4.永久の別れ
桃花。アマリリスの義姉妹であった彼女は、これまで何度も私たちの行く手を阻んできた。しかし、あと少しでその肉体を解放してやれるという時に、いつも逃げられてしまっていた。
恐らく彼女はアマリリスを苦しめるためだけに蘇らされたのだ。だから、サファイアたちの為にも簡単につぶされるわけにはいかなかったのだろう。
だが、この度の桃花の様子は少し違った。
仲間であった〈赤い花〉の死霊たちも全て枯らされ、新たな手駒はいないと見た。これから作る予定もあるかもしれないが、少なくとも今は、桃花は一人きりだ。たった一人で、私たちの行く手を阻もうとしていた。
塞ぐのは扉だった。そこは、ヴァシリーサが先ほど示した場所──今まさに、殺戮が行われているだろう部屋だった。
「アマリリス」
桃花はその名を呼んだ。とても悲しそうな声だった。
「とうとうここまで来ちゃったね。敵同士のままで。あたしはとても悲しい。どうして分かって貰えないのだろう。でも、いいの。ここであたしが勝てばいいのだもの。あたしが勝てば、また昔みたいに仲良くできるよね」
そう言って、桃花はさり気なく魔術を放った。
アマリリスが使うものと同じ魔術。その力はアマリリスにはそう簡単には通用しない。その魔術が真っ先に狙うのは私だった。
息をつく暇もなく、私は身を守るために剣を構えた。アマリリスも同時に動く。私を狙う魔術を弾きながら、あわよくばと桃花も狙う。しかし、桃花の魔術がそう簡単にアマリリスを傷つけられないのと同じように、アマリリスの魔術もまたそう簡単には桃花の身体を傷つけられなかった。
「無駄だよ」
その小さな身体をずたずたにしようとしたアマリリスの蜘蛛の糸が、桃花の蜘蛛の糸によって弾かれる。あまりにもあっさりと。
さほど魔女として成熟しないままソロルに食べられてしまった彼女だけれど、何故だろう、今まで感じてきたよりも魔力が増しているような気がした。
サファイアたちに同調しているせいなのだろうか。
「もうじきあの方々の絆が深まる。そうなれば、あたしたちの世界はいよいよ始まるの。そうなれば、どうなると思う? あたしたちを馬鹿にして、苦しめてきた連中への復讐が始まるのよ。力の弱い人間たちは並べて死霊の皮となり、魔族や魔物たちも従わない者は粛清される。サファイア様が望まれる者だけが、この大地で暮らすことが出来るの。だからね、アマリリス。今のうちに従った方がいいと思うの。ソロルになった時に、可愛がってもらうためにも」
話にあまり耳を傾けてはいけない。
不意打ちに魔術が飛んでくるからだけではなく、今の桃花の声には魔性があった。気を抜けば心を操られかねない音がする。
それはきっと気のせいではないだろう。
「ねえ、アマリリス。リリウムにどうして従うの? 従うことないじゃない。聖女たちの嘆きを見てきたでしょう? あんな奴らにどうして従うの?」
アマリリスもまたそれに気づくと、何かしら唱え、そして言い返した。
「私は別にリリウムに従っているわけじゃない」
その声にもまた魔性がある。桃花の声に引っ張られかけていた心が、アマリリスの声によって一気に引き戻された。これもまた、〈赤い花〉の得意とする虫の魔術の一種なのだろう。
アマリリスはじっと桃花を睨みつけ、唱えるように言った。
「私は私の意志でここまで来たの。あなた達の望む世界は、ルーナがかつて望んだ世界ではない。私とカリスがこれからも生き続けたい世界ではない。だから、あなた達と共には歩めない!」
その手の指輪が光る前に、私はアマリリスの動きを察知した。
直感がそのまま手足を動かし、私を行動させる。根拠を示せと言われれば困惑してしまうほど唐突に、私はアマリリスが蝶の幻影を放つと思ったのだ。そして、その通りのことが直後、起こった。アマリリスの呼び出した蝶たちは激流のように桃花を襲い、その視界を遮った。その不意を突く形で、私は聖剣を手に桃花に襲いかかったのだ。
渾身の一撃は、しかし、掠りもしなかった。
勿論、そう簡単に決着がつくとは思っていない。だが、それでもあっさりとかわされると動揺もしてしまう。アマリリスの〈赤い花〉の魔術は結局のところ、魔女としては成長途中のままであった桃花相手でも、真正面からでは些細な隙を生むことしか出来ないことがよく分かった。
それならば、やはり私の器量にかかっている。
私が、やるしかないのだ。
彼女が自らの手で決着をつけたいと願っていることは知っているけれど、恨まれたとしても勝負は決めなくてはいけない。
アマリリスもその覚悟は出来ているのだろうか。
桃花の命を狙う動きから、段々とその自由を制限する動きへと変わっていった。完全に捕まえられなくたっていい。大きな隙が出来れば十分だ。あとは、私の仕事だった。聖剣を手にし、秘宝を口にし、聖女と共に歩むと決めたこの私の仕事。
「カリス!」
アマリリスの声に背を押され、蝶の幻影の波に乗って私は桃花へと襲い掛かった。狼の姿だろうと、人の姿だろうと、今の私には容易く切り替えられる。そのどちらであってもリリウムが持たせてくれた特別な剣が味方となった。
だが、桃花は血相を変えて立ち向かってきた。
これまでならば逃げていただろう。しかし、今回ばかりは逃げられない事情があるらしい。サファイアの命令なのか、それに逆らえないのか。本当は逃げ出したいと思っているのではないだろうか。そう察するような戸惑いが、彼女の表情には含まれていた。
まるで無力な少女に襲い掛かっているかのよう。
かつては当然だと思っていたが、今の私には罪悪感すら覚えてしまう。
そんな心の痛みを感じながらも、私は桃花の身体を切りつけた。
桃花は悲鳴を上げ、その場でのた打ち回る。その様子からは、一切の抵抗を感じなかった。
最初の一撃が当たってしまえばこちらのもの。
こうなってしまえば無力だ。
あまりに無力に感じた。
サファイアはどうやら助けに来ないし、それ以上、歯向かう力もない。あれほど厄介に思えた相手だったのに、こうもあっさりと倒せるとなると、妙に後ろ髪を引かれる思いがこみ上げてきた。
「痛い……痛いよ」
泣きながら桃花は言った。救いを求める相手は、私や蝶の姿のヴァシリーサではなく、遠巻きに見つめているアマリリスだった。
「お願い……助けて……あたしを抱きしめて!」
魔術を使う素振りも見せないその姿からは、敵意すら感じない。私は剣を持ったまま、固まってしまった。このまま止めを刺すべきだと分かっているのに、剣を振るう勇気が奪われていく。
「お願い……アマリリス!」
名前を呼ばれて、アマリリスはこちらへ近寄ってきた。桃花の姿を見つめるその表情には、深い悲しみが浮かんでいる。どうするつもりだろう。戸惑う私には目もくれず、アマリリスは桃花の前まで来るとしゃがみ、その顔を覗き込んだ。
桃花は、攻撃してこなかった。
ただ求めるように手を伸ばすばかりだった。
「アマリリス」
その手を握り返し、アマリリスはそのまま自分の頬へとつけた。
「桃花」
優しい声でその名を呼んで、アマリリスは告げた。
「あなたの事は、忘れないわ……」
いかに同じ〈赤い花〉であろうと、抵抗する力や意志が残っていなければ一緒だ。桃花の命はそのまま速やかにアマリリスの魔術によって刈り取られてしまった。虫の魔術を使うまでもなかったらしく、単純な風の魔術で桃花の身体は切り裂かれてしまった。
桃花の方も、最期はろくに抵抗しなかった。アマリリスの腕の中で、ソロルに乗っ取られていたその身体が崩れていく。流れた涙もまた砂となって消えていく。何もかもが風に攫われ、消えていく。その顛末を、アマリリスは静かに見届けていた。
全てが終わると、アマリリスはその場に座り込んだ。
顔は真っ青だったが、涙すら流していない。消えていった先をしばし茫然と眺めていた。
これでもう、桃花に会えることもない。
ソロルとして蘇ることも二度とない。
「アマリリス」
近寄ってその肩に触れると、少しだけ彼女の目に生気が戻ってきた。だが、こちらを見上げ、彼女が何かを言おうとしたその時、傍でこの戦いを見守っていたヴァシリーサが口を開いた。
「お見事」
その声に視線を向けてみて、私は息を飲んだ。
ヴァシリーサの姿は、すでに消えかかっていた。




