7.ジズの羽根
厳かな讃美歌の音色が少しだけ心細さをもたらしてくる。
歌っている聖歌隊は〈金の鶏〉ばかりだ。その美しい容姿が目に入ると、かつて守れなかった高貴な人の姿が頭をよぎった。
空巫女ネグラ。その魂は今も死霊に囚われたままだ。そして、彼女らを取り返すための準備は、いま、整おうとしている。
秘宝の授与はカエルムの都──モルス教会で行われていた。
この地でも死霊の襲撃で多くの犠牲者が出たと言うが、今となってはそれもだいぶ昔のことのよう。欠けた人員の穴を埋めるべくやってきたという人間の司教の祈りを受けながら、私は同じく祝福される秘宝の姿を目に焼き付けていた。
──〈ジズの羽根〉か。
すでに二つの秘宝を口にしてきた。
リヴァイアサン、そして、ベヒモス。いずれも助けてやれなかったが、心だけでも解放してやることはできた。
秘宝を口にした私には、彼らにも感情が備わっていること、確かにそこにいることを知ることができた。
そして、今日よりジズもまたそんな存在になる。
不当に奪われた三聖獣の力。それをまとって大罪を犯し続ける者を止めるのは聖女であり、私であるのだ。
私の手でゲネシスをただの人間に戻してやることができる。私の手で彼の安らかな眠りを導いてやることができる。私の手で愛しいアマリリスの勝利を手繰り寄せることができる。
失敗すれば死あるのみ。
けれど、ちっとも怖くなかった。
とっくの昔に私の生きる意味など殆んどなくなってしまったのだ。いまはアマリリスさえいてくれればいい。だから、アマリリスがこの世から去ってしまうときが来るならば、共に滅んだって構わない。
それを私は不幸だと感じられなかった。
司教の手で託された〈ジズの羽根〉を受け取ると、躊躇いもなく私はそれを口に運んだ。
立ち会っていたアマリリスは表情の読めぬ顔で私を見つめ、何も言わずにじっとしていた。そんな眼差しを受けながら、口の中で溶けていく秘宝の味を覚えながら、私は密かに幸福を感じていた。
ああ、これで、私はようやく対等になれる。
責任を果たせるのだと。
愛に破れ、力果たせず、ただ指をくわえて嘆いていることしか出来ない日々はもう終わる。あとは失ってはならない希望を守りながら、あの愛しくて憎らしい罪人の力を奪ってやるだけだ。
来たるべき時が来る。
その予感に震えているうちに、儀式はつつがなく終わりを迎えた。
解放された私たちは、モルス教会の中庭でひと時の休息を味わっていた。何もしなくていいという贅沢さに甘え、しばらくは考える事すら止めてオオカミの姿のまま、アマリリスと共に寛いでいた。
モルス教会の鐘がなると、微かに鳥の声が聞こえてきた。その声に耳を傾けてみれば、厳かだが優しく見守ってくるような感情が直接頭の中に流れ込んできた。
ジズだ。直感で分かった。全ての魔物たちを空から運んできたという彼。魔物たちの父祖であるその声は、やはり私も魔物であるせいかもっとも心地良いものだった。
歌うようなその声に聞き惚れていると、隣にいたアマリリスがそっと声をかけてきた。
「後悔はしていない?」
いつにもなくはっきりとしたその声に、私は顔をあげた。人の姿にはならずに、そのまま私は答えた。
「していないさ」
アマリリスはそんな私を見つめると、いつものようにそっと鼻の頭を撫でてきた。獣を可愛がるようなその動作は普通ならば不快なもののはずだが、慣れてしまったせいもあるだろう。アマリリスならば問題なく許せた。
しばしその手の温もりを味わっていると、彼女はそっと告げた。
「まるで主従の魔術のようね」
見上げると、アマリリスは私の頬を手で包みながら目を合わせてきた。
「あなたと一緒にいると、たまに怖くなるの。だってあまりにも居心地がいいから。幸せな気分になれるから。だから、あなたが去ってしまった時を思うと怖くなる」
「そう恐れるな」
私はそう言った。
「心配せずとも私はお前を一人にはしない。もしも不安ならば、私の首に鎖をつけたっていいのだぞ」
安易なひと言のようでいて、そうではない。
私には覚悟があった。もっとも覚悟もなく秘宝を口にしたりはしない。聖女となったアマリリスと運命を共にするだけの気持ちがあるからこそ、私はここにいる。だが、それだけにはとどまらなかった。私には別の覚悟もあった。
主従の魔術。
これに囚われることは、魔物にとって何よりも恐ろしい事かも知れない。魔女が半分人でありながら侮ってはならない理由もまたこれだった。世間に恐れられた偉大な吸血鬼が、この魔術によってあっさりと魔女の支配下に置かれ、こき使われるという事もある。そのことを私は恐怖としか感じていなかった。
ところが、今は違う。
私はすでにアマリリスとより深く結ばれたくなっていた。
聖女と共に死ぬ運命というものも決して薄くはない縁だろう。けれど、私はもっと確かで、分かりやすいものを求めていたのだ。
主従の魔術はそういった意味で理想でもあった。
かつてのルーナの代わりにはなれないだろう。それでも、ルーナへの恋しさを少しでも和らげられる存在になるためには……と。
けれど、アマリリスは静かに首を振ったのだった。 あまりにも釣れない表情で。
「いいえ」
彼女は優しく私の頭を撫でて、諭すように言った。
「このままでいましょう。あなたにはこのままでいて欲しい」
「何故だ?」
少しばかり浮かんだ残念な気持ちを隠して訊ねてみると、アマリリスは寂しそうに答えてくれた。
「私がそうしたいから」
そして、アマリリスは微笑みを浮かべた。
「今でもたまに考えることがあるの。ルーナはどんな気持ちで私に囚われていたのかしらって。あの子を手に入れたのは、自分の身が可愛いからだった。告げ口されたら困るから、ついでに手下にしてしまおうってそれだけだった。でも、主従の魔術であの子は大切な存在になって、あの子もまた私に懐いてくれた。けれど、それってどこまでが本当の気持ちだったのだろうって、どうしても考えてしまうの」
彼女の言葉に私は黙した。
ルーナの気持ちはルーナにしか分からない。彼女が死んでしまった今は、もう確かめようがないことだ。だが、私が覚えている限りでは、ルーナはアマリリスの下で幸せそうにしていた。あの笑みもまた魔術の影響であったのだと言われて、それを否定できるだけの根拠は見つからない。
だが、私は少しばかり考えてから、アマリリスを見上げた。
「ルーナはいつもお前の役に立ちたがっていた」
それは、アマリリスの目を盗んで、ルーナと何度か接触したときに間違いなく感じたことでもあった。
「それだけは確かに思えた」
見上げる私に視線を返すと、アマリリスは力なく笑った。
「優しいのね、カリス」
そして、軽くその鼻を私のオオカミの鼻にくっつけてから、言った。
「それなら余計にあの魔術は使えないわ」
「ルーナに使ったことを、後悔しているのか?」
小声で訊ねてみると、アマリリスは頷いた。
「ええ、とても」
その返答に、私は再び黙した。
彼女の傷を埋めてやることは容易ではない。そもそも埋められるかどうかも分からないのだから。どうあがいたって私はルーナにはなれない。桃花にもなれない。私は私として、私のまま、隣に居続けてやることが最良の選択なのだろう。
そう思うと少しはすっきりとした。強い手綱などなくとも、私は聖女の傍を離れたりはしない。そこは自分を信じたいところだった。
「それに未来の事は分からないもの」
アマリリスは言った。
「もしも私が聖女でなくなって、指輪を剥奪されたらって思うと怖いの」
私は黙したまま耳を傾けた。
もしも彼女が聖女でなくなったら。そのたとえに嫌な寒気を感じてしまった。今の私たちの関係は安定しているようで非常に脆い。リリウムに協力しているからこそ成り立っている。私たちを繋いでいるのは聖女の指輪だ。その指輪が奪われたら、アマリリスは私がかつて憎んだ人狼殺しの魔女に戻ってしまうわけだ。
そうなったら、私はどうしよう。アマリリスとまた以前のような関係に戻ってしまったならば。
「考えたくもない事だけれど、その時は私から逃げ続けて欲しいの」
私の思考を読んだかのように彼女はそう言った。
リリウムの者達は念を押していた。秘宝を口にするということは、後戻りできないということだ。もしも、聖女であるアマリリスに人狼殺しの性が再び目覚めたとしても、指輪を剥奪されて聖女でないとされたとしても、一度結ばれた絆は解けないということなのだろう。
命を狙われることになったとしても、アマリリスを殺せば私も死ぬ。互いに生き残るには、彼女から一方的に逃げ続けるしかない。かつての地獄の日々のように。
そうなったら、私はどのような暮らしをするのだろう。
考えようとしたけれど、うまく考えられなかった。そもそも、忘れかけている。アマリリスと距離を取りながら命を狙っていた日々の記憶がすっかり薄れている。
――考えても仕方のない事だ。
私はそう結論付けて、心を落ち着けた。
黙って耳を澄ませていると、ジズの甲高い声が再び聞こえてきた。
彼の言葉が今は少しだけ分かる。 恐らく彼の子孫である鳥人たちもまた同じように理解しているのだろうし、アマリリスにも聞こえているだろう。
彼は追悼している。流れてしまった血の主たちのために。
大切なものを失った生きとし生ける者たちのために。そして、今なお、生と死の境で悩み続けている者――死霊たちのために。
「聞こえる?」
アマリリスに小さく問われ、私は頷いた。
「ジズの声だな」
すると、彼女は少しだけホッとしたように笑った。
「死霊を憐れんでいるようね」
「聖獣の考えというものはよく分からないな」
私はそう言ったが、アマリリスは沈黙した。
表情から察するに少しは彼女にも理解できるのだろう。その頭に浮かんでいるのは、かつての義姉妹の姿をした桃花であろうか。だとしたら多少の呆れと嫉妬が心に浮かぶ。あれはソロルなのにという想いよりも、嫉妬の方が今は大きいかもしれない。
けれど、と、私はふと今も何処かで傷を癒しているのだろう男のことを考えた。
私だってアマリリスと同じだ。どんなに憎もうとも、敵視しようとも、気づけば私はかつて愛した人の姿を思い描いていた。重罪を犯した彼を受け入れる場所はもはや人間の暮らす世界にはないだろう。そのくらい、彼は殺し過ぎた。殺した以上に救えと言われたあの頃がひたすら懐かしくなる。
そんな彼であっても、リリウムの誰からも恨まれているような彼であっても、ジズは、ベヒモスは、リヴァイアサンは、少しでも憐れんでくれるのだろうか。
罪深いことかもしれないが、心の何処かではそうであってほしいと感じてしまった。
「桃花……」
アマリリスがその名を呟いた。
切なげなその声はいつもより妙に幼く感じて、私は仔狼でもあやすようにそっと寄り添った。すると、アマリリスの方もまた身を寄せてきた。
吐息と鼓動を感じるほどの距離でそのままじっとしていると、彼女はごく小さな声で囁いてきた。
「最近、似たような夢をよく見るの。桃花を無理に誘って家出をした日の思い出を、死霊に捕まった彼女が食べられていくところを見ていることしか出来なかったあの日の思い出を、紛れもない悪夢として。私のせいで、あの子は死んでしまった。私のせいで、あの子はソロルになってしまったのだって……」
「お前のせいじゃないよ」
私は静かにそう言い聞かせた。
「食い殺したソロルが悪いんだ。お前のせいじゃない」
アマリリスは頷きつつも、浮かない顔をしたままだった。こういう時はとことん寄り添い続けることしかできない。彼女にとっても語らせた方が楽なのかもしれない。
私はそう思い、耳を傾け続けた。
「夢の中で桃花は言うの。あなたのせいだって。責任を感じるのなら、死霊の女王の貢ぎ物になれって。そうすれば許してあげるって。おかしいわよね、でも、夢の中の私はそんな言葉に流されそうになるの。夢の終わりはだいたい一緒。サファイアの腕に抱かれて、とても苦しい思いをして……。夢魔も逃げ出すような暗い夢なのよ」
自分で茶化すようなアマリリスの声に、私は小さく笑った。
そういえば、思い出すのはアマリリスとの眠りの時間の事だ。かつてはリリウムの戦士でありながら、つまみ食いの悪癖がついた夢魔の気配が近かった。うっかり眠りこんでしまった時に私もやられたことがあるし、ふと起きてみれば隣で寝ていたアマリリスが味見をされていたこともある。いちいち報告はしなかったが見かける度に追い払った。夢魔の仲間がいると必ずと言っていいほど一人はいる。
だが、思えばここ最近は、アマリリスの夢を食べたがる者の気配がないような気がした。それだけ、悪い夢が続いているのだろうか。
私はアマリリスを見上げ、そっと告げた。
「怖い夢を見て心細い時は言え。添い寝をすれば少しは紛れるだろうから」
すると、アマリリスは私を見つめ、安堵しきったような笑みを浮かべて抱きついてきた。花のような香りに包まれて、私もまた少しだけ安心感に包まれた。




