1.七色の蝶に導かれ
立ち止まるヒステリアの背中から古城を眺めていると、物悲しい気持ちになってしまった。
長い間、魔女の力で隠され続けたあの場所は、多くの子供たちとその家族の悲しみを集めてきたはずの場所でもある。その嘆きのせいだろうか。
かつては人々の暮らしも支え、女神キュベレーとして讃えられたという魔女。ヴァシリーサという名前になった今は、その歴史も忘れて魔女の性を満たして生き続けるだけの存在になってしまったと言われている。途方もなく長い間、何を想いながら生きてきたのだろう。そして、今、何を想いながら過ごしているのだろう。
「あの場所が……」
アマリリスが呟いたその時、古城の方角からふらふらと何かが飛んできた。発光しているそれは、無害な魔獣や魔物の一種である小妖精のようにも見えた。だが、よくよく見つめていると、いかなる生き物とも違うものだと気づいた。
七色の蝶。
あれは生き物ではない。
魔術だ。
恐らくアマリリスが使う蝶の魔法と同じようなもの。その予想通り、蝶は私たちのすぐ目の前に到達すると、その形を歪めて人の姿となった。代わりに現れたのは年端も行かぬ少女のように見えた。だが、彼女の雰囲気ですぐに分かった。魔女だ。恐らく、この人物がヴァシリーサだ。
姿は見えるがニオイはしない。これは幻影だ。本当はここにはいないのだろう。
「その通り、ヴァシリーサと呼ばれるのはこのわたし」
少女のままの声で、彼女はそう言った。
私の……或いは私たちの心を読んだのだろう。
「心を読むなんてわたしには簡単なこと。そのお馬さんの心だって読める。お前たちはリリウムの使いなのね。我が城にまんまと侵入し、わたしを殺そうと突き進む哀れな男の命を取りに来たと」
「あいつは……中にいるのね?」
アマリリスが声をかけると、ヴァシリーサは軽く笑った。
「ええ、その通り。わたしの魔術を全て破って城の中へと踏み込んできた。今はわたしの本当の居場所を探して彷徨っているようね。奥までたどり着くまでには時間がかかるでしょう。でも、いつまで持つか分からない。死霊どもも彼に味方しているみたいだし。あれを止められるのがお前たちだと言うのなら、追いつけるようにわたしがサポートしてあげましょう。間に合わないかもしれないけれど、その時はせいぜいわたしの骨を拾ってちょうだい」
諦めたように笑うと、ヴァシリーサは再び蝶の姿となった。
聞きたいことはたくさんあったが、彼女の言う通り時間がない。古城に向かって飛んでいく。その不思議な色の蝶を前に、私が指示を送る前にヒステリアは走り出した。
急いで手綱を握り締め、アマリリスを支えると、段々と周囲の霧が濃くなってきた。
きっと本来ならばこの霧に阻まれて、古城にたどり着くことは出来ないのだろう。けれど、ヴァシリーサの魔法の蝶は、私たちを正しい道へと誘った。ヒステリアも恐れずに走り続け、その距離は確かに縮まっていく。
やがて霧がうんと濃くなって、視界が完全に白くなってしまった。だが、再び晴れてみればそこはもう古城の入り口だった。
「ここがわたしのお城。チューチェロとフリューゲルがまとめてククーシュカって名前だった時にこの辺りを治めていた領主が暮らしていたの。今はもう、大昔の話よ。さあ、中へお入り」
蝶の姿のヴァシリーサがそう言うと、古城の扉が勝手に開いた。
ヒステリアが睨みながら建物の中へと進もうとして、ヴァシリーサがそれを止めた。
「お前はここまでよ、お馬さん」
不快感を表すように鼻息を漏らすヒステリアに、ヴァシリーサは語り掛けた。
「そう、ヒステリアね。覚えておくわ。お前の言い分もちゃんと伝えてあげるから安心なさい。だから今は、背中のお荷物たちを信じてあげて。ね?」
ヴァシリーサの優しい語りかけに、ヒステリアは少し落ち着いたのか大人しくなった。
その背中から地上に降り立つと、空気が少し変わったような気がした。降りようとするアマリリスの手を取り支えると、蝶の姿のヴァシリーサはふわりと彼女の鼻先まで迫った。
「〈赤い花〉に地位を追われ、その存在を心底憎んだわたしが、まさか〈赤い花〉に頼ることになるなんて思いもしなかった。それにお前、ニューラの育てていた花ね。まだ幼かったお前を狙ったことがある。女になってしまう前に、可愛いお人形にしてやるつもりだったの。何度もニューラに阻まれて、悔しい思いをしたけれど、まさかそれがわたしの一縷の望みになるなんて」
そう言って蝶はふわりと飛んで古城の中へと私たちを誘った。
「想定外と言えば、この状況も同じ」
ヴァシリーサは言った。
「人間の血を引く子を攫って人形にすることは、わたしにとってパンを食べる事と同じ。人間たちが子鹿を仕留めて食べるのと同じ事。けれど、それが悲しみと憎しみを生み、恨みを買って今に至る。自業自得と人は言うのでしょうね。でも、それならわたしはどうすればよかったの? ねえ、聖女様。お前はどう思う? 指輪のお陰で獲物だったはずの人と愛し合うことさえ出来るお前は、どうすればよかったって思う?」
アマリリスは答えなかった。
ただじっとヴァシリーサの住まいを見渡し、何かを探ろうとしている。
そして天井を見上げると、静かに目を細めた。
「登っている」
誰が、なんて聞くまでもない。
アマリリスの言葉に蝶の姿のヴァシリーサはそっと囁いた。
「ええ、そうよ。わたしの居場所を探して、次々に仕掛けを解除していっているの。見つかったらもう、サポートは出来なくなる。だから、急いで」
そう言って、ヴァシリーサが飛んでいった先は、一見すればただの壁に見えた。その壁に吸い込まれるように蝶は消えてしまった。アマリリスは狼狽えずに歩みだす。背後ではヒステリアが寂しがるように鼻息を漏らしたが、振り返ることもなかった。私もまた彼女に続き、慎重に歩みを進めた。
登っている、とアマリリスは言ったが、私の狼の耳にはその物音が一切聞こえない。物音などではない何かをアマリリスの感性は捉えたのかもしれない。その特有の緊張感は、聖剣を背負う私にも十二分に伝わってきた。
だが、尾を腹に巻き付けている暇はない。
行かなければ。
アマリリスが壁に手を突くと、想像していた通り、壁は消えてしまった。今更、魔女の魔法に驚くつもりはなかったのだが、道が現れた瞬間、私は身震いしてしまった。
この先で、全てが終わる。
私たちの終わりか、彼らの終わりか。
神々にもたらされるのは、そのどちらなのだろう。




