2.木霊たちの集落
そこは、小鳥のさえずりすら聞こえてこない沈黙の世界だった。すぐ傍では大勢の学生たちで賑わっているとは思えない程、学園都市カンパニュラの片隅に存在するその森林はひっそりとしている。生き物の気配と言えば物言わぬ植物くらいのもの。柱のように伸びる木々のざわめきが唯一の音でもあった。
けれど、学園の者たちは言った。そこには確かに木霊たちの集落があったのだと。カンパニュラが築かれた当初より暮らしている原住民たちで、時にはリリウム教会との間に摩擦もあったが、少なくともここ百年以上は良好な関係を築いてきたのだと。
とはいえ、それは互いの事に口を挟まなかったからに過ぎない。彼らはリリウムにとって異教徒であり、彼らからしてもリリウムは異教徒だった。
だからだろうか。カンパニュラで未来ある若者たちを守ってきた戦士たちは、木霊たちの集落に異変が起きていることに全く気付かなかったらしい。
そして、ようやくその異変に気付いた時には、集落だけでなく林全体が異様な雰囲気に包まれていたのだと。
「初めは我々もその事態に気づかなかったのです」
そう語るのはここに長く滞在し、戦い続けているというアルカ聖戦士の一人バジルという男だった。
人間の身で生まれた彼だが、その身体能力と知性は高いらしく、もともとは聖戦士を目指す学生たちの指導役としてここに来ていたらしい。グロリアと同じカンパニュラ出身であり、それだけにここを守ろうという気持ちも強いように感じる。
だが、そんな彼は見るからに憔悴していた。
「僕と共に赴任した仲間がいました。一応人間の括りにはいたのですが少しだけ吸血鬼の血を引いていまして。両方の良い部分を受け継いだ形でして、純血の吸血鬼とは違って日中も日向で存分に戦える超人でもありました。でも、そのせいなのでしょうね。彼は自分の力を過信しているところがあって、だからこそ誰にでも心を許してしまうところがあったんです」
バジルによれば、その戦士は翅人の諜報員より林の異変を耳にしてすぐに、木霊たちの集落に向かったらしい。何があったかをまずは彼らに聞いてみようと。
それは、いつもならば学園にとってもありがたい提案だった。木霊たちとうまくやり取りできる人材は貴重であったし、穏便に事が済むならそれ以上のことはない。そういうわけで、彼に掛かる期待は大きかった。
ところが、彼はいつまで待っても戻ってはこなかった。代わりに青ざめた顔で戻って来たのは、彼の仕事ぶりを見守り、報告しようと隠れていた翅人戦士だったという。
監視役の翅人戦士は、自身の目にしたそのおぞましい光景を学園の上層部に伝えた。そして、それからしばらくして、ようやくバジルの耳に友の死が伝えられたという。
「最初はなかなか教えて貰えなかったんです。その証言が正しいかどうか確かめていたようで。けれど、その正確さがはっきりするよりも先に、木霊の姿をした何かが学園のすぐ近くに現れるようになったんです。幸い、学生が何かされるようなことはありませんでした。けれど、ただの木霊ではないことは明白でした。そしてようやく、はっきりとした情報は伝えられたのです。木霊の集落はすでに死霊たちに乗っ取られているのだと」
恐ろしい話だ。けれど、思ってみれば世界の各地でいつ同じようなことが起こってもおかしくはない。
死霊にとってこの大地が住みやすい者になるとすれば、それは、地上に暮らす全ての者たちが死霊になった時に違いない。放っておけば、気づけば世界は死霊に支配されてしまう。そうなった時、死霊でないものはどうなるのか。
考えるまでもないことだ。
「敵の数は?」
グロリアが訊ねると、バジルは深刻な顔で頷いた。
「百名に届かないとみられています。しかし、木霊たちの集落が乗っ取られていることがはっきりしたのがここ数週間のことですので定かではありません。その上、まずいことにそのちょっと前に少なくない数の戦える戦士たちが西の大地へと駆り出されてしまいました。決して残った戦士能力が足らないわけではありません。それに、恐ろしい強敵だと知らされた死霊の女王や裏切り者の戦士は戦える状態にないようです。でも、それでも、僕たちは苦戦しているのです。何故なら──」
「メイベルがいるから、ですね」
そう言ったのはアマリリスだった。
彼女の言葉にバジルは緊張気味に頷いた。
「……はい。メイベルと名乗る聖女の格好をしたソロルが、いつも僕たちを阻むのです。それだけではなく、ここ近日は学園に攻め入ろうとしてくる。無茶はしないようですが、彼女は明らかにある場所を目指している」
それが、初日に紹介されたあの場所というわけだ。
死霊たちの怪しげな力を制限する〈メイベルの心臓〉という聖具。神出鬼没の死霊たちの影に怯える人間たちにとっては非常に大切な護符のようなものだが、よりによってそれに対してメイベルの姿をしたソロルは執着心を見せるという。
「ある者は証言しました。彼女は怒っているのだと。生前は群衆をまとめるための偶像にされ、不自由な暮らしの果てにある人物の狂気の犠牲となり、それにも関わらず死後もなお利用され続けていることへの怒りなのだと。……その気迫は並外れたもので、相手がいかに死霊であっても真に受ける者もちらほらといるのです」
バジルの言葉にグロリアの表情が曇る。
死霊の言うことは全てまやかしだ。そうはっきりと思えるならばどんなに苦労しないことか。最初は誰だって簡単なことだと思うだろう。私だってそうだった。そうだったから、ゲネシスを説得できると信じたし、そうだったからこそ、その説得に失敗したのだ。
あの時、あの頃、私は同じ立場にいなかった。親しい者が、懐かしい者が、死後の世界から蘇ってくることの恐怖と捨てきれない期待について理解が甘かった。
けれど、今ならもっとその想いに近づけるはずだ。何故ならもう、私たちだって、魔物だって、他人事ではなくなったのだから。サファイアは、あのソロルの女王は、魔物すらも甦らせることができる。
それはつまり、ルーカスやエリーゼといった懐かしい同胞との再会というあり得ない期待を抱かされるということだ。
「間違ってはいけない」
グロリアはぽつりと言った。
「メイベルは大昔に死んだ。死んだ者は蘇ったりしない。少なくとも死霊たちには蘇らせることは出来ないんです」
「ええ、もちろん、分かっております」
バジルは言った。
「僕もまたそう思います。もしも……ここに一緒に赴任したかつての友が、フラーテルとなって再び現れたとしても、僕はその懐かしさや切なさといった感情を殺します。そのつもりでいます」
はっきりとした主張だった。だが、それを聞くグロリアの表情は暗いままだった。それだけではない。共に現場へと向かう他の戦士たちも、同じように沈んだ表情のままだった。
おそらく皆、似たような気持ちを抱えているのだろう。少なくとも私の心は不安でいっぱいだった。いざ決着の時、私は迷いなく行動できるだろうか。全ての希望を捨てて、たった一つの答え──つまりは残酷ともいえる勝利を掴み取ることができるだろうか。
都合の良い可能性に期待して、道を誤ったりはしないだろうかと。
「ご説明ありがとうございます」
ぽつりと言ったのはアマリリスだった。彼女の表情はいつもとあまり変わらない。もともと暗い表情のためか何かを思っているのかが読み取りづらかった。ただ、そのニオイから察するに、思考は定かであるようだった。
「状況はよく分かりました。ご心配いりません。あなた方がもしもその決意に淀みが現れたら、その時は私がこの手を汚しましょう。そういう役こそ魔女にぴったりというもの」
「アマリリスさん……」
グロリアがぎょっとした表情を浮かべた。バジルたちも同じだ。それもそうだ。聖女ではなく敢えて魔女と名乗るその態度には壁を感じた。恐らく、私もまた時折、リリウムの者たちに見せるだろう壁だろう。異教徒であるという壁。
「い、いえ、それには及びません」
ややあって、バジルは笑みを浮かべ直してそう言った。
「何かも聖女様に頼っていては戦士として失格です。頼りないように見えるかもしれませんが、僕たちを信じてください。相手が見知った顔であっても、かつての聖女であっても、それがソロルやフラーテルであるならば容赦はしません」
その言葉、表情を、どこまで信じてよいものか。それでも、茶化す気にはならなかった。何故なら、他人のことなど言えないからだ。私だって、どんなに自分を奮い立たせたところで、いざとなると出来るのか。
アマリリスだって同じだ。桃花のことを引きずっているのは明白だ。それに、最悪の事も考えなくては。アマリリスが今も愛してやまないルーナがソロルに乗っ取られないとは限らないのだから。
私たちは弱い。それは認めなくては。だが、私たちは歩み続けている。歩み続けている以上、避けることは出来ない。逃げ出さないと決めた以上、時は来る。覚悟が決まろうが、そうでなかろうが、来るべき時は来てしまう。
その合図は、陽炎のように姿を現した翅人の仲間パピヨンから告げられた。
「います。数体がすぐそこに」
短く告げられて間もなく、パピヨンの仲間であるアラーニャが離れた場所で動いた。その陽動に釣られて現れたのは五人ほどの木霊たちだった。
違う。ただの木霊ではない。いち早く身構えたのはアマリリスで、瞬きする頃にはもう動いていた。指輪の嵌る手から魔力が糸となって放出される。そして、断末魔させあげさせず、そのうちの一体が糸に包まれた。あとは語るまでもない。私がさんざん目にしてきた同胞と同じ。ルーカスのように、エリーゼのように、アマリリスはその木霊を躊躇いもなく捌いてしまった。
違うとすればその後だ。犠牲となった木霊が見るも無残な姿となるのも一瞬の事、すぐにさらさらとした灰になり、風に攫われていく。そこではっきりとした。相手は木霊などではない。言葉に出来ない違和感の答えが示される。これがバジルの言っていた者達だ。木霊の集落を崩壊させ、乗っ取ったという死霊たち。
「よくも仲間を……」
死霊の姿をした木霊の一体が唸った。その目は異様に輝き、ぞっとするほどの不気味さを宿している。見つめているのはアマリリスのみ。どうやら彼らにとってもっとも恐ろしい相手であるようだ。
それならそれでいい。アマリリスに気を取られようものなら、その死角から八つ裂きにするまでだ。誰であろうと穢れたその手で彼女に触れさせやしない。同じように攻め時と判断したのか、グロリアやバジルもまた動き出した。一瞬の間にさらに二人ほどが聖剣の犠牲となり、ようやく死霊たちは慌てだした。
「後退だ! 後退! 貴重な肉体を無駄にするな」
死霊の誰かが叫ぶと、木々の影に隠れていたらしい者たちまで一斉に逃げ出した。驚くほど多い。いずれも木霊だ。戦闘力など殆どない。出来るとすれば奇襲くらいだろう。だが、その奇襲が思わぬ力となることも忘れてはならない。シルワではそうだった。〈果樹の子馬〉たちの協力があってこそ、戦いに勝つことが出来たのだから。
しかし、いくら私が慎重になろうとも、聖女の心に火がついてしまっては意味がない。逃げる彼らを逃すまいとアマリリスは走り出した。グロリアもバジルも呆気にとられる中で、私だけがどうにかついていくことが出来た。
「アマリリス!」
名前を呼んだところでその足が止まるはずもない。ならば、ついていくのみだ。走り続けるその影の中へと飛び込んだ。不気味な空気のただよう林の中を一心不乱に駆け抜けるアマリリスの心を探ってみるも、何を考えているのかよく分からなかった。
だが、追いかけることしばらく、アマリリスの歩みはようやく止まった。
いや、止められたのだ。
影からこっそりと前を確認すると、そこには木霊ではないソロルがいた。聖女の格好をしているひとり。前に一度だけ、シルワの大聖堂で顔を合わせたことがある人物だ。生前は人々から愛され、非業の死を遂げた後も、その亡骸を人々に利用され続けているという彼女──メイベルはそこにいた。
不安になるほど愛らしい顔には微笑みが浮かんでいる。だが、その目には冷たい光が宿っていた。私の存在に気づいてはいるだろう。それでも、彼女が見つめているのはアマリリスだけ。彼女だけを見つめ、そして笑みを深めたのだった。




