7.死の女王の置き土産
どんなに覚悟を決めたつもりでも、その光景を直視するのは辛かった。
もしも私が祈らなければ、今の彼はアマリリスの魔術などに負けなかったかもしれない。超人のままであれば、彼はきっとサファイアの望むような死霊の王となり、大勢に憎まれることとなってもそれなりに幸せと言える日々を送れたかもしれない。
けれど、全ては終わった。彼に残されたあらゆる可能性は、潰えたのだ。鍬形虫の鋏が、彼を断罪したその瞬間に。残された道が死あるのみとなったその瞬間に。
鋏は消え、ことりと体の一部が落ち、どさりと残りの部分が倒れる。遅れて広がる血の染みを、私はしばし茫然と見つめていた。
「ゲネシス……ああ、ゲネシス!」
空気を割くような激しい悲鳴が響き渡る。
サファイアの青い目が光っている。その色に含まれるのは、深い絶望だけではない。激しい怒りはすぐさま彼女に力を与えた。縁者を失い、徐々にただの死霊へと戻っていくはずの彼女だが、本来持っている力だけでも脅威なのは変わらない。やがてサファイアの嘆きの声は怒声へと変わっていった。
憎しみを込めた眼差しは、彼女の希望の全てだったゲネシスを殺した人物へと向く。
「……おのれ」
私ではない、アマリリスだ。
「おのれ!」
憎しみを込めたその力が、サファイアの手から解き放たれる。
気づいた私はすぐさまサファイアに飛び掛かった。
だが、人の足では少し遅かった。サファイアは一歩先に行動を開始した。強い魔術の反動ですぐには動けないアマリリスを狙って、風を起こしたのだ。
もちろん、ただの風ではない。冷たいその風は刃となり、アマリリスを襲った。直前に気づいたアマリリスはどうにか避けようとした。だが、当たってしまった。
鈍い悲鳴が聞こえ、アマリリスが蹲る。その姿が目に入ると、私にもまた激しい怒りがこみ上げてきた。アマリリスの血の臭いがしてくる。〈赤い花〉特有の血の香りもまた、私の感情を悪い意味で掻き立てた。
自分でも抑えたいほどの食欲がこみ上げ、大切な人を傷つけられた怒りと結びついて思考がこんがらがってしまう。そんな状態で、私はがむしゃらにサファイアに襲い掛かった。
愚直な攻撃だったが、サファイアもまた必死なようだった。ゲネシスの死は時間の経過と共に彼女から特別な力を奪い始める。巫女の力はまだあるが、聖獣の力はもうない。これから全てを失おうとしているサファイアは、こうなってしまえばただの女にも近かった。
だが、忘れてはならない。彼女は死霊であって、人間ではないのだ。
「道連れにしてやる……ただで滅ぶものか!」
そう言って、サファイアは私の身体を強く掴んだ。その瞬間、身体に激痛が走った。魔物の命すら蝕む死の力だ。弱まりつつあるとはいえ、それでも厄介なことには変わりない。ずっと掴まれていれば、私の肉体はやがて崩壊するのだろう。徐々に気が遠くなっていき、血が噴き出してくる。
しかし、私は攻撃をやめなかった。聖剣を握る力がなくなってくると、狼の姿となって鋭い牙でサファイアの身体に噛みついた。彼女に死を賜れるのが先か、その肉体を引きちぎるのが先か。まるで、しぶとく抵抗する人間を食い殺した時のよう。傍から見れば悪魔は私の方だろう。しかし、見た目がどんなにおぞましかろうと今の私にはどうでも良かった。
私はただ掴み取りたかったのだ。
アマリリスとの未来を。
そして、思いは力となり、死の力をも凌駕する。先に折れたのはサファイアの方だった。ゲネシスの魂がそれだけこの世から離れてしまったからなのだろうか。あれほど苦しかった彼女の死の力もだいぶ弱まり、ついには私から手を離して逃げようとし始めた。
この時を待っていた。
私はすぐさま彼女を取り押さえた。狼の姿のまま、聖剣すら使わずに、噛みついたまま前足で身体を抑え込んだ。そして、ずっと噛みついていた右肩を深く咥えると、そのまま思い切り噛み千切ってしまった。サファイアの口から悲鳴が漏れ出す。その声に私の中でずっと眠っていた猛獣の心がさらに刺激されてしまった。
かつて、ゲネシスの妻は人狼に襲われて死んだという。
その時も、このような姿をしていたのだろうか。
恐ろしい相手に成す術もなく、その胃袋に収まったのだろうか。
今の彼女がソロルであることなんて忘れるほど、サファイアは無力だった。青く美しいその目を私に向け、痛みによる涙をこぼしながら呻き続けていた。そんな彼女を抑え込み、私はさらにその肉体を食いちぎった。並みの死霊ならば、とっくに塵となっていただろう。
しかし、サファイアの身体には巫女の魂が閉じ込められている。そのせいか、肉体だけは丈夫なままだった。かつては利点だっただろうその特徴も、今の彼女には残酷なだけ。
せめて、早く楽にしてやろう。
そう思いながら、私はサファイアの両肩を抑え込み、その喉笛を見下ろした。
サファイアは滅びを悟ったのだろうか。急に大人しくなった。死霊だろうと痛みは感じるだろうし、肉体が滅ぶことは怖いだろう。怯えた目がそれを証明していた。だが、もう逃れる術もないと分かると、彼女は吹っ切れたように笑いだした。
「ああ……ああ、滑稽だわ」
痛みを堪えるような震えた声で、サファイアは言った。
「あなたの勝ちよ。それで間違いない。でも、忘れないで。あなたが望むような未来は絶対に訪れないわ。あたしがそれを許さない。あなたには間もなく不幸が訪れる。絶望しなさい。そして、あたしを憎めがいいわ。あなた達に……愛なんて残さない!」
意味のない呪いの言葉だ。
それ以上、喋らせる必要はないだろう。
私はそう判断し、サファイアの首に噛みついた。
こうやって死霊を殺したことは何度もある。だが、今回ばかりは生々しい感触だった。相手の死因を知っているからだろうか。かつての自分の罪と向き合わされるためだろうか。分からないまま、私は顎に力を入れ、そしてその喉を引きちぎった。
いかに巫女の魂を手にしているとはいえ、この傷はさすがに無理だったようだ。
引きちぎった瞬間、サファイアの喉からは血の代わりに黒い霧が吹きだした。青い目が宙を見つめ、虚ろになっていく。最後の言葉すら奪われ、身体を痙攣させはじめる。
だが、それも長くは続かなかった。天井へと何かを求めるように伸ばした手が床に落ちたその瞬間、彼女の身体は塵となって弾けとび、跡形もなく消えてしまった。その最中、サファイアの身体の中からは三つの光が逃げるように飛び出していった。一つは赤、一つは緑、一つは青。それらが何なのかは、すぐに察しがついた。光が何処へともなく消えていってしまうのを見届けると、後は沈黙が残された。
勝った。
終わった。
全ての戦いが、これで終わったのだ。
達成感と共に人の姿へと戻ると、私はすぐに落としていた聖剣を拾った。そして、アマリリスの事を思い出した。
振り返ると、彼女は蹲ったままじっとしていた。サファイアにやられた傷が痛むのだろう。ぽたぽたと血は落ち続け、その足元に血だまりまで出来ている。
だが、慌てて駆け寄ろうとしたその時、アマリリスは急に顔をあげ、私に向かって叫んだ。
「カリス!」
目と目が合ったその瞬間、私は寒気を感じた。
違う。何かが違う。今までのアマリリスと。獣の直感が、私に危機を伝えてくる。
そして、アマリリスは私に言った。
「お願い、今すぐここから逃げて……お願い!」
そこでようやく私は気づいたのだ。
アマリリスの手が──指輪の嵌っていた右手の指が切断されていることに。




