4.我が家での暮らし
気怠さの中で、私は静かに〈赤い花〉の香りと温もりを堪能していた。腕の中ではアマリリスが小さな吐息を漏らしている。その微かな動きがたまらなく愛おしい。
ルサルカとの会話で気持ちが吹っ切れたせいだろうか。アマリリスに対して抱く感情は再び変化していて、幼い妹や娘を守るような気持ちではなく、元のような感情に戻っていた。お陰でこうして再び抱きしめることが出来た。その挙動の一つ一つが従者となったからではないかと疑わないわけではないが、ともかく元の関係には戻れた。
思えば、主従となったことを抜きにしても、こうして思う存分抱き合えたのも久しぶりだった。二人きりでの旅ではあったが、野宿も多く、常に翅人たちに見張られている感覚はあったし、ニューラと合流してからは尚更そんなことなど出来なかった。
もしかしたら今のこの瞬間も、誰かに見られていたかもしれない。けれど、たとえそうであっても壁に囲まれ、二人きりになれることは貴重だった。
今頃、ニューラも同じような事をしているのだろうか。そんな事がふと頭を過ぎった丁度その時、アマリリスが私の胸に耳を当てながら囁いてきた。
「心臓の音が聞こえる」
その言葉に黙って耳を傾けると、アマリリスは小さく笑った。
「かつて、あなたの命を手に入れて、この心臓に直接触れることを夢見ていた。今はもうその時の感覚が分からないの。生きているあなたの鼓動に安心する」
私はアマリリスの後頭部を撫でて、彼女に囁いた。
「私ももう思い出せない。かつて君を憎んだ事があったはずだ。でも今は、その憎しみの欠片すら残っていない」
「主従の魔術のせいかしら」
不安そうに呟くアマリリスに、私は言った。
「そうだとしても、もはやどうだっていいさ。互いに縛られ取り消せないのなら、それはもはや幻想なんかではないはずだよ」
だから、と、私はアマリリスの両頬に手を添え、目を合わせた。
「もっと教えてくれないか。ここでの暮らしのこと。私に話していない君の話を」
「それは命令?」
アマリリスに問いかけられ、私はため息を吐いた。
互いに探り合うように見つめあった末に、私は頷いた。
「命令ってことにしておこうか」
すると、アマリリスは神妙な顔で頷いて、あっさりと語りだした。
母の死と狂気に満ちた競り市。
それらの恐怖を乗り越えた先で、まだ魔女として成長途中であったアマリリスを待ち受けていたのは、遊び相手に最適な同世代の少女であった桃花と、喧騒からほど遠い長閑な森林に囲まれた、この家だった。
母親と共に逃げ隠れする日々を送っていたアマリリスにとって、この家は本当に居心地が良かったのだという。敵に怯える心配もいらず、母親を失った傷も新しい姉妹と養母によって少しずつ癒えていく。
金で買われて一年ほどは、ささやかながら幸せに過ごしていたそうだ。
そんな日々がいつまでも続けばよかった。しかし、そうはいかなかった。アマリリスは両親譲りの魔女の心臓を持ち、その性の目覚めがやって来たためだ。
ニューラもアマリリス本人も願っていた。
どうかその魔女の性が平和的なものでありますようにと。
しかし、神々はアマリリスに試練を与えた。
その性がはっきりとしたのは、近くの森でアマリリスを攫おうとした人狼男の盗賊を返り討ちにした時だったらしい。
「時々、疑問に思うことがある」
アマリリスは言った。
「もしも、母が私に魔法をかけていなかったら……カリス、あなたのことを忘れていなかったら、その時の私の性はどうなっていたのかしらって」
私は黙って耳を傾けていた。
アマリリスがどのように嘆こうと、彼女の性は変わらない。人狼の命が彼女に宿る〈赤い花〉の栄養であり、その死によって花は枯れることなく咲き続ける。ニューラはアマリリスの性の暴力性に嘆いたが、すぐに気持ちを切り替えて強い魔女になれるよう指導を始めた。アマリリスが多彩な魔術を身につけたのは全てニューラのお陰で、その事が後に彼女の逃亡を手伝う事となった。
逃げ出したのは何故か。
それは、ニューラが自分たちを養っている理由を知ってしまったからだという。
魔女の性が先に目覚めた桃花は、時折、ニューラと寝台を共にするようになったという。それが何故なのか、当初アマリリスは知らなかった。
ニューラが男を招くことも度々あったが、それは単に彼女の恋人なのだと思っていたらしい。しかし、違った。ニューラが招いていたのは、自分たちのように生まれた純血の〈赤い花〉たちの父親になるかもしれない男。金のために身売りをし、自ら不幸の連鎖を生み出している者たちだったのだ。
ニューラは母親ではない。
飽く迄も欲望を満たすためだけに自分たちを養っている。
その事実は、本当の母を失って以来、ニューラに無償の愛を求めてしまっていた成長途中のアマリリスにとって、とても辛い事だった。
同時に、反抗心も芽生えたという。
繊細な時期だったからだろう。自我の芽生えは支配を拒んだ。ニューラに手を出されてしまう前に、彼女は自由を求めて行動に移すことにしたのだ。仕返しのようなものだった。そのために血を吸う性に悩む桃花を自分の血の虜にして、共に逃げてしまったのだ。
だが、それは永続的な家出だっただろうか。
確かに二人は外の世界に憧れた。
自由を制限するニューラの目の届かない場所で、もっと自由に世界を見て観たかった。
それでもきっと、満足したら、二人一緒にニューラの家へと帰っていったかもしれない。何故なら、下心があったにせよ、ニューラの家は二人にとって間違いなく故郷となっていたからだ。
「けれど、私は桃花を死なせてしまった」
アマリリスは小声で言った。
「死霊の恐ろしさだって教わっていたはずなのに、何も分かっていなかった。気づいた時には、もう手遅れだった。私だけ助かった。助かってしまった。そうなると、怖くて帰ることなんて出来なくなってしまったの」
そして、アマリリスは放浪した。
欲望のままに人狼の命を貪り、後ろ向きの思いのままに世界を彷徨った。
コックローチはきっと頃合いを見計らって彼女を攫うつもりだったのだろう。ニューラは見ていたのだろうか。ひょっとしたら、迎えに来ていたのはニューラか、彼女の息のかかった誰かだったのかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
神の導きか、大地の導きか、アマリリスはルーカスを殺し、私と出会った。そう、私との出会いこそが、彼女をリリウムに縛り付けるきっかけとなったのだ。
「これが全てよ」
アマリリスは話し終えると、そのまま私に寄りかかってきた。
「満足した?」
「ああ」
すると、アマリリスは少しだけ微笑んで、小さな声で言った。
「よかった。あなたが満足すると、私もホッとするみたい。自分で決めたことだけど、私、あれからずっと不安なの。あなたがいなくなってしまったら、私はもう生きていられない。あなたに見放されたら、私の心は今度こそ死んでしまうわ」
「いなくなったりしない。見放すなんてこともあり得ないよ」
その頬を撫でると、アマリリスは悲しそうな顔をした。
「今になって、思い知ったの。ルーナはこんな気持ちでずっと過ごしていたのかしらって。自分で決めたことなのに、不安から逃げたくなる。だから、ルーナはじっとしていられなかったのかしら。あの子も、こんな風に不安を感じていたのかしらって」
それはもう誰にも分からないことだ。
私は彼女を慰めながら、遠ざかりつつあるルーナの記憶を手繰り寄せた。
だが、感傷に浸ろうとしたその時、私の鼻が望んでいない気配を嗅ぎ取った。良くないそのニオイはアマリリスにも届いたのだろう。彼女もまた私の腕の中で息を飲んだ。私はすぐさま彼女から離れ、肩を抱いたまま言い聞かせた。
「様子を見てくる」
「待って──」
「無茶はしないよ。だが、君はここに居てくれ」
そして、すぐさま狼の姿となって影の中へと飛び込んだ。アマリリスが私の名を呼んでいる。後ろ髪引かれる思いではあったが、止まるわけにはいかなかった。とにかく気配のあった場所へ。ニューラの家の周辺に、間違いなくいるはずだ。
壁をすり抜け外に出るとすぐに、私はその気配の主を見つけた。
やはり良くない者がそこにいた。
こちらを見つめている人影はたった一人。けれど、一人であろうと甘く見てはならない人物に違いない。
聖女のための礼服がそれを物語っている。桃花ではない。だが、その名は覚えている。
マリナ。
かつて聖女として人々を救い、その後は火刑に処された〈赤い花〉の姿。
肖像画や彫刻で目にしたことのあるその人物が、そこにいた。




