3.幽閉された花
ニューラとの会話を辞めた後も、私は眠る事が出来なかった。
充満した薬草の匂いのせいか、死霊たちへの不安のせいか。理由はどうあれ、私はニューラの家をうろつき続けた。
影に潜み、あらゆる壁と壁をすり抜けて、きっと見られたくないであろう部屋をあちこち見回り、私と同じく異教徒らしさに満ち溢れた空気を嗅ぎながら、先へ先へと進んでいく。
そうして最後にたどり着いたのが、厳重に守られた一室だった。
その部屋の周囲には魔術が施されている。しかし、私は拒まれていないらしい。恐らく、ニューラの想定していない相手を通さない魔術なのだろう。
中には人の気配がある。
誰かなんて分かり切っていた。
この家に来てからずっと感じていた花の香りだ。
さっそく私は部屋へと忍び込んだ。悪事を働こうというわけではない。ただの好奇心だ。少し顔を見て、すぐにアマリリスの元へ帰ってしまおうと思っていたのだ。ところが、部屋に忍び込んだ途端、中にいた彼女はすぐに顔をあげ、私の居る場所を的確に見抜き、じっと見つめてきた。
その容姿に私は息を飲んだ。誰がどう見ても美しいと分かる綺麗な女だ。しかし、同時に危険な香りがする。見つめられているだけで、心が乱されそうだ。もしも私が男だったら、理性を食い荒らされていたかもしれない。
「誰……?」
彼女は呟いた。ローザ語のように聞こえた。ともかく、言葉は通じそうだと分かり、私は素直に姿を現した。
すると、彼女は驚きもせずに目を細めた。
「狼……じゃあ、あなたがニューラの言っていたお客さんね」
私は静かに頷き、そして彼女に問いかけた。
「ニューラが必死に隠している花は君だね」
ローザ語を思い出しながら問いかける。どうやらちゃんと伝わったらしく、彼女は微笑んで頷いた。
肩にかかっていた赤毛が揺れ、滑り落ちる。その姿は人妖と呼ぶに相応しい。服もまともに着ていないせいか、見ているこちらがそわそわしてしまった。
「リリウムの関係者なのよね。あたしみたいな〈赤い花〉を欲しがっている」
「確かに欲しがっているらしい。だが、私は関係者であってもリリウム教徒ではない。君の居場所を教えたりはしないから安心してほしい」
「……そう。それなら良かった」
彼女はそう言ってため息を吐いた。
少しも良いと思っていないように見えたのは気のせいだろうか。
「ねえ」
考え込もうとした時、彼女が問いかけてきた。
色気を含む笑みを浮かべ、ベッドの上でうつ伏せになった。
露わになった背中が、柔らかくて美味しそうだと感じてしまい、さらに息を飲んだ。〈赤い花〉は癖になる珍味だという話を思い出し、必死に振り払った。
忘れかけていたはずの人肉の味を思い出しそうになる。この花は、やはり危険なのかもしれない。
「名前教えてよ。あたしの名前はルサルカ」
声をかけられて、私は一旦息を吐いてから答えた。
「カリスだ」
そしてすぐにその場に伏せた。狼の姿のままでルサルカを見上げていると、彼女は翡翠のようなその目をしばし私に向けると、退屈そうに頬杖をついた。
「ねえ、変身はしないの? 変身してよ。人間の姿を見たい」
「命じられたらしたくなくなるんだ」
「そう、残念。人狼なんて滅多に見られないのに」
「気が向いたら見せてやる。……それより、ルサルカ。君はずっとここにいるのか? ここに閉じ込められて、辛くはないか?」
「辛い……って言ったら出してくれるの?」
問い返され、私は口籠ってしまった。
愚問であることは認めざるを得ない。
そんな私の反応を面白がるようにルサルカは笑い、ようやく答えてくれた。
「外の空気を吸いたい時もあるよ。でも、ここにいるだけでニューラが守ってくれる。それに、あたしの魔女の性はね、ベッドの上に横たわれば解決する。ニューラに身を預ければ、食うには困らないのさ。いつかはニューラの決めた人の子を産まなきゃいけないらしいけど、でもいいの。外はもっと冷たくて、残酷な世界だったから」
「ニューラに捕まる前はどこにいたんだ?」
「全部忘れちゃった。ニューラが言うにはね、あまりに酷くて辛い記憶だったから消してほしいってあたしがお願いしたんだって。でも、それすらはっきりと思い出せない。思い出せるのは、酷い世界だったってことだけなの」
「そうか……聞いて悪かった」
静かにそう言って、私は床に顎を付けた。
敵意のない事を示すのは、このルサルカという女の中に異様な魔力を感じるせいだろうか。香りはアマリリスの持つ〈赤い花〉の香りと変わらないが、ひょっとするとこの女が得意とする魔術は、アマリリスの得意とする虫の魔術だけではないのかも知れない。
黙っていると、今度はルサルカが話しかけてきた。
「ねえ、そっちの話もしてよ。一緒にここに来た〈赤い花〉の事も聞かせて。何となく分かるんだ。あなたの花なんでしょう?」
「アマリリスのことか。人に語れるほど知っているわけじゃないよ」
「そうなんだ。でも、あたしにはお見通しだよ。あんた達も、あたしとニューラみたいな関係なんでしょう」
「魔女の性ってわけじゃないけれどね」
「ならもっと濃厚だ。そうでしょう? あたしらとは違って、利害だけで結ばれているわけじゃないんだからさ」
ルサルカに言われ、私は再び黙ってしまった。
そして、言い訳でもするように彼女に言い返した。
「そういうわけじゃないさ。主従の魔術だ。私は彼女に囚われてしまった。主人としてね」
「へえ、従者ではなく主人としてねぇ」
そう言ってルサルカは揶揄うように微笑むと、裸のまま猫のように伸びをした。
「そりゃますます面白い関係だね」
確かに、そうかもしれない。
今はもうその感覚がほぼ思い出せないが、主従の魔術で縛られるよりずっと前から、アマリリスの事が愛おしかったのは事実のはずだ。
けれど、だからこそ混乱する。
この気持ちは魔術によるものなのか、自然のものなのか。
「ルサルカ。教えて欲しい」
「何をだい?」
「君はニューラを愛しているか。それとも、憎んでいるか」
すると、ルサルカは愛らしい声で笑い、そして答えてくれた。
「分かった、答えてあげましょう。始めはどちらでもなかった。無感情だったよ。忘れたいと願うほど汚らしかったらしい地獄から救い出してもらえたことには感謝したけれどね、それが善意ではなく魔女の性によるものだと知ってからは感謝も消えた。でもね、嫌でもなかった。利害の一致はそれだけ都合が良くてね。抱かれるのは嫌じゃないの」
「じゃあ、今も何も感じないのか?」
すると、ルサルカは目を細めた。
「今は愛しているし、憎んでもいるよ」
そして、彼女は面白がるように笑った。
「気持ちの正体なんて探らなくたっていい。健全か不健全かなんて判別なんてしなくたっていい。あたしはニューラが必要だし、ニューラもあたしが必要だ。彼女に抱かれていると幸せな気持ちになるし、長く彼女の顔を見ないと不安にもなる。それは本当のことだ。間違いかどうかなんてどうでもいいじゃないか。あたしはニューラを愛している」
「でも、憎んでもいる?」
「ああ、その通り。あの女はあたしを食べ物としか見ていない。大切には思っていても、それは自分が飢えないためだ。自分が飢えないために、あたしの自由を制限し、食べたいと願った時に食べる癖に、あたしからの要望には応えてくれない。あたしはあの女を喜ばせようとする時だってあるのにさ。だから憎い」
「そうか……」
しかし、その憎ささえ、愛していることの裏返しだ。利害の一致で始まったとはいえ、ルサルカはきっと本当にニューラを気に入っているのだろう。
気持ちの正体なんて探らなくていい。
ルサルカのその言葉が胸に留まり、灯り始める。
私は少しすっきりした気持ちになり、立ち上がった。
「そろそろ戻るよ。話してくれて感謝する」
「待ちなよ」
と、ルサルカに呼び止められ、私は振り返った。
「どうせ去るならさ、その前にあんたの人間姿を見せてよ」
話してくれた礼くらいにはなるだろうか。
そう思い、私は言われるままに目の前で変身してみせた。
すると、ルサルカの表情はより一層妖艶なものとなっていった。
「思ったより綺麗に化けられるんだね。ねえ、立ち去る前にさ、一回だけでいいから抱きしめてくんない? 抱きしめるだけでいいからさ」
そう言ってルサルカはさり気なく魔術を繰り出した。
アマリリスも得意とする蝶の魔術だ。幻影の蝶たちが私の帰り道を隠そうとし、ついでにルサルカの元に近寄るように促してくる。
だが、私は息を飲み、すぐに狼の姿に戻った。
「悪いけれど、私の花は嫉妬深くてね。機嫌を損ねたくないからやめておくよ」
「ふうん、そう」
つまらなさそうにルサルカはそう言うと、蝶の魔術をあっさりと消してしまった。
「じゃあ、さっさとお行きよ。ニューラに叱られる前にさ」
彼女の言葉で、私はようやくその気配に気づいた。
こっちに近づいてくる。ニューラで間違いなさそうだ。慌てて私は影の中に潜み、壁をすり抜けて廊下へと逃れた。やはり、ニューラは近くにいた。気づかれる前にアマリリスの元へと逃げてしまおうとしたのだが、遅かったようだ。
「待ちな、狼」
呼び止められ、私は大人しく足を止めた。
影を抜け出して顔だけを出すと、ニューラの見下すような目とまともに視線がぶつかってしまった。
「その好奇心で身を滅ぼさないよう気を付けるんだよ。まあ、あの花の誘惑から逃れられたことは褒めてやってもいいけれどね」
黙っていると、ニューラはため息交じりに手を振った。
「もういいよ。行きな。あの子が寂しがっている」
その言葉に私は頷いて、そのまま走り去った。
花の香りを頼りに壁をすり抜け、そのまま部屋へと忍び込むと、アマリリスは起きていたようで、すぐに声をかけてきた。
「何処に行っていたの?」
淡々としたその声に、私は息を切らしつつも答えた。
「眠れなかったから、散策していたんだ」
「そう。それだけ?」
冷たい声が気になって、私は横たわったままのアマリリスの顔を覗き込んだ。
寝かしつける前と何も変わっていないように見える。
だが、微かにニューラの匂いがした。
「あいつが来たのか?」
問いかけると、アマリリスは答えずにこう言った。
「カリス、あなたから別の花の匂いがする」
「アマリリス」
その名を呼ぶと、アマリリスは悲しそうな目で私を見つめ、そして素直に従った。
「来たわよ。でも、何もされなかった。ただ様子を見に来ただけ」
「本当に?」
問いかけると、アマリリスは私を見つめたまま頷いた。
「本当に」
そして、今度は妖しく目を細めて問いかけてきた。
「あなたはどうなの、カリス。ニューラの隠し持っていた花に会ってきたのでしょう?」
その言わんとしている意味を理解して、私は俯きつつ答えた。
「何もなかった。何もされなかったし、しなかった」
「……そう」
アマリリスは短く呟いた。
その声に耳を擽られ、誘われるように私は彼女のベッドへと潜り込んだ。
そう、何もなかった。
ルサルカとは。
しかし、何もされなかったというのは半分嘘だ。彼女は魔術を使っていた。魔女の性を満たしたかったのだろう。幻術の蝶が塞いだのは退路だけではない。その幻惑で私をその気にさせようとしていたのだ。
だが、何もしなかった。魔術が通用しなかったわけではない。耐えただけだ。耐えた分の反動は、無事にアマリリスの元に戻った今となって私の心をかき乱している。
「カリス……」
その身体にそっと触れると、アマリリスの目に甘えのようなものが浮かんだ。
互いに何もなかった。何もされなかった。
その言葉を胸に抱え、私はそのままアマリリスの唇を奪っていった。




