8.この先のこと
ジズの羽根を口にしたその夜、アマリリスと共に眠っていた私はふと現の世界へと引き戻された。
外は美しい塵が降っていた。アマリリスは眠ったままだが、苦しそうに呻いている。もちろん、塵のせいではないはずだ。そうではなく悪夢に魘されているのだろう。
私はその身体に寄り添い、そっと抱きついた。心細さを埋めてやるためだという口実で、この身体もだいぶ抱きなれてきている。馴染みのある感触に浸っていると、心なしかアマリリスの吐息も穏やかになってきた。
安心して私も再び眠りに着こうとした。だが、そこへ、眠気を完全に阻害するニオイは伝わってきた。
到底、無視できるものではない。
私はすぐに起き上がり、影道へと入っていった。ニオイのする元へと近づいていくと、向こうもまた気づいたようで慌てて逃げていこうとする。だが、影道を通る人狼の足に敵うはずもない。逃がす前に追いついて、目の前に現れてみれば、思っていた通りの人物がそこにいた。
「まだ生きていたのか、ゴキブリめ」
「ひっ」
吐き捨てるように声をかけると、コックローチは怯えながら腰を抜かした。
会うのはシルワ以来だろうか。しばらく気配すら感じなかったから安心していたが、どうやらまだアマリリスのことを諦めていないらしい。
しつこいものだ。だが、それが花売りというものなのだろうか。何にせよ、この翅人もまた私にとってはもはや抹殺しなければならない対象だった。
だが、その気配を察したのか、コックローチは慌てふためいた様子で声をあげた。
「待ってください、カリス。話だけでも!」
「有益な情報でも仕入れたか? ならば聞いてやろう。お前の身体を引き裂く前にな」
「そんな殺生な。私はただ心配なだけなのです。昔から見守ってきたアマリリスが酷い目に遭わないかどうか」
「お前もまた酷い目に遭わせようとしている一人ではないか」
一歩近づくと、コックローチは息を呑んだ。だが、逃げたりはせずに、彼はその場にしゃがみ込んだ。
「心外ですね。私の仕事とリリウムの仕事、方向性が違うだけでどちらも残酷なことには変わりないのに」
開き直ったようなその言葉に、私もまた少しだけ冷静になった。
周囲には誰の気配もない。モルス教会の敷地の中ではあるが、真夜中の墓場であるためか見張りらしき気配すらない。誰も彼もが寝静まってしまったかのようだった。
その様子を確認した後で、私は頷いた。
「ああ、それには同意する」
じっとその顔を見つめ、念を押した。
「それでもリリウムの方がマシだと判断してのことだ。コックローチ。どうしてもお前を殺さなければ気が済まないというわけではない。アマリリスを諦めるならば、見逃してやってもいい」
「おやおや、聖女の従者らしからぬ言葉ですね」
震えつつもコックローチは笑ってみせた。
「アマリリス以外の〈赤い花〉がどうなろうと知った事ではないと?」
「その通りだ」
私もまた強く答えた。
「私はアマリリスを守るためにいるからね。聖女の資格があろうと他の〈赤い花〉のことまで面倒は見切れないさ。お前たちを撲滅するのは私の仕事ではない」
コックローチはその目でじっと私の顔を見つめていたが、やがて、呆れたようにため息を吐いた。
「やれやれ人狼様の考えていることはよく分かりませんね。けれど、つまらない事だ。ここで私がそんな約束をしたところで、あなたは簡単に信じたりはしないだろうに」
「ああ、だが、ここで逃げる背中に飛び掛かるような真似はしないと約束する。次にまた来た時の処罰がやや厳しいものになるくらいだ。生まれてきたことを後悔する程度にね」
「野蛮なお方だ」
皮肉交じりに言われ、私は怒りを鎮めた。
ここで言い合いをしたところで意味はない。追い払うためならば遠吠えをしてリリウムの者達を呼ぶことも可能だが、その前に出来ることがないわけでもない。
私は心をさらに落ち着けてから、彼に訊ねた。
「手ぶらで来たわけではあるまい」
「ええ、勿論。ですが、こちらも商売だ。言ったところで殺すとあなたはおっしゃった」
「それは取り消そう。興奮しすぎたかもしれない」
苛立ち気味に言うと、コックローチは不敵に笑った。
「その言葉、信じましょう」
「値段はいくらだ?」
「お値段は、私とアマリリスの命です」
「どういうことだ?」
「確証が欲しいのですよ。私を引き裂いたりしないという約束と、そしてアマリリスを死霊どもに奪われないという約束を」
その言葉を聞いて、私は鼻を利かせようとした。
翅人が何を考えているのか簡単に嗅ぎ取れれば有難いものだ。けれど、そう簡単なものであったら彼らが諜報員として影ながら役立つような世界はなかっただろう。花売りや情報屋にだってなれなかったはずだ。当然、コックローチが何を考えているかは私にはちっとも分からなかった。
意図の読めない不安を紛らわせつつ、私は彼に言った。
「約束しよう。この場では、お前を殺したりはしない。それに、約束するまでもない。元より私はアマリリスを奪われないように努めているつもりだ」
「それは心強い。たまに思い出すのですよ。あなたがアマリリスを殺そうと、恨もうと、必死になっていた頃の事を」
「私は忘れてしまったらしい……さて、無駄口を叩いている暇はないぞ。値段分の情報を教えろ」
「ええ、それではお話しましょう。〈死霊の王〉の情報を」
こほんと咳払いをすると、コックローチは語りだした。
それは、リリウムの翅人戦士たちよりも自由かつ広い視野で見つめた死霊たちの様子のことだった。ゲネシスが何処にいるのか、そしてどう過ごしているのか、どうやらコックローチはその目で見つめてきたという。
嘘か真かそれは分からない。だが、彼ははっきりと言った。
「ゲネシスは今、カンパニュラの外れにいます。木霊の姿をした死霊たちの集落で身を休めているようです。今もまだあなたのつけた傷が痛むよう。だが、超人となった彼がそこまで苦しむのは何故でしょうね。サファイアは焦っている様子。子飼いの翅人情報屋を酷使し、あなた方の情報を探ってはやきもきしていましたよ」
「カンパニュラ……確かなんだろうな?」
「私の情報を信用できないならば、それでも良いのです。ただ約束をいただいた以上は全て話さなくては」
そう断ってから、コックローチは話を続けた。
「彼らは傷を癒し次第、ローザへと旅立つはずだ。けれど、ただ旅立つだけではあなた方に追いつかれてしまう。それゆえにサファイアはもう一つの計画を進めている。噂は聞いたかな。現在、ディエンテ・デ・レオンの周辺が荒れている。情報が交差し、疑心暗鬼が深まり、だいぶ悪い流れになっているようだ。兵の数は互いに減っていき、憎悪が憎悪を生む始末。どうもその裏には死霊たちの暗躍があるようでした」
「やはり、そちらもサファイアたちが……」
「ええ、あなた方をサポートできる人数を減らしていくつもりなのでしょう。現に、リリウムの戦士の数は瞬く間に減っております。そして、減った者のいくらかは新しい死霊として蘇る。手駒を集め、あなた方を足止めし、その隙にゲネシスに恨みを晴らさせようとしているのです」
ヴァシリーサ、だったか。
ローザ国のどこかにある霧の城でひっそりと暮らす魔女。彼女がミールを奪ってしまったことが、全ての始まりでもあった。元凶の魔女であるが、同時に、重要な砦でもある。ゲネシスが彼女に恨みを晴らすことをサファイアは望んでいる。そうすることで、死霊たちにとって何か都合の良い状況が生まれるということだ。
その前に接触することを恐れているならば、それを狙うべきということなのだろう。私はそう理解しつつも、コックローチに訊ねた。
「恨みを晴らさせたら、彼らはどうなる。本物の魔王にでもなってしまうのか?」
「死霊の秘術についてはさほど詳しくはないのですが、どうやらかなり有利な流れになるようですね。ゲネシスがヴァシリーサをその手で殺すことで、縁で結ばれるサファイアにも、そしてゲネシスにも強い魔力が宿ると信じられているようです。そうなれば苦戦するのは必至でしょうね」
「その前に止めるのが最善、ということか」
そこまで噛み砕きつつも、私は改めて唸った。
カンパニュラにいる。それを信じて、リリウムの者たちに告げるかどうか。少しばかり迷っていると、ふとコックローチが私の背後へと視線を向けた。
「聞きたいことがあるならば、あなたもどうぞ。ただし、お代はいただきますよ」
明らかに私に対してではない。驚いて振り向くと、そこには見知った顔があった。闇夜にひっそりと佇むのは、いつも息を潜めて諜報を繰り返している翅人戦士のパピヨンだった。
相変わらずニオイも気配もしなかった。だが、彼女は驚く私を余所に、コックローチの方に警戒の眼差しを向けていた。同族に向けるものとはとても思えない突き放すような視線は、これまでに淡く持っていた彼女のイメージに反する。だが、それを向けられたコックローチは平然としていた。
パピヨンは小さく息を吐いてから、私の方に向かって言った。
「その男の情報は、どうやら正しいようです」
「正しい……?」
訊ね返すと、パピヨンはすっと飛ぶように私の傍へと近づいてきた。いるのかいないのか心配になるようなふわふわとした存在感に、こちらも不安になってしまう。
「カリスさん。あなたを探しておりました。たった今、イグニスより情報が入ったのです。次に向かうべき場所がカンパニュラに決まったのだと」
「なるほど、そういうことか」
頷くと、パピヨンは改めてコックローチへと目を向けた。
「情報屋さん。花売りとして裁かれたくないならば、知っている情報をすべて吐き出してちょうだい。昔から言われているでしょう? 翅人には翅人。あなたの大切なお城だって、私が本気を出せば突き止められるかもしれない」
妖しく笑うパピヨンの言葉に、コックローチは苦笑を浮かべた。
誤魔化してはいるが、だいぶ動揺しているらしい。
「……仕方ありませんね。それでは思い出せる限りをお伝えしましょう」
そう言って、コックローチは目を光らせた。翅人特有の魔術だ。じっとしているように見えて、仲間と会話をしているらしい。実際に聞けるわけではないから実態など分からないが、言葉に頼らないやり取りは人狼にとっての遠吠えにも似ているかもしれない。
パピヨンはその魔術と向かい合うと、落ち着いた様子で頷いた。
「確かに受け取ったわ。貴重な情報に免じて、ここは見逃しましょう」
そう言ったかと思うと、パピヨンの姿は途端に半透明になっていった。消える直前、彼女は私を一瞥してそっと囁いた。
「アマリリスさんが起きて待っています。早く戻ってあげて」
「わかった」
頷いて彼女を見送ると、私はコックローチへと視線を向けた。
「そうそう」
こちらが何か言う前に、彼は口を開いた。
「これはただのおまけですけれどね、久しぶりに会った叔父が幼い頃のあなたを知っていたと言っていました」
「お前の叔父……?」
「毛皮商人に手を引かれ、何も知らずに連れていかれるところを目撃したのだと。その情報を人助けに飢える魔女アネモネに売ったことを懐かしそうに言っていたんです。カリスというその名前は、確か毛皮商人が呼んでいたとか」
私は沈黙した。動揺したという方が正しいかもしれない。その時にアネモネに救われたからこそ今がある。だが、その今に繋がる流れに、よりによってこのゴキブリの身内が深く関わっているとは。
動揺を振り払い、私は彼に言った。
「恩でも売りたいのか?」
「いえいえ。ただ、奇遇だと思っただけです。そして、疑問にも思った。カリス、あなたはその時のことをどれだけ覚えているのかと」
黙っていると、コックローチは言った。
「アネモネには子供が一人いました。私もその子供のことはよく知っていましてね。叔父ともども生まれた時から深く関わっていたのです。だから、今でもその子のことは、可愛い姪っ子たちのように心配してしまうのですよ」
「……もういい。聞きたくない」
反射的に私はそう言った。何故だか分からないが、それ以上知りたくなくなったのだ。アネモネに子供? 無意識に思い出そうとしても、靄がかかってしまう。思い出してはいけないと、身体が拒否反応を起こす。
苛立ち気味にため息を吐くと、コックローチは不適に笑って帽子をかぶり直した。
「そうですか。では、おまけはこの辺で。よい夜を」
そして彼は消えてしまった。
部屋に戻ると、パピヨンの言うとおりアマリリスが起きて待っていた。影道からひっそりと戻ったところで、彼女には悟られる。すんなりと私のいる場所を見抜くと、静かな声で呟いた。
「コックローチがいたのね」
「気づいたか」
「馴染みだけはあるもの。こちらから探した時だってあったし……」
ため息混じりにそう言うと、眠気の残っているらしいその眼で私を見つめ、訊ねてきた。
「良い情報は手に入った?」
「ああ、既にパピヨンにも伝わっている。次の目的地はカンパニュラになるだろう」
「そう……」
呟いてアマリリスはしばし何かを考える。その横顔を見つめながら、私はふとコックローチの残したおまけを思い出した。
深追いしてはならない。そんな思考の制限がかかるなか、それでも私は半ば無意識に、アマリリスに訊ねていた。
「アマリリス……お前は子供の頃のこと──養母のもとに引き取られる前のことを、どれだけ覚えている?」
不審そうに彼女はこちらを窺ってきた。だが、しばし悩んだかと思うと、あっさりと答えてくれた。
「あんまり覚えていないの。ごめんなさい」
俯く彼女を見つめ、私はその心を探ろうとした。本当だろうか。そんな疑いが浮かんでくる。
しかし、たとえ嘘であろうと、いまここで問いただしても望みの真実は語られないだろう。むしろ、アマリリスの心を傷つけるだけになりかねない。
知りたい。だが、今はその時でない。私はそう判断し、それ以上は追求しなかった。
「そうか……それならいいんだ」




