9.鳥の代理人
嫌な予感はしていた。コックローチの情報にもあった。
だが、本当にこうなってしまうとは。
それは、突然の指令だった。
イグニスからカエルムに入った伝令によれば、ディエンテ・デ・レオンの状況がさらに悪化しているとのことだった。このままでは聖女たちの故郷まで巻き込まれかねない。その事態を誰よりも恐れていたのがリリウム教会だった。
聖女の活躍により、三つの聖地の混乱は解消した。
聖獣たちは解放され、その力もやがて戻るだろう。このまま奪われた巫女たちの魂までも解放してやれば、やがて彼女らの故郷には次なる巫女が誕生する。けれど、その前に巫女たちの故郷が荒らされでもしたら、今までのような安定は遠ざかってしまう。
今の時代、リリウムにとって三聖地の安定は重要な問題だった。聖地がなかなか安定しないと人々の信仰心も薄れてしまうかもしれない。そうなれば、困るのはリリウム教会だ。混乱と不安は恐怖を生む。その恐怖は悪魔にも等しい。悪魔ならば今も何処かで機会を窺っている。だが、だからと言って、戦火を前に何もしないなんてことはあり得なかった。
戦士たちがディエンテ・デ・レオンに向かわされているということは聞かされていた。その頃から嫌な感じではあったが、どこか遠い世界の話だと思っていた。けれど、状況は変わってしまった。優秀な戦士を求める声はさらに強まり、いつしかその声は聖女を護衛しているカルロスたちにまで伝わってきたのだ。
カルロスにとって、ディエンテ・デ・レオンは故郷でもある。クルクス聖戦士としての役目としては、呼ばれたら向かわざるを得ない。
「正直、迷いはある」
その方針が正式に決まった時に、彼は私たちにそういった。
「この戦いはまだ終わっているわけじゃない。大罪人がどうなるのか見届けるまでは、俺の中での決着もつかない。……だが」
彼は苦い表情で呟いた。
「ディエンテ・デ・レオンは……マルの里は……俺の故郷でもある」
その言葉に私もアマリリスも黙ってしまった。
本部の命令に口出しするつもりなんて毛頭ない。いつまでも力を貸してもらえるとは限らないことも、だ。ウィルがイムベルに残ったように、カルロスだっていつ離脱してもおかしくはなかった。
それでも、寂しくはあった。それに、心細くもあった。諜報員であろうと、戦士であろうと、あらゆる種族の味方がいる。人間の戦士だって訓練していれば心強いものだ。だが、やはり私は人狼だ。人狼の味方はそれだけ分かりやすかった。それに、思えば長い間、彼とは関わり続けていた。
同じようなものなのだろう。アマリリスもまた寂しそうな表情で彼を見つめていた。
「カルロス」
静かにその名を呼び、アマリリスはけれど微笑みを浮かべた。
「ありがとう。あなたがいたからここまで生き延びられた。今ならはっきりと言えるわ。あなたを殺しそびれて良かったって」
カルロスは苦笑してから、膝をついた。
「アマリリスさん。同行できず、心苦しい限りです。けれど、離れた地より祈っています。どうかご無事で」
そして、私の方もちらりと見つめ、茶化すように笑いながら言った。
「俺の分まで頼むぞ。聖女の忠犬よ」
その言葉に私もまた軽く笑いながら頷いた。
心配はいらない、と嘘でも言えたらどんなに心強かっただろう。だが、その嘘さえも私は言えなかった。戦力が減るのは心許ない。事情をどれだけ理解していようと、世間を恨まずにはいられなかった。
人間同士で争っている場合ではないのに。
いくら順調であったとしても、サファイアや傷を癒しているだろうゲネシスを侮ることなんてとても出来ない。たとえその圧倒的な力を殺ぐことに成功していても、だ。
それでも、いくら嘆いたって戦争が終わるわけではない。せいぜい、これ以上酷い状況にならないことを天の神やら大地の精霊たちやらに願い、祈り、進むことのみ。
そうと決まれば、あとはこれより進む地に思いを馳せるだけだった。
「カンパニュラ、か」
呟くと、アマリリスの表情がやや曇った。
本当ならば、三つの聖地を訪れた後はイグニスに向かうはずだった。だが、イグニスに向かっている暇は、どうやらないとのことだった。パピヨンがコックローチから得た情報と、カンパニュラ周辺の諜報員たちの探った情報が一致したためだ。
カンパニュラの森の一角が、死霊たちの縄張りとなっている。その奥まで到達した吸血鬼の諜報員が、死霊たちに護られる人間らしき男を目撃したのだと。
ゲネシス以外にあり得るだろうか。そうであるならば、逃す理由などなかった。
だが、カンパニュラか。
ゲネシスがそこにいるとしたら、どんな思いでいるのだろう。自身が学んだ場所。学友たちと過ごした場所。そして、ルーナが憧れた場所。
「決戦の地としては、お誂え向きかもね」
アマリリスがぽつりと言った。
「あの子が憧れた場所で、全てを終わらせてやりましょう」
淡々としたその声に、私は静かに頷いた。
全てを終わらせる。その意味を理解しているか。もちろん、しているとも。そのために、私は危険を承知で秘宝を全て口にした。今の私にはゲネシスの動きを狂わせる力が備わっているという。それがどういう事なのかは、実際に対峙してみなければ分からないかもしれない。しかし、はっきりしていることはある。その力を駆使して戦うということは、ゲネシスの死を目撃するということだ。
未練はないか。正直、分からない。あれほどの悪人であっても、何処かでまだ諦めきれていない部分がある気がした。改心できやしないかと。共に生きる道は本当にもうないのかと。あれほどの悪事を見てきても、思ってしまう自分がいた。
だが、そうであろうと自分に厳しく言い聞かせねばなるまい。
守れるものは一つに絞るべきだ。ゲネシスか、アマリリスか。どちらかを選ぶとなれば、決まっている。一つしかないからこそ、私は秘宝を口にしたのだから。
「カンパニュラまでは荷馬車で向かいます」
グロリアが言った。
「共に向かうのは、私と、数名のアルカ聖戦士となるようです。他にも、ここまで諜報員として同行したパピヨンら数名の翅人戦士も一緒のようです。いずれも戦闘に長けているわけではありませんが、人間には逆立ちしても出来ない魔術で護ってくれるはずです」
その言葉に、アマリリスは不安そうにしながらも頷いた。
これから先は少人数だ。翅人戦士の戦力が頼れないというのは言うまでもないし、いくら鍛えているとはいえ、人間の戦士が少人数というのはだいぶ心細い。グロリアが一緒であることだけでも恵まれていると思うべきなのだろうが、気が重いのは私も同じだった。
目立つ行動は出来ない。避けられる戦闘も避けなくては。この牙と牙は、やつらの肉体を引き裂くまで温めておくべきだ。
高まる闘志と不安を同時に抑えながら、私は自分に言い聞かせた。
それから二日ほど経って、カエルムからカンパニュラへと発つ日が来た。
見送ってくれるのは聖職者たちの他には、ウリアを始めとする鳥人たちと、ディエンテ・デ・レオンへ向かわされるカルロスたちだった。
ラミエルもここでお別れだった。これからはウリアたちと共にカエルムを守る役目を担うのだという。私やアマリリスと共に荷馬車に乗るのはグロリアとここまで御者役を務めてきたウーゴと、あとは名前もまだ知らないような数名のアルカ聖戦士たちだ。カンパニュラの現地で合流する戦士もいるらしい。
他にも姿を隠している諜報員たちがいる。翅人戦士が多いとグロリアは言っていたが、人員が確保でき次第、魔物や魔族の戦える戦士も送ると約束してもらえたらしい。ならば、少しは期待できるだろうか。
何処となく暗い気持ちのまま、それでも私はカルロスに言った。
「心配するな」
今度は言えた。はったりだろうと。
「聖女は私が守る。そして、自ら担った役目も果たそう。だから、安心して戦って来い。全てが終わったら再会しよう」
すると、強張った表情をしていたカルロスは、いつもの笑みを浮かべた。
「ああ、信じているぞ、同胞。再会した時には共に飲み明かそう」
「気が向いたらな」
素っ気なく答えてやると、カルロスは豪快に笑ってみせた。
そのやり取りを横目に、ウリアがアマリリスに向かって一礼をした。
「共に戦えたらどんなに良かったか」
アマリリスは静かにウリアを見上げ、そして他の鳥人たちにも視線を向けてから、仄かに笑みを浮かべた。
「あなた達はあなた達のお役目を果たしてください。新しい王が生まれ、育つこの聖地をどうか守って。そして、いつか生まれる新しい巫女のために、かつてのような穏やかなカエルムを取り戻してください」
その言葉に、ウリアたちは深々と礼をした。
一度壊された秩序が完全に元に戻るまでには、どれだけ時間がかかるだろう。死霊の数はだいぶ減ったが、完全にいなくなったわけではないはずだ。新しい王が生まれ、新しい巫女が生まれ、かつてのように参拝者で賑わう世界が戻ってくるまでには、途方もない時間がかかるかもしれない。
それでも、ウリア達、鳥人たちの表情には希望の光がともっていた。
その希望の光を失わせないためにも、私たちの役目は重い。巫女の魂を、聖獣の力を、取り戻さなければ。
荷馬車に乗り込んだとき、モルス教会の鐘の音に混じって甲高き鳥の声が聞こえてきた。
私とアマリリスがその声に顔を上げると、ほぼ同時にウリアたちも顔をあげた。きっとこの声は、グロリアやカルロスたちには聞こえないのだろう。
「『我、祈る、真の安らぎを、死霊に生まれた者たちの……』」
聞こえたままに呟くと、共に荷馬車に乗っていたグロリアが複雑な表情を浮かべた。
私もまた同じだった。だが、リヴァイアサン、そしてベヒモスの言葉を聞いてきたからこそ、理解は出来た。ジズにとって死霊は魔物の一種に過ぎない。本来ならば守るべき存在であるのだろう。
だが、単に憐れんでいるだけではなさそうだ。
「真の安らぎ、か」
その言葉を繰り返すと、アマリリスが声のした方向を見つめたまま呟いた。
「彼にとってサファイアたちはどのように映っているのかしらね」
ちょうどその時、ウーゴが馬たちに鞭を入れた。
動き出す馬車の中で、私はさらに耳を澄ませた。ジズは私たちを送り出すように声を上げ続けている。全ての魔物を地上に運んできたという父祖の声は、その魔物である私にとって心地の良いものだった。
ジズは願っている。聖女たちの勝利を。ジズは祈っている。聖女たちの成功を。
その感情が猛禽のような声に乗った状態で伝わってきた。
今度ははっきりと言葉として。
――我が勇を受け継ぎし、聖女とその友に祝福を。
これですべてが揃ったのだ。そう思うと、少しだけ気持ちが高ぶった。あとは隠れているはずの大罪人を見つけ出して、そして……。
そして、そこで全てが終わる。
終わらせなくてはいけない。
動き出した馬車の中で、私はアマリリスと身を寄せ合っていた。この先がどうなるかは、神にも分からないかもしれない。サファイアたちが黙ってやられるとは思えないし、順調な時ほど怖いものだ。
それでも、怖気づいてはいられない。
リヴァイアサン、ベヒモス、ジズの本来の心を取り戻した今こそ、その力を悪用する者を止めなくては。そして、この世界に真の平和を。
「どんなところかしら」
ジズの声が遠ざかってくると、アマリリスがぽつりとそう言った。
わざわざ聞くまでもない。だが、敢えてすぐには答えずに、オオカミの姿で耳だけを傾けた。顔を上げてその表情を覗くと、アマリリスはどこか遠くを眺めていた。
そんな彼女に答えたのは、近くで外の様子を見つめていたグロリアだった。
「立派なところですよ」
鳶色の目にそっと優しさを浮かべて、グロリアは言った。
「外も中も見惚れてしまうような作りです。でも、それだけじゃない。あの場所には温もりもありました。第二の故郷のようなところで、思い出すと懐かしくて……」
そう言って、グロリアは黙してしまった。
道を違えた学友と、彼女はどう向き合うのだろう。動揺していないはずがない。その懐かしさを共有できる唯一の相手なのだから。
しかし、グロリアの心は鋼のように鍛えられているのだろう。すぐに哀愁らしきものを消し去って、彼女は鋭い眼差しと共に誓うように呟いた。
「あの場所を守らないと」
その目にはゲネシスへの未練など感じられなかった。
未練がないのは私も同じだ。もう思い知った。散々分からされた。それに、今はアマリリスがいる。彼女を選んだ以上、迷っている暇などない。
深く息を吐くと、アマリリスは私の鼻に手を添えてきた。
「そうね」
グロリアに相槌を打ちながら、彼女はオオカミの顔をそっと撫でた。
「もう二度と、あんな光景は見たくない」
その目の奥にはきっと今もルーナの面影が残り続けているのだろう。
代わりにはなれない。だが、寄り添うことは出来る。この先がたとえ茨の道であろうと、彼女の隣であれば苦痛など我慢できる。
終わらせよう。今度こそ。私たちの戦いを。




