5.火あぶりになった魔女
「出来るならば、そっとしておいてあげたかった。それは本当よ」
淡々とマリナはそう言った。
林の中からニューラの家を見つめ、寂しそうに微笑んでいる。
その姿は美しいままで、死後に曝しただろう惨たらしい姿ではない。
彼女の性は何だっただろう。
伝承では確か、到底許せぬ罪を犯したと言われていた。稀代の殺人鬼となってしまったとも。しかし、伝承だけではその実態など分からない。
ただ言えることは、このマリナという元聖女の力は、絶対に甘く見てはならないということだった。
「でもね、わたしたちの女王様が仰ったの。見つけた〈赤い花〉は全て摘み取りなさいって。アマリリスだけじゃない。その中に閉じ込められているもう一人も迎えに来たわ。だから、そこを退いてくれる?」
さり気なくマリナは片手をあげた。
同時に、私の身体を蜂の針が狙ってきた。
避けられたのは奇跡に近い。考えている暇などなかった。直感に頼るしかない。
一対一、されど一対一だ。敵は一人だが、私も一人。条件が同じであると、もしかしたら不利なのは私の方かも知れない。
「外しちゃった」
マリナは意外そうにそう言った。
「少し鈍ってしまったのかしら。昔なら、人狼の敵なんて一発だったのに」
「……マリナ」
少し距離を取り、私は彼女に声をかけた。
「いや、ソロルよ。それほどの力があっても、お前は死霊の女王にひれ伏すのか」
すると、マリナはにこりと笑った。
「マリナって呼んで。あなたが信じられないのだとしても、今のわたしはマリナなの。この身体に宿るのは、マリナの魂に違いない。蘇ったこの身体もマリナの記憶の通りに出来ているのよ」
「いいや、マリナじゃない」
私は言った。
「本物のマリナは死んでしまったんだ。お前は確かにその一部なのかもしれないが、そうだとしてもいま生きている者たちを害することは許されない」
「誰が許さないの? わたしを火あぶりにした神様?」
「リリウムの神だろうと、私たちを見守る精霊たちだろうと関係ない。ここは生きている者たちの世だ。その生きている者たちが許さないんだ」
「そう。それじゃあ、皆、死んでしまえばいい。一度死んで、蘇ればいいの。そうすれば平等でしょう。ねえ、カリスだったわね。今ならあなたも蘇る事が出来る。奇跡を起こせるわたし達の女王様が叶えてくださるのよ」
来る。
またしても直感が私の味方をしてくれた。
「ソロル」
話し合いなど無駄だ。
そんな事は分かっている。けれど、私は再びマリナに話しかけた。話しかけずにはいられなかったのだ。
「マリナと呼んで」
そう言って、マリナは蝗の大群を私に向けた。食い殺される前に影道へと逃れて避けてから、私は再び顔を出し、返事をした。
「分かった。ではマリナ」
「なに、カリス」
目を細めて私の名を呼ぶ彼女は、少しだけアマリリスにも似ている。
よもや先祖などではないだろう。しかし、同じ心臓を持つ故人だ。遠い親戚であるのは確かかもしれない。
「無駄なのは分かっているとも。だが、帰ってくれないか。でないと、私はお前もまた潰さねばならない」
マリナが不幸になったのは、指輪を返したせいだという。
それまではアマリリスのように讃えられていた彼女が火あぶりになる。その光景はどれほど恐ろしいものだっただろう。
遥か昔の事とはいえ、やはり身震いしてしまう。
「おかしなことを言うのね」
マリナは笑った。
「まるで、わたし達を気遣っているみたい。いいえ、でも、それはただの偽善。あなたはわたしを救えないし、わたしもあなたを救う気はない。救うとすれば、あなたには一度死んでもらってソロルになって貰わないと」
にこりと笑い、マリナは言った。
「できる?」
私は静かに首を振った。
出来るわけがない。
分かり切っていたことだ。ソロルに説得なんて通じないことは。
躊躇っている場合ではない。一人であっても戦わないと。全力で立ち向かって、中にいるアマリリスとルサルカを守らないと。
影道に再び潜ると、マリナは目を細めた。
「そう、それでいいの。さあ、かかってらっしゃい。今度こそ一発で仕留めてあげる」
落ち着かないと。
相手の挑発に乗らずに、うまく不意打ちを決めるしかない。
落ち着けば大丈夫だ。魔女を襲った経験は何度もある。魔法さえ躱してしまえば相手は人間の女と変わらない。力ではこちらが圧倒的に有利であることは、戦い慣れしているアマリリスと比べても明白だ。落ち着けば、大丈夫なはずだ。
それでも、緊張が私の身体の重石となっていた。
思えば長い事、狩りをしていない。
かつては生きるために人間を騙し、時には力ずくで攫って我が物にしてきた。今思い出せばおぞましい怪物だったが、あの日々の狩りの記憶が戦いの役に立っているのも確かだった。しかし、私は首輪を嵌めた。美味しい肉を貰う代わりに狩りを辞めてしまった。そのことは間違っていないと信じている。けれど、狩りを辞めてからどれだけ経っただろう。一対一の戦いは、これほどまでに恐ろしいものだっただろうか。
あらゆる思考が交差する中、私はいよいよマリナを襲った。一瞬の隙が見えた気がして、影の中から高速で迫り、まずはその足を狙ったのだ。
だが、マリナは手強かった。傷一つ付けられることなく、魔術によって躱されてしまったのだ。それは、虫の魔術のようだが、アマリリスが使ったところをあまり見たことがないものだった。飛蝗のように高く跳躍したかと思えば、すぐに私のいる場所を見定め、彼女は次の魔術を放つ。
その魔術が目に見えた瞬間、私は凍り付いてしまった。
蜘蛛の、糸だ。
囚われればそれが最期。
ルーカスの、エリーゼの命を奪ったあの糸が、私の目の前まで迫ってきていた。
──不味い。
逃れる機会を完全に失ってしまった。
だが、蜘蛛の姿をした死神は私のもとに訪れなかった。投網のように放たれたその魔術が、私の身体を引き裂く前に打ち消されてしまったのだ。
何が起こったのか理解するのに時間を要した。だが、直後、風向きが変わり、私は誰が何をしたのかを同時に理解した。
突如入ってきた乱入者を、マリナはすでに見つめていた。
その微笑みには敵意だけでなく、好意も含まれている。その眼差しにじっとしていられなくて、私はすぐさま乱入者──アマリリスのもとへと駆け寄った。
アマリリスは指輪の嵌る手をマリナに向け続けていた。
「それ以上、近づかないで」
マリナとは違い、アマリリスは敵意のみを示す。
そして、吠えるように言った。
「桃花は何処にいるの。あなたと一緒に来たはずよ」
その名前に、私は戸惑った。
桃花。確かに、彼女がいてもおかしくはない。だが、気配もニオイも分からない。私の傍にはマリナしかないように見える。だが、アマリリスは確証を持っていた。人狼の鼻が嗅ぎ取れない領域を、彼女は嗅ぎ取ったのかもしれない。
その証拠に、マリナは図星を突かれたように苦笑した。
「ああ、それでこそ聖女。やっぱりあなたは、わたしの仲間になるべき人だわ。ねえ、アマリリス。桃花に会いたいの? それなら、リリウムのために戦う事なんて辞めたらどうなの。リリウムはあなたの味方かしら。ねえ、アマリリス、あなたの考えを教えてちょうだい。せっかく世界を救ったのに、あっさりとわたしを火あぶりにした奴らが言うことは、本当に正しいことなの?」
そう言って、マリナは近づこうとする。
だが、アマリリスは魔術を放った。
蜂の魔術だろう。毒針が飛び、マリナを牽制する。足が止まるとアマリリスは彼女を睨みつけ、そして言った。
「あなたと話し合うつもりはない。だって、あなたはマリナじゃないもの」
「酷いわ。わたしはマリナなのに」
顔をしかめてマリナは言った。
「いいえ、そもそもわたしが本物かどうかなんてどうだっていい。リリウムがマリナを殺した。その事実は覆せないもの」
アマリリスは再び魔術を放った。
あらゆる虫たちがマリナを襲おうとする。だが、彼女だって忘れてはいないだろう。牽制は無意味なのだ。〈赤い花〉に対して虫の魔術は相性が悪い。もっと違う魔術でなければ、マリナを捉えることなど不可能だろう。
つまり、どういうことか。
私が動かねばならない。アマリリスの魔術を味方につけて、引き継いだ聖剣を叩き付けなければならないのだ。
「カリス……行ける?」
小声で訊ねられ、私は静かに返事をした。
「任せておけ。君は魔術で道を作って欲しい」
「分かった。やってみる」
彼女が頷くと同時に、私は走り出した。マリナとて黙ってやられるつもりはないだろう。私とアマリリス、出来れば二人とも葬り去りたいはずだ。
ありとあらゆる虫たちが、私の歩みを止めようと襲い掛かってくる。蝗が、蜂が、蝶が、そして蜘蛛が。しかし、それらの魔術を打ち消すのがアマリリスの呼び出す虫たちだった。
蝶の大群の波に乗って、私は狼の足でマリナに接近した。ヒステリアの襲歩に負けない気持ちで駆け抜けていき、全身全霊でマリナに迫っていった。そして飛び掛かると同時に人の姿へと変わり、聖剣を抜いた。
聖女であったマリナは、聖剣を前に微笑みを浮かべた。
「そう」
呟くその声がやけにゆっくりと聞こえた気がした。
「神様なんていないのね」
直後、確かな手ごたえが剣を通して伝わってきた。




