5.命を守るために
唐突に目は覚めた。
冷たい夜風とアマリリスの匂いを感じながら、私は恐る恐る目を開けた。真っ先にヒステリアが寛いでいるのが見えた。興奮してはいない。まるでずっと平和だったかのように落ち着いた様子だった。
風向きが変わり、ニオイも変わる。嗅ぎ慣れていないニオイをすぐ傍に感じ、私は慌てて視線をそちらに向けた。そこにニオイの主はいた。パピヨンでも、他の翅人でもなければ、もちろんコックローチでもない。防寒用のぼろぼろのマントに身を包み、火に当たっているのは、先ほど、私たちを助けてくれたあの〈黒鳥姫〉だった。
「気づいたようだね」
アルカ語で声をかけられ、私は素直に頷いた。
アマリリスはすぐ隣で眠っている。その寝顔をちらりと見つめると、状況を少しずつ把握して、ようやく心から安堵することが出来た。ぐっすり眠っているその頬に触れると、仄かに幸福感が浮かんだ。だが、浸っている場合ではない。我に返り私は、命の恩人となった魔女へと視線を戻した。
そして、気づいた。腹部に受けたあの傷が治っている。
「治してくれたのは、貴女なのか?」
だが、彼女は首を振った。
「違うよ。全く治せない傷というわけじゃないが、あいにく薬の手持ちもなかった。ただの傷じゃないことは身をもって分かっただろう。この辺じゃよくある毒薬さ。あのままだと死んでいただろうね。あんたは運が良かった」
「運が良かった……じゃあ、私を治したのは……?」
戸惑いつつ問いかけると、〈黒鳥姫〉は薄っすらと微笑んでから答えた。
「アマリリスの顔をご覧。そこに答えがあるよ」
「え……」
思わぬ答えに戸惑いつつ、私は言われるままにアマリリスの寝顔を見つめた。私の身体に寄り添って眠る彼女はいつにも増して愛らしく感じた。かつて妹のように思っていた記憶が目覚めたせいだろう。ずっと見ていると抱きしめたくなるような……。
いや、何かがおかしい。
私はまじまじとアマリリスを見つめた。こんな風に感じた事はあっただろうか。ずっと寄り添ってきたし、共に歩み続けると誓ったのは確かだ。だが、それまでと今とで何かが根本的に違ったのだ。
目に入れても痛くないほど愛おしい。その感情は、明らかに不自然なものだった。
「これは、一体……」
「主従の魔術だよ」
戸惑う私を見て〈黒鳥姫〉は言った。
「死にかけた相手と契れば、その相手を死から救うことも出来る。一度きりの方法ではあるけれどね。応急処置としては効率の悪いやり方だよ」
驚いてそちらを見やると、〈黒鳥姫〉もまた目を細めてこちらを見つめた。微笑んではいるが、どこか冷たい眼差しに感じるのはその色のせいだろうか。
「主従? しかし──」
私は再びアマリリスを見つめた。愛らしさは以前よりも増した。それは確かだ。だが、従おうという気持ちは一切起こらない。
そもそも私は何も覚えていない。覚えていないうちに主従になるなんて。
不思議がる私を見て〈黒鳥姫〉は面白がるように笑った。
「ああ、違和感に気づいたか。そりゃあそうだ。本当ならこの魔術は口で誓わせなくてはいけないんだ。従えるつもりの魔物に、その口でね。だが、裏技もある。自分が従うつもりならば相手に言わせる必要はないんだ」
「従うつもりならば……」
そこでようやく私は違和感の正体に気づいた。
我が子のように、妹のように愛おしい。この愛着の原因こそがそれだ。つまりアマリリスが従者に、私が主人になってしまったのだ。
「魔女にとっては捨て身の方法でもある。心から、本当に、信用している相手でないとこんな方法は取れないだろう。ただでさえ自分の身を他人に預けるというのは怖い事だ。その上、魔女というものはプライドが高いからね。だが、アマリリスはそうした」
〈黒鳥姫〉はそう言って、こちらをじっと見つめてきた。
「何故……そんな」
遅れて震えが襲ってきた。戸惑いは強いが、一度結ばれたものは消えたりしないのだろう。今は結ばれた喜びの方が大きかった。
取り消す方法など私が知るわけがない。教えられたせいだろうか。寄り添って眠るアマリリスの姿は見れば見るほど愛おしく、そして、独占欲を掻き立てられる。自分でも恐ろしくなるほどに。
「仕方なかったのさ。それしか方法がなかったからね。だが、腹立たしいものだね。この私の目の前で他人のものになろうとは」
低い声で唸るように言う〈黒鳥姫〉に、私は再び視線を向けた。
「貴女は……」
アマリリスを知る者。ただの知人ではないだろう。おおよその予想が脳内を駆け巡る中、彼女は口元に笑みを浮かべ、素直に答えてくれた。
「ああ、自己紹介が遅れたようだ。私の名はニューラ。その子の養母にあたる者だ」
ニューラ。その名はもちろん覚えている。
薄々感づいてはいたが、改めて堂々と名乗られるとそれとない緊張感が生まれた。彼女が決して善意だけでアマリリスを救ったわけではなかったことは察しがついている。そして、再会を前に何を期待していたかも想像は容易い。それだけに、今向けられている冷ややかな眼差しの意味が痛い程分かったのだ。
だが、内心息を呑む私を見つめ、ニューラはため息交じりに笑ってみせた。
「そう力むな、狼。その子は私にとってもせっかく再会した愛娘だ。つまらない嫉妬で悲しませたいとはさすがの私も思わないさ。そりゃあ、下心あって手を貸したのも事実だがね。力ずくでその子を連れ去らねばならぬほど今は困ってはいない」
「困っていない……」
その言葉を繰り返し、そしてニューラの目を見つめた。確かに彼女の目には余裕がある。性を満たしたくてたまらない狂気の眼差しは、まさに隣ですやすやと眠るアマリリスからよく学んだから分かる。ニューラの言葉は嘘ではなさそうだ。
私もまた深く息を吐いて、そして真正面から彼女を見つめた。
「助けてくれたことの礼をまだ言ってなかった。感謝する」
「人狼を傷つけて人狼に感謝されるのも珍しい。だが、素直に受け取るよ。間に合ってよかった。あんたがここで死ねばとんでもない事になると、その子から聞いたのでね」
そうしてニューラは私の傍らに眠っている聖剣へと目を向けた。
「私はリリウムとは無関係だ。だから事情はよく知らない。けれど、大金をはたいて手に入れた最愛の娘が巻き込まれているとあっちゃ無視できない。あんたたち、人を追っている途中だったんだって?」
「ああ……。わけあって、ある場所へ行かなくてはいけないんだ」
「知っているよ。ヴァシリーサのもとだろう。だが、真っすぐ向かうことは止した方がいい。今のお前たちには休養が必要だ。頭が書き替えられたばかりのお前たちにはね」
「頭が……?」
訊ね返した途端、私は違和感に気づいた。
確かに異様に重たい。それに回転がいつもより悪く感じる。アマリリスに触れると妙に心が落ち着くのも無関係ではないだろう。
取り消せない主従の魔術のせいか、はたまた、死ぬほどの深手から急速に回復したその反動なのか、その両方か。
「だが……早く追いかけないと手遅れになってしまう。ヴァシリーサが殺されたら、恐ろしい怪物が誕生してしまうんだ。この世を滅ぼすかもしれない悪魔が……」
「心配はいらない。ヴァシリーサはね、逃げ隠れをするのが得意なんだよ。そうでなければ何千年と生き永らえない。もうとっくに自分を狙う男の気配を感じ取って動いている」
「ヴァシリーサと知り合いなのか?」
問いかけるとニューラは目を細めた。
「宿敵のようなものだ。幼い頃はヴァシリーサに攫われそうになったこともあった。魔女の性が目覚めて以降は最愛の花を何人か盗まれた。その子も何度か盗まれそうになったことがある。攫われた子はヴァシリーサのもとで生きることも死ぬことも出来なくなる。とても恐ろしい魔女なんだよ」
「……それでも、あの男ならやってのけるだろう。ヴァシリーサを見つけ出し、殺してしまうことくらい。だって、あの男には聖獣の力が宿っているのだから」
こうしているうちにもゲネシスたちは突き進んでいるのだろうか。追いつけないにせよ、早いうちにあの首を取らなければ。
だが、気持ちは空回りするばかりだ。確かにニューラの言う通り、私の身体には休養が必要なのだろうか。気が高ぶれば高ぶるほどひどい眩暈がした。
「何度も言うが私はリリウムじゃない。けれど、事情は少しだけ知っている。聖地が穢されたんだってね。三巫女の全てが食われ、聖獣の力が奪われた。よって、古の伝承に従って〈赤い花〉の聖女が大罪人を討つために放たれたと。その話を聞いた時は、まさかアマリリスだとは思わなかったけれどね」
気怠そうにニューラはそう言うと、周囲を見渡した。
「さて、時間も経ったことだ。少しは警戒を解いてくれるかな。リリウムの虫たちよ」
問いかけたその先で現れたのはパピヨンではなくアラーニャだった。パピヨンの気配はない。ニオイもまた感じなかった。ナイフで刺された傷は浅いものではなかっただろう。その身がどうなったのかは気になるところだったが、質問を受け付けるような空気ではなかった。アラーニャはただニューラだけを警戒するように見つめていた。
「貴女の事もすでに調査済みです。リリウムがどう判断するかについては、私の立場からはお答えできかねますが」
突き放すような言葉だったが、ニューラは笑みを崩さなかった。
「別に聞こうとは思わない。ただ、傷ついたあんたの仲間の手当は必要だろう。奴らが使っていた毒はこの地域特有のものだ。リリウムの拠点ならば薬があるかもしれないが、ここからだと少し遠すぎる。そこへ運ぶまで持つかどうか」
淡々としたその言葉にアラーニャの表情が一瞬だけ曇った。どうやらパピヨンの容体はあまり良くないらしい。だが、それでも、アラーニャの態度は硬いままだった。
「貴女のご希望をお聞きしましょう。条件によってはその善意も断らねばなりません」
苦い表情で彼女はそう言った。あくまで私情を殺すつもりなのだろう。ニューラの態度によってはパピヨンを諦めるつもりなのだと。だが、それで本当にいいのか。本心はアラーニャの表情の端々に滲み出ている。そんな気がした。
ニューラはそんなアラーニャを正面から見つめ、穏やかに答えた。
「条件ね。あるにはあるが、別にあんたらの警戒するようなもんじゃないよ。ほんの一時だけ、アマリリスとの再会に浸らせてくれればそれでいい」
アラーニャは黙ったままニューラを見つめていた。その発言の真意を探ろうとしているらしい。そのあまりの警戒心に、ニューラはくすりと笑った。
「言っただろう。食うに困ってはいないと。心配せずともあんたらの大切な聖女様を盗んだりはしないさ。むしろ、私だって本当はリリウムの関係者を我が家に招待したくはない。したくはないが、そうも言っていられないだろう。ひっそりと平穏に暮らしているすぐ傍が、おぞましい死霊どもの拠点になるかもしれないとなれば放ってはおけない」
ニューラの笑みにアラーニャはようやく少しだけ警戒心を解いた。
「分かりました。あとの判断は聖女様方に委ねましょう。──けれど一つだけ」
アラーニャは声を潜めて言った。
「パピヨンを……同胞を助けて下さるのであれば、私はその御恩を一生忘れません」
それは紛れもない本心のようだった。
反応を待たずしてアラーニャは姿を消していった。ニューラはその様子を静かに見送りながら、訛りの強いローザ語で何かを呟いたあとに私へと視線を向けてきた。
「さて、判断は聖女に、との事だったが、今の聖女にはご主人様がいる。どうする狼」
「私が決めるのか……?」
問い返すとニューラは野獣のように目を細め、小さな声で言った。
「今のアマリリスはあんたの判断に従う。そういう魔術だからね。アマリリスに聞いたところで、あんたの気持ちを必ず確認するだろうさ」
ニューラはそう言ったものの、やはりピンと来なかった。アマリリスへの感情が以前に比べて何かおかしくなったのは確かなことだ。それでも、アマリリス側はどうなのか。すやすや眠っている以上、確かめる事も出来ない。
そんな戸惑いが表情に出ていたのだろう、ニューラは小さくため息をつくと、深く腰掛けてから呟いた。
「まあ、その子が目覚めた後に決めても遅くはない。実際にその子と向き合って、考えるといい。それまで私もじっくりと待ってやるさ」
そう言って、ニューラは静かに目を閉じた。
眠ってしまったのだろう。その顔をじっと見つめてから、私はそっとくっついて眠っているアマリリスに触れてみた。
もとより運命は共にすることとなる。アマリリスが何らかの形で命を落とせば、私もきっと伝承通りになるだろう。だが、それだけではなく心まで、本当に鎖で縛られることになるとは思わなかった。
望んだことはあった。どうせならば縛って欲しいと。ルーナを失ってからの彼女は本当に痛々しく、代わりになれないことは重々承知で傍にいたいと願ったこともあった。はたしてそれは可哀想だという同情からのことだったかと問われれば、答えに詰まる。私もきっと寂しかったのだ。全てを失っていたから。
では、今の私は嬉しいだろうか、それとも嬉しくないのだろうか。
眠っているアマリリスの手をそっと握り、その温もりと匂いを感じながら、私はひたすら自分の感情に向き合っていた。一生、永遠に寄り添う覚悟は嘘偽りではない。けれど、私は戸惑っている。聖女に従うつもりだったのに、まさか従える側になるなんて。
だが、取り消せない約束だ。
私もまた横になり、アマリリスの寝顔をじっと見つめてみた。
指輪のお陰で対等になろうと、聖女と運命を共にする呪いにかかろうと、そして魔術によって主従になろうと、彼女自身が私のものになったとは思えなかった。
こうして眠っている間にも、どんな夢を見ているのか私にはちっとも分からない。どんな考えで行動をし、どんな気持ちで眠りについたのかも分からない。
ただ、そうであっても彼女の隣で寝そべっていると、私は確かに感じたのだ。
これまで忘れていたような感情。純粋な幸福感を。




