しみの中で何が起こったのかを理解すると、ルーカスの耳と目が怯えを表した。
私の顔を見つめるその目。彼はようやく現実を理解した。
「まさか……お前は……」
負けるなんて思っていなかったのだろう。だが、それこそがこの世界の多くの者の命を奪ってきた原因なのだ。
ルーカスは愚かだった。自分が強者だと信じていた。そして私は彼よりも強者だった。人狼を捕食する魔女。彼も噂を聞いたことくらいはあったのだろう。
「――アマリリス」
彼の絶望は頂点に達した。私の方もこれ以上我慢することは出来なかった。
空腹が私を支配し、心臓を縛り上げる。生まれ持った本能が囁いている。思考するよりも行動する方が早かった。
彼の命は糧である。恵みに感謝し、いただくことが私の生きる術。私の心臓が彼の命を欲しがっているのだ。欲望を満たさねば、私は生きていけない。猫がネズミを狩るように、人が家畜を屠るように、私は人狼を食わねばならない。
「さようなら、ルーカス」
食事は一瞬で終わる。痛みも苦しみもこれっきりになるだろう。
「あなたの犠牲に感謝する」
もはや物言わぬ彼の亡骸に、小声で追悼した。