9.指輪をあなたに
恐る恐る近寄ると、アマリリスは静かに身を起こした。その表情も、気配も、全てが先ほどまでとは全く違う。分かってはいたことだが、指輪があるのとないのとでここまで違ってしまうとは。
しかし、何度も思うように、どちらもアマリリスで違いない。私の命を求めて魔術を向ける彼女も、私の愛を求めて抱擁を求める彼女も。
そばまで近寄ると、私は思い切り彼女を抱きしめた。もう聖剣はいらない。牙も爪もいらない。抱きしめてやるだけで、彼女は大人しくなってしまった。
「あんなに逃げてって言ったのに」
涙組みながらもアマリリスは嬉しそうにそう言った。そんな彼女に私は答えた。
「そんなこと、出来るわけない。主人となった者は従者を見捨てられないらしいな。それは君がよく分かっているんじゃないか?」
少なくともこれがルーナとアマリリスだったら、アマリリスはやはり見捨てなかっただろう。
そんな思いをそっとしまい込み、私は彼女に笑いかけた。
「それに、上手くいったからいいじゃないか。もう怯える必要はないのだから」
「そうね……」
アマリリスは頷いて、私に抱き着いてきた。
「怖かった。本当にあなたを殺してしまうところだった。自分の命が危険に晒される時よりもずっと怖かったの。ルーナを失った時以上の苦しみを自らの手で引き寄せてしまうところだった」
「あの女の置き土産だ。だが、もう心配はいらない。戦いは終わったんだ。試練も終わった」
そこで改めて、私は周囲を見渡した。
忘れ去られたヴァシリーサの古城。その私室であっただろうこの場所に転がるのは、二つの躯だ。一つはヴァシリーサ。もう一つはゲネシス。そして、全ての元凶となったソロルもまた、もうこの世にはいない。人知れず始まり、人知れず終わったこの戦いは、恐らく無力な翅人戦士たちが見届けたことだろう。彼らの報告がいつ本部に届くかは分からない。いずれにせよ、私たちがすべきことは戻ることだ。
「いいえ、まだ終わっていないわ」
アマリリスは言った。
まだ痛むらしい右手を庇いながら、彼女は憂鬱そうに呟いた。
「ソロルたちの置き土産はいっぱいある。解放された聖獣たちの力が戻るのも、巫女たちが再び生まれるのも、これからだもの。それに、西の地での戦争が終わらないと。駆り出された戦士たちが帰ってこないと、平和は戻ってこない」
「それも直に終わる。私たちが今すべきことはこれで全て終わったんだよ」
震えるその身体を抱きしめると、アマリリスは私を見上げ、そして頷いた。
指輪の嵌る左手をなぞり、私は彼女に囁いた。
「そうだ。すぐにやれることはあった。ニューラに会いに行こう。終わったことを伝えて、そのまままずはイグニスへ帰るんだ。その後、グロリアやニフテリザにも会いに行こう。私たちの無事を伝えられれば、二人とも少しは元気が戻るかもしれない」
「ええ……帰りましょう」
アマリリスはそう言って、私に縋りついてきた。
「皆に無事を報告して、要請があったら戦地に行った仲間たちの助力もしたい。そして、本当に平和が戻ったら、お墓を作りたいの」
「墓?」
問い返すと、アマリリスは頷いた。
「この戦いで消えた全ての命のためのお墓。運命に翻弄されたゲネシスやサファイア、それにヴァシリーサやヴァシリーサの犠牲になった全ての人のためのお墓を作りたいの」
淡々と呟く彼女の声は、まさに聖女のようだった。
「分かった。作ろう」
アマリリスを抱きしめたまま私は言った。
「リリウムのお偉いさんがたとえ渋ったとしても、私たちが勝手に作ればいい。君がしたいことに付き合うよ。主人に選ばれた者として」
死者の弔いのため、そして、生き残った私たち自身の未来の為でもある。
これから、我々はどんな道を歩むことになるのだろう。ゲネシスが死んでしまっても、ソロルが冥界に戻っても、きっとまた新しい絶望は生まれるはずだ。
そんな時、リリウムはアマリリスに対してどう接するのか。これまで私たちの道を阻んだ元聖女たちの嘆きを、ソロルの戯言と言い捨てるのは簡単だ。しかし、彼女らが実際に不幸な境遇に陥り、絶望してこの世を去ったことは忘れてはならない。
今のリリウムは過去と違うと何度も強調するが、いつまた同じような待遇をアマリリスが受けることになるかは分からないのだ。
では、私に出来ることは何か。
それは、傍に居続けることだった。
主人を失い、沈黙が訪れたヴァシリーサの私室で、私は改めてかつて愛した人の亡骸と向き合った。アマリリスの魔術は一瞬にして彼に罪を償わせた。はっきりとした形で、今もそれは示されている。もう二度と、彼の声を聞くことはない。それは正直言って、やはり寂しいことだった。しかし、床に転がるその死に顔は、心なしか穏やかなものに感じられた。
私の願望なのかもしれない。だが、ゲネシスはもしかしたら、死ぬことでようやく苦しみから解放されたのかもしれない。
危険が完全に去ったと判断したのか、しばらくすると私たちに声が届いた。その年若い声は翅人戦士のもので間違いない。傷ついたパピヨンたちの代わりに派遣された、力なき若者たちだ。私たちが死ねば、その報告を本部にしていただろう者達。
パピヨンたちと同じ制服を身にまとう彼らは、姿を現すなり戦いを終えた私たちの前にひれ伏し、リリウムを代表してたどたどしくも感謝の言葉を口にした。
彼らは言った。
「後は我々にお任せください。罪人の遺体も、城主の遺体も、我々が運びます。……そのくらいは、我々にさせてください」
誠実なその声に、私もアマリリスも黙って頷いた。
その後、古城から外に出てみれば、霧はすっかり晴れていた。遠くからこちらに向かって走ってくるのは、かの人の愛馬だったヒステリアだ。慕っていただろう人の死を、彼女は理解しているだろうか。しかし、ヒステリアはアマリリスに近寄ると、甘えるように顔を近づけてきた。かつてのように私に威嚇などしない。あれほどの暴れ馬が、今はすっかり大人しくなっていた。
「分かっているみたい」
アマリリスは言った。
「分かった上で、全てを受け入れているみたい」
魔女の耳がそう聞いたのならば、そうなのだろう。そう言う事にしておきたい。
ともあれ、ヒステリアは素直に私たちを乗せてくれた。塵の悪臭にも負けない血の臭いや死臭がするだろうに、全く気にせずに走ってくれた。
アマリリスを背後から抱きながらその走りを御し、目指すはニューラの家だ。そして、あらゆる未来へと駆けていくことになる。
アマリリスの温もりを胸にヒステリアの背に跨っていると、段々と気持ちが軽くなっていった。長い、長い戦いだった。いつまで経っても晴れない塵の中で、彷徨っているようだった。そして、その爪痕は、これからもしばらくは残るのだろう。
しかし、これだけは信じていい。
もう怯える必要はない。愛する人と共に歩む未来を、悲観することはないのだ。
これからどんな明日が待っているかなんて分からない。ヒステリアの走る先にどんな未来が待っているかなんて分からない。それでも、アマリリスが歩み続けるならば、私は隣を歩むだろう。ひと休みするならば、共にひと休みするだろう。
指輪が、そして魔術が繋いでくれる限り、私の居場所はアマリリスの隣であり続ける。
死が二人を別つまで。
全力で大地を駆けるヒステリアは、やがて私たちを小高い丘の上へと運んでくれた。霧の古城に攻め入る前にもたどり着いた場所だ。そこで私は手綱を引いて、ヒステリアの脚を止めて振り返った。
主人を亡くした霧の古城は、最初に来た時よりもその姿がはっきりと見えていた。だが、長くそこに暮らした主人がいなくなったにも関わらず、古城は何も変わらずにそこに佇んでいた。
あの場所で起こった戦いも、その場にいた我々と目撃した翅人戦士たちしか知らないのだ。
果てしなく広いこの世界の中においては、知らない人の方が圧倒的に多い。世界は何も変わらないはずだ。誰が絶望し、誰が幸福であっても、変わらずに在り続けるはずだ。
しかし、今の私の目にはその全てが輝いているように見えた。




