5.女神だった者の最期
「少しだけ安心した」
ヴァシリーサは言った。
「最期にあなた達の実力を確かめられて良かった。まさかあんなソロルに負けるなんて思ったりはしなかったけれどね、それでも、あなた達がどれだけ強いのかは分からなかったもの。それなら、この先に進んでもきっと大丈夫」
「ヴァシリーサ……」
アマリリスがその名を呼ぶと、ヴァシリーサは再び少女の姿となった。
「最期に一つだけお願いしていい? わたしの姿を覚えていて。この先で、もしかしたら酷い屍を見るかもしれない。でも、あなた達にはわたしの本来の姿を覚えておいてほしいの。分かった?」
アマリリスと同時に頷くと、ヴァシリーサは嬉しそうに笑った。
「良かった。絶対だからね。──ああ……安心したら気が遠くなってきちゃった……最期に、わたしに残った力を、せめてあなた達に託せたら──」
言いかけたところで、ヴァシリーサの姿は水が弾けるように消えてしまった。
姿だけではない。
消えた。気配すらも。
それが何を意味しているのか、私もアマリリスも分かっていた。ヴァシリーサが先ほど示していたあの扉を見つめると、異様な緊張感が伝わってくる。
この先に、ヴァシリーサが見せたがらなかった光景が広がっている。
この先に、彼らはいる。
この先に、結末は待っている。
あらゆる覚悟を決めながら、私はアマリリスと共にその扉を開いた。
重みのある音が響き、部屋の景色が目に飛び込んでくる。どうやらそこもまたヴァシリーサの私室だったよう。ヴァシリーサが生前使っていただろうあらゆる家具が目に入る。しかし、最終的に目を奪われたのは、部屋の中央に佇む二人の人物と、その足元に出来た血だまりだった。
周辺では無数の塵が待っている。死霊たちの肉体が滅んだ時に発生する砂にも見えた。ひょっとすると、ここでもたくさんの死霊が潰されたのかもしれない。だが、潰しただろう人物は、もっとも潰したかっただろう二人に敵うことはなかった。敗北した彼女は、恐らく今、血だまりの中にいる。
──わたしの本来の姿を覚えておいてほしいの。
ついさっき言われた言葉を思い出し私は、その血だまりの中に倒れている亡骸を凝視するのをやめた。
代わりに睨むのは、佇んでいる人物のうちの一人だった。
「ゲネシス!」
その名を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返ってきた。
出会った時、彼はただの人間だった。愛した者達に先立たれ、ただ生きる希望もないままに、聖戦士を続けていた。それでも彼は彼なりに新しい幸せを見つけられたかもしれない。人狼を許すことは出来なかったとしても、私の好意に答えることは出来なかったとしても、それとは別の幸せが、彼にだってあったかもしれない。
けれど、その希望の光は消されてしまった。
隣にいる亡者によって。
振り返ったゲネシスは、ひと言も発しなかった。
特別な力もないただの人間だったはずなのに、その目の濁りと肉体に取り憑いた異質なオーラはひと目で分かった。それが、神獣たちの力を奪った為なのか、恨みを晴らした事によるものなのかは分からない。しかし、少なくともヴァシリーサの命を奪い、ソロルと絆を深めてしまった彼は、もはやただの人間ではなくなってしまった。
そんなニオイがした。
「さっそく来たわね」
ゲネシスの隣でサファイアは言った。青い目を妖しく光らせ、真っすぐ見つめる先は私ではなくアマリリスの方だった。
「自分のせいで死んでしまった義姉妹を再び殺した気分はいかが?」
その言葉にアマリリスがわずかに動揺する。初めからそれが狙いだったのだろうか。そうでなかったにせよ、アマリリスの動揺を彼女が見逃すはずもない。
怒りがこみ上げ、私はサファイアに吠えた。
「……初めからそのつもりだったのか」
しかし、サファイアは目を細めて静かに笑った。
「人聞きの悪い事を言わないで。あたしはただ機会を作っただけ。桃花の魂はもともと死霊の檻の中にいた。でもね、それだけじゃ勝手に使えないの。閉じ込められた魂が、再びこの大地に蘇りたいと願わない限り、ソロルにもフラーテルにもなれないの。お分かりかしら? 桃花は自らの意志でソロルになったのよ。再び生きて、大好きだった義姉妹と仲良く暮らしたいと純粋に願っていた。それをソロルが叶えようとしただけ。ああ、それなのに、その義姉妹に再び殺されてしまうなんて……なんて可哀想なのかしら」
淡々と呟くように言うサファイアの言葉を、アマリリスは静かに受け止めていた。
「聞くな」
私はアマリリスに囁いた。
「死霊の言葉になど耳を傾けるな」
すると、アマリリスは私を見つめ、やけに素直に頷いた。これもまた主従の魔術によるものだろう。主人となった重荷を感じつつ、サファイアとゲネシスの両方を睨みつけた。
聖剣を構えると、同じようにゲネシスもまた剣を向けて来る。何千年も生きた魔女の命を奪ったばかりのその剣を、迷うことなく私に向けていた。
かつてはそれがショックだった。
心が引き裂かれるほど辛く、苦しいことだった。
しかし、今はもうその苦痛も薄らいでいた。
それほどまでに、私たちは違う道を歩みすぎてしまっていた。今の私にはもうアマリリス以上に大切なものはないし、ゲネシスだって同じなのだろう。隣に立つサファイアとの未来しか頭にないのならば、私たちは共に歩むことなんて出来ないのだ。
そこに悲しみはもうない。
けれど、仄かな切なさだけは残っていた。
「ゲネシス」
サファイアが愛おしそうにその名を呼んだ。
「今のあなたなら、大丈夫。あなたなら勝てる。あたし達の絆の方が彼女らのものよりも上よ。そう強く信じなさい。信じる心。それがあなたの力となる」
サファイアの言葉を受けて、ゲネシスは前へと出た。
その表情、その動作は、まるで生気を感じない。かつて、親しく話した時に観たような生き生きとした表情の欠片もなかった。
心を失った機械のよう。生き物であることすら忘れるほどの冷たさを、ゲネシスからは感じられた。同時に、禍々しさもあった。無理矢理奪った聖獣たちの力のせいだろうか。同じく巫女の存在そのものを奪ったサファイアとはまた違い、心の読めない化け物のように感じられる。
しかし、それが今のゲネシスだ。
どんなに信じられずとも、彼自身が考え、選択した結果なのだ。
「ゲネシス」
名前を呼ぶと、その目がさらに淀んだ。
「人狼は、嫌いだ」
久しぶりに聞いたその声も、生気が感じられなかった。
だが、動きはどうだろう。先に動いたのはゲネシスの方だった。人間であることを忘れるような動きで迫ってきた。あの力でヴァシリーサはやられてしまったのだろうか。大勢の死霊たちも味方につけていただろうけれど、数なんて関係ない。たとえゲネシス一人であっても、ヴァシリーサはやられていたのかもしれない。
しかし、私だって力を手にした。その命運を一人の聖女に託すという代償に、手に入れたのはこの愛おしく憎い化け物退治のための力だ。ゲネシスに超人的な力を与えている聖獣たちの力は、私が口にした秘宝の力で無効化できるはず。言い伝えではそうだった。それが〈赤い花〉の聖女の助けとなり、罪人は断罪される。
だが、そんな事をサファイアが警戒していないはずもない。ゲネシスは私を殺す気でかかってきたが、サファイアの援護は私とゲネシスの直接勝負を妨害するものだった。
「ゲネシス。あなたはその魔女を」
サファイアは言った。
「〈赤い花〉をあたしにくれるって約束したでしょう?」
その言葉に、ゲネシスは反応する。どうやらアマリリスが私に逆らえないように、ゲネシスもサファイアには逆らえないらしい。
「待て、ゲネシス!」
離れようとする彼を追おうとしたが、サファイアに割り込まれて上手くいかなかった。
ならば諸共と聖剣で斬りつけるも、その身体には上手く剣が通らなかった。前もそうだった。彼女を傷つけるのは困難だ。しかし、そこにだって弱点はあるはずだ。元はただのソロルであるのだから。
我武者羅に剣を振るうと、サファイアはそれを冷静に避け続けた。避けられれば避けられるほど、焦りが芽生えてしまう。良くない傾向だと分かっていても、私はすぐに引き返すことが出来なかった。
離れた場所ではアマリリスとゲネシスが戦っている。あちらも苦戦しているようだ。アマリリスの命を奪おうとしているのだと思うと、気が立って仕方がなかった。
それがいけなかったのだろう。
幾度目かの空振りの果てに、私はとうとうサファイアに腕を掴まれてしまった。
一瞬、寒気が走った。死霊に捕まるということがどういうことなのか、忘れているわけではない。だが、呆気にとられてろくな抵抗も出来なかった。
──まずい!
焦った直後、鋭い痛みが走った。
掴まれた場所から魂が奪われそうになる。
しかし、痛みは一瞬で引いてしまった。
何が起こったのかと茫然となる目の前で、サファイアが小さな悲鳴をあげて手を離したのだ。私の腕を掴んでいた右手を抱え、苦しそうに悶えている。よくよく見れば、その右手の周囲に蝶々の幻影がまとわりついていた。
アマリリスの魔術だろうかと一瞬思いかけたが、直感で違うと分かった。ニオイが違う。私ははっとして、部屋の中央付近に転がっている躯を見た。血と悪臭にまみれたその亡骸をじろじろ見ることは約束に反するから躊躇われるが、そこにもまた蝶の幻影が集っているのが確認できて、直感は確信へと変わった。
──残った力を、あなた達に。
ヴァシリーサの言葉を思い出し、私はすぐに気持ちを切り替えた。
「覚悟!」
その剣は、サファイアの腕をわずかに切りつけた。




