6.未来をかけた戦い
ヴァシリーサの遺した力が好機を生んだ。
やはりサファイアは、いかなる暴力も通用しないのではなく、通用させないようにしていただけだったのだ。ぎりぎりのところで剣の直撃を避けたのはさすがと言うべきか。しかし、これまでのように無傷ではいられない。
たかが掠り傷。されど掠り傷。サファイアは腕を必死に抑え、私から大きく距離を取った。その目は殺気に満ちている。私への怒りと殺意に溢れている。しかし、聖剣による傷は、じわじわと彼女の心身を蝕んでいた。
「ああ……おぞましい……これが聖油の毒。魔女や人狼だって、ただじゃ済まないというのに、その力であたしを斬るなんて」
けれど、と、サファイアは深呼吸を挟んで斬られた腕をそっとなぞった。
「無駄よ。何故なら、あたしはただの亡者じゃない。縁者との絆を得て、さらには巫女の力まで手に入れた。こんな毒、すぐに浄化できる」
サファイアの言う通り、掠り傷はすぐに治ってしまった。
巫女の力と言ったか。あの三人は今もサファイアの中に囚われている。解放しなければ、ずっと悪用され続ける。それは、ゲネシスが手にしている聖獣たちの力も一緒だ。取り戻すために、やるべきことはただ一つ。一つだけだ。
しかしそれは相手にとっても同じ事。
本気を出してかかってきたサファイアの力は、これまで戦ってきたどの化け物よりも力強い。聖剣で防ぎ、時には狼の姿となって避けながら、私は必死に好機を掴もうとした。
ヴァシリーサの力はまだ残っているだろうか。天でもいい、大地でもいい。私に味方する者はいるだろうか。縋るような思いの中で、私はサファイアの猛追から逃れ続けた。影道に逃げ込もうと意味はない。サファイアの放つ死の力は何処に隠れようと軽々と貫通してきた。当たらずにいるには避け続けるしかない。
幸いな事に、サファイアも亡霊であるわけではない。死霊だって生き物の一種ではあるはずだ。体力も魔力も無限ではなく、反動や限界はあるようだ。その僅かな余白が、私にとっては有難い休息でもあった。この間に攻められたらどんなにいいか。しかし、体力や魔力の限界があるのは私だって同じ。秘宝の力だけではどうにもならない。
サファイアから距離を取り、様子を窺い続けていると、背中が誰かとぶつかった。ニオイで分かる。アマリリスだ。彼女もまたゲネシスと戦い、傷一つ与えられずにいた。だが、逆に言えば、あちらもこちらを傷つけることは出来ていない。彼女の血のニオイがしないことに安堵していると、アマリリスがそっと私の手を握ってきた。
(聞こえる?)
魔術だ。答え方は分からずとも、頭の中に返事を浮かべた。
──聞こえるよ。
すると、すぐにアマリリスの声は再び聞こえてきた。
(良かった。お願いがあるの。あの男──ゲネシスの力は強すぎる。聖獣たちから奪った力が牙をむいて、私の力を全て弾いてしまうの。彼の首を刎ねるには、あなたの力が必要よ)
──ああ、それは分かっているさ。
奪われた聖獣の力を封じる事。それが、私の役目でもある。秘宝を口にし、聖女と運命を共にする覚悟を決めた私の出番だ。だが、それは分かっているのだが。
しかし、どうすればいい。
あの男を前にして、私の中で秘宝は沈黙を続けている。剣を交えれば、何か分かるだろうか。聞きかじったリリウムの祈りを唱えれば、何か奇跡が起こるだろうか。
迷いが生じるのは何故だろう。
アマリリスの代わりにゲネシスの相手をするのは簡単なことのはずなのに。
(とにかく、すぐに私と位置を代わって。お願い)
その要望に、私は強く手を握り返した。
ここで考え続けるのは危険だ。そう判断して、私はアマリリスと息を合わせて速やかに位置を代わった。サファイアはその動きを呼んだと見えて、すぐさま攻撃に転じたらしい。だが、それはアマリリスが上手く防いでくれた。
あとは私だ。相手が変わり、一瞬だけ気を取られたゲネシスに向かって、人狼として持って生まれた力の限り走り迫り、聖剣をぶつけようとした。もちろん、その攻撃は容易く防がれる。しかし、私の狙いは首を刎ねることではない。彼が不当に持っている聖獣の力を間近で感じようと鍔迫り合いへと持ち込んだ。
甲高い音が響き、聖剣同士がぶつかり合う。その中で、私はゲネシスと睨み合った。かつて同じように見つめ合ったことはある。あの頃と随分変わってしまった。ひょっとしたらあの頃に戻れるのではないかという夢を見なくなったわけではない。しかし、現実を知れば知るほど、絶望は深まってしまう。
私が掴みに来たのは終わりというものだ。
甘い夢をいまだに見せようとしてくるこの関係の全てを終わらせるために、私はここへ来た。
しかし、同時に私は自覚している。
ここに来て、まだ、私はこのゲネシスという人物への未練を残しているのだ。
アマリリスと共に歩むと決めたはずなのに。彼に対して持っていた親しみよりも、彼女に対して持っている愛の方がずっと上だと自信を持って言えるはずなのに、それなのに、私はここに来てまだ迷いがある。その迷いが剣に出て、さらには秘宝を秘めるこの心に出てしまっているのだろうか。
しかし、それではいけない。
それでは、私は全てを失ってしまう。
「カリス」
その時、ゲネシスが私の名を呼んだ。
「お前が人狼なんかじゃなかったら……」
直後、彼は力強く聖剣を払った。その反動で私の身体が弾き返されたその隙に、彼は稲光のように素早く迫ってきた。
斬られる。
そう思った瞬間、あらゆる光景が頭を過ぎった。
初めて出会った時、私は塵降る中で彼を食おうとした。食おうとして、抵抗されて、諦めた。あの日の事を少しだけ思い出し、惚けてしまった。
だが、その最中、私の耳に声は届いた。
「カリス!」
様子に気づいたアマリリスのその声が、私の心を引き戻した。ゲネシスの攻撃を避けて影道に逃げ込み、すぐに反対側から飛び出して反撃を加える。
ああ、そうだ。
迷っている場合などではない。二人で歩むと決めたのだ。未来を生きると。共に支え合うと決めた以上、今更過去に縛られるわけにはいかない。
確かにゲネシスの事は好きだった。しかしそれはもう過去の事。生きる世界が全く違ってしまった彼を、私と同じ未来を生きようとする多くの人々にとって不幸を呼ぶことになる彼を、これ以上、のさばらせるわけにはいかない。
──これ以上、彼を悪魔でいさせるわけにはいかない。
強い思いで心が震えたその時、剣を持つ手が一気に熱くなった。斬りつけようとしたその一撃を、ゲネシスはまたしても超人的な動作で防ごうとする。だが、剣と剣がぶつかったその瞬間、強い光が生まれた。風が生まれ、音が生まれる。段々と耳が慣れてくると、その音がかつて耳にした三聖獣たちの声であると気づいた。
──我ら、取り戻す、力を。
頭の中で単語が途切れ途切れに聞こえ、直後、ゲネシスの手ごたえが怪しくなった。
行ける。
勢い任せに私はそのまま切りつけようとした。だが、ゲネシスだって多くの敵と戦ってきた戦士だ。大技で隙が生まれたところを見逃さず、素早く剣を払った。直後、私の剣もまた彼の肩にぶつかった。
相打ちだ。
気づいた直後、激しい痛みが襲ってきて、堪らず私は無意識に影道へと逃れた。そのままサファイアと戦い続けていたアマリリスの影へと逃れると、すぐさま彼女の声が聞こえてきた。
(ありがとう、カリス)
サファイアの攻撃をかわし、虫の魔術でさらなる攻撃を防ぐと、続けて私に訊ねてきた。
(覚悟はいい? あなたにとっては辛い光景になるかもしれない)
──大丈夫だ。
痛みを堪えながら私はすぐさま答えた。
アマリリスが言わんとしていることを踏まえ、私はしっかりと答えた。
──すべて覚悟の上だ。
すると、アマリリスは少し安心したように言った。
(そう。じゃあ、行きましょうか)
そして、彼女はサファイアの攻撃から逃れると、そのままゲネシスの方へと身体を向けた。
私は影の中からそれを目撃した。
よそ見していたってよかった。見ないという選択もあった。しかし、私は目をそらさずに影の中から彼を見つめ続けた。
アマリリスの吐息を感じながら、共に数を数えながら、その魔術が発動するところを見届けた。
──鍬形虫の鋏の魔術……断罪。
大きな鋏が呼び出され、ゲネシスに襲い掛かる。
ああ、思えば何度も同じような光景を見た。嘆きと呪いで姿を変えてしまった聖獣たちの心を戻すために、その屍を一度眠らせるために、アマリリスはいつもこの魔術を使っていた。
断罪。リヴァイアサンのように、ベヒモスのように、そしてジズのように、鍬形虫の鋏はゲネシスの首を正確に捉えていた。
サファイアの悲鳴が聞こえてくる。怒声の入り混じるその声は、しかし、アマリリスの魔術を止める力なんてない。全てが終わる。一瞬にして、終わってしまう。その一瞬が、やけに長く感じた。だが、時は止まらない。どんなに惜しもうとも、時間は流れ続けるのだ。
──ゲネシス。
美しい人だった。
可哀想な人だった。
憎めない人だった。
しかし、全てがいま終わる。これがせめてもの救いになるのだと今はもう信じるしかない。これ以上の悪になる前に、これ以上の憎しみを集めてしまう前に、人としての最期を与えるしかないのだと。そう思い、罪を償った後の安らぎを祈るしかなかった。
覚悟せよ。時が来たのだ。
そして、今、断罪は行われる。




