3.幼き日の記憶
物心ついた頃、アマリリスは母親に手を引かれながら大地をさまよっていたらしい。故郷というものを持たない流浪の生活の中で、母語らしきものは母の口にする亡国イリスの言葉だったという。
常に困っている人々を探し続け、全力で手助けをする母の姿は彼女にとって女神のようでもあったのだとか。
「でも、母は女神なわけではなかった。当たり前だけれどね」
アマリリスが魔女ならば母親もまた魔女である。アマリリスが魔女の性にかつて苦しんでいたように、その母もまた生きるために魔女の性に悩まされていた。
だが、幸いなことに、母親の性はアマリリスの人狼殺しのような暴力的なものでなかった。日頃行っていた人助けこそが彼女の食料だったのだ。
「平和的といえば平和的。けれど、困っている人が常に見つかるわけじゃない。だから、母には協力者がいたの。それが──」
若き日のコックローチだった。
まだ幼いアマリリスにとって、コックローチは気のいい兄のようにしか思えなかったという。母もまた彼の情報を求めるから、味方だと思っていたと。
けれど、成長していくにつれ、アマリリスは知ったのだ。コックローチは協力者ではあったが、味方ではなかったと。そして、彼の──彼の一族の存在こそが、自分が生まれた理由でもあったことを。
「生まれた理由?」
思わず問い返し、すぐに後悔した。
コックローチの本業の事を思い出したためだ。
表の顔は情報屋。だが、裏の顔は花売り。〈赤い花〉を捕まえて、その血を無理やり増やして売りさばく。その意味を理解していないわけではない。
「ああ……そうか……そういうことか」
納得した私の横でアマリリスは力なく笑った。
「知ったのはもうずいぶん大きくなってからだった。大きくなって、もうじき魔女の性が目覚めるかという頃になって、母が教えてくれたの。私の生まれた経緯を、そして、コックローチの……花売りたちの危険性について」
アマリリスの母は、人助けの性が仇となってコックローチの叔父に捕まったらしい。
花売り一家の暮らす地下の施設に閉じ込められ、そこで金に目が眩んで魂を売った〈赤い花〉のはぐれ者たちと引き合わされたという。そのうちの誰かがアマリリスの実父というわけだ。
狙い通り〈赤い花〉を引き継いで誕生したアマリリスは長女ということで母親の跡取りとして一生を地下で過ごすことを決められていたという。
しかし、そう上手くはいかなかった。
アマリリスの母を狙っていたのは、コックローチの叔父だけではなかったのだ。
「金で買われて母を抱いた〈赤い花〉の男の中に、内通者が紛れ込んでいたのですって。リリウムではないわ。別の魔女の差し金で。ローザ大国の片隅に暮らすニューラという魔女……後に私の養母になる人が、母を助け出したの」
その魔女ニューラもまた魔女の性に苦しんでいた。
その性はとても稀有なもので、〈赤い花〉を受け継ぐ魔女を抱くことだったという。そのため、ニューラは花売り並みに血眼になって〈赤い花〉を探していた。
その中でアマリリスの母を見つけ、コックローチの叔父に捕まってしまった後も、なんとか横取りできないかと思考を巡らせていたらしい。
「母は救い出され、今度はニューラに捕まってローザへ連れていかれようとしていた。けれど、もう誰のものにもなりたくなかったのでしょう。その拘束から逃れて赤ん坊と共に逃げてしまったのだと……これは後にニューラ自身から聞かされたのだけれどね」
ともあれ、アマリリスの母は自由を手にした。
自由を手にした後も、花売りの気配はまとわり続けた。隙を見せずに得られる情報だけ得て、幼い我が子を抱えて生き延びるために人助けを続けていたという。
そこまで聞いて、私はふと彼女に訊ねた。
「アマリリス。教えて欲しい」
目を合わそうとしない彼女をじっと見つめながら。
「お前の母はなんという名前なんだ?」
アマリリスはしばし黙り込んだ。じっと地面を見つめ、それでも私に寄りかかったまま、震えているのだろうか。怯えているようにも見えた。だが、黙ってじっと待っていると、彼女は掠れた声で短く答えた。
「……アネモネよ」
アマリリスの口からその名を聞いた瞬間、私はふとおかしな感覚に見舞われた。
頭の中で重たい扉が開かれるような、そんな感覚だ。開かれたその先に現れるのは、断片的な記憶の欠片たちだ。様々なことが蘇り、私の記憶の一部として戻ってくる。
失われていたことすら気づいていなかったような古き日の光景が、私の記憶として沁み込んできた。
思い出した。私はアネモネに助け出され、ラヴェンデルの人狼の里に預けられるその日まで、アネモネの幼い娘をあやしたことがあった。
完全に忘れていたわけじゃない。アネモネのことを忘れたことなんてなかった。けれど、忘れていたのだ。アネモネに小さな娘がいた事を、その娘の名前の事を。
幼いアマリリスの事を。
「きっと、母の善意だったのでしょうね」
アマリリスは呟いた。
「ラヴェンデルの人狼の里で、せっかく出来た綺麗なお姉さんがいなくなることを私はとても悲しんだ。そして親のない人狼の子も別れることを辛く思っていた。もう二度と会えない二人だから、忘れてしまった方がいい」
そして、幼い私たちはかけられたのだ。記憶を封じる魔術を。
「ああ……そんな。そんな事って」
蘇りつつ狼狽える私に、それでも記憶の方は容赦しない。
一度思い出してしまうと、はっきりと、鮮明に蘇る。
アネモネの娘の事。幼い私は確かにその娘をアマリリスと呼んでいた。
寒い日に抱き合って過ごしたことがあった。人助けの為に奔走するアネモネを二人で待つ間、恐ろしい敵が来ないか不安に思いながら幼い妹のようなアマリリスを抱きしめて過ごしたことがあった。
一緒に笑い合ったこともあった。小さな彼女は可愛くて、無邪気で……。
ああ、それなのに、私たちは再会し、憎しみ合い、殺しあおうとしたなんて。
「あなたがアネモネの名を口にした時に、私は思い出したの」
アマリリスは言った。
「けれど、怖くて言えなかった。認められなかった。だって、私は、あなたを殺そうとしたのだもの。姉と慕ったはずのあなたを……その上、あなたの新しい家族も殺してしまって──」
震える彼女を私は抱きしめた。
抱きしめて気づいたが、震えているのは私もまた同じだった。記憶の戻った衝撃だろうか。まとまらない驚きが私の心を揺さぶり続けていた。
だが、そんな中で、私はどうにかアマリリスに囁いた。
「それは魔女の性のせいだ。お前のせいじゃない……」
はたして、囁いている相手はアマリリスだっただろうか。まるで自分自身に言い聞かせているようだった。私は怖かった。怖かったからこそ抱きしめていた。幼い日の頃のように守るふりをして不安から逃れようとしていた。
ああ、そうだ。思い出してしまったせいか、記憶の連鎖が止まらなかった。優しいアネモネに手を引かれ、安全な場所でアマリリスと二人きりで隠れていたあの頃の事を。
「カリス……」
弱々しいアマリリスの声が聞こえて、私は我に返った。しがみついて来る彼女の温もりを感じていると、彼女は静かに囁いてきた。
「ごめんなさい。今まで黙っていて」
その言葉に、私もまた短く返した。
「いいんだ」
私にはもうこの女しかいない。けれど、彼女がいるだけまだましだ。抱きしめていると、その思いがさらに強くなっていく。今の私たちの関係を保っているのはたった一つの指輪だけだ。けれど、指輪さえあれば、この関係は守られる。
いや、守っていかなければならない。
その緊張感は急に心身に圧し掛かってきた。
風向きが変わると、警戒心が真っ先に強まった。その異変を正確に理解するよりも先に、私たちの耳元に声が届いた。
「近くにいます」
パピヨンの声だった。アマリリスがその声にはっとする。振り返ろうとする彼女を強く抱きしめ、私は宵闇の向こうを睨んだ。近くて寛いでいたヒステリアが異変に気付き、不快感を露わにする。
そうして、ようやく彼は姿を現した。
「やあ、奇遇だね」
コックローチ。不快な笑みを浮かべながら、彼は木々の間に立っている。見慣れぬ多数の仲間を連れて、彼は低い声でアマリリスに向かって言った。
「おかえり、我らが故郷へ」




