6.鳥王の奪還
神々しい猛禽の声が響いたかと思えば、空から光が差し込んできた。
苦しんでいたジズの姿が赤いオーラに包まれる。桃花はそれを忌々しそうに見つめていた。どうやら近づくことは出来ないらしい。
呼び寄せられるままにアマリリスはジズに近づいていく。これまでと同じだ。だが、受け取って終わりではない。彼女が戻ってくるまでの間に、出来ることが一つある。
影の中にそっと身を潜め、私は桃花に近寄った。
アマリリスに気を取られている今が最大の機会だった。案の定、私の接近に桃花はすぐには気づかなかった。あとはその忌々しい体を引き裂き、哀れな少女の魂を解放してやるだけだ。
襲い掛かると桃花はか弱い少女のような悲鳴をあげた。不意打ちとなった一撃は、しかし、すんでの所で避けられた。だが、逃がしはしない。逃がすものか。バランスを崩して転倒した今を逃す手はない。
だがそこへ、白い影が飛び込んできた。肌を刺すような異様な殺気が真っ先に伝わってきて、私はどうにかその一撃を避けることが出来た。空より矢のように飛び込んできたそれは、思っていた通りの人物だった。
――ジブリール……。
桃花を庇うように立ち尽くす彼女の目は、かつて共に戦った友の目によく似ている。それもそうだ。ソロルだ、死霊だといくら言ったところで、その魂はジブリールそのものなのだから。それでも、認めてはならない。認めて良いはずがない。
構える私を冷めた目で見つめ、ジブリールは槍を構えた。そんな彼女の後ろで、桃花が立ち上がる。アマリリスの元へ行くつもりだろう。だが、そうはさせまいと動こうにも、ジブリールの妨害は激しかった。
「くそ……」
狙ってくる強烈な一撃が、礼拝堂の床を傷めつける。一撃でも食らえば、ただでは済まないだろう。
「アマリリス!」
吠えながら、それでもどうにか彼女の元へ向かおうとしたその時、遅れて空から別の鳥人がやって来た。また死霊だろうかと不安になったのも束の間、その姿に今度は安堵した。
ウリアだ。確認できた直後、ジブリール目掛けてやはり強烈な一撃が繰り出された。しかし、その一撃はあっさりとかわされた。一瞥もせずに、ジブリールはひらりと身をかわし、続く追撃も槍で防いでしまった。
「相変わらず遅い。変わらないな、ウリア」
懐かしむように呟くその姿に、ウリアが羽毛を逆立たせた。当然だ。だって、その姿はまるで、生きているかのようなのだから。
恐怖心を跳ねのけるように雄叫びを上げ、ウリアはジブリールの身体を大槍で弾いた。そして、荒々しい目で彼女を睨みつけてから、押し殺した声で言ったのだった。
「君が本当にジブリールなのだとしても、私はこの槍を手放すことが出来ない」
淡々とした声だ。だが、物悲しくも聞こえる。
「子どもの頃から、君に憧れていた。生まれながらの鳥王。リリウムの傘下になったところで、その神々しさの全てが消えるわけじゃない。ジブリール。君がベヒモスの領地で死んだと聞かされた時、どれだけ辛かっただろう。共に戦えなかったことを、助けられなかったことを、そして君が父祖なる空に生きて戻ってこられなかったことを、私は恨みもした。ああ、そんな私の悔恨もまた、君を復活させてしまう理由となったのかもしれない」
「……ウリア」
慈しむように、ジブリールはその名を呼んだ。
「数多の兵を率いるお前は、まさに戦いの天使のようだった。先に散ったミケーレのように、お前もまた神々しかった。……ああ、懐かしい。同じ空の下……輝かしい光の下で、共に暮らしていた頃が――」
そこでジブリールは頭を抱えた。
白い羽根が散り、その立派な体が揺れる。先程まで殺気に満ち溢れていたはずのその目が、心なしかだいぶ穏やかなものに戻っている気がした。私の覚えているジブリールのイメージよりもだいぶ柔らかい。しかし、それもまた彼女自身の魂と記憶が反映された姿なのだろう。
やはり死霊はただ死者を乗っ取っているだけではないのだろうか。
単になり切っているだけではないのだろうか。
なんとなくだが、そんな気がしてしまった。
「ジブリール!」
と、そこへ、甲高い声が響いた。
桃花だ。気づけば彼女はジズの光に近い場所まで移動していた。
だが、それ以上は近づけないらしい。恐れているのか震えている。そして光が段々と治まってくると、少しずつ今の私にとって最も愛しい人の姿が浮かび上がってきた。
ぞっとするくらい神々しい鳥の姿が一瞬だけ見えた。だが、私の視線はその前に立つアマリリスから離れなかった。
秘宝を受け取ったのだ。理解すると同時に、私は再び走り出した。
それとほぼ同時に、背後から殺気を感じた。ジブリールに違いない。走り出した私を止めるべく、追いかけてきたのだろう。速さでは不利だ。種族そのものが違う。影道に飛び込めたとしても、多少の傷は負うことになるだろう。そう覚悟を決めて飛び込んだのだが、予想に反してジブリールの攻撃が当たる事はなかった。
振り返る暇などない。当たらなかったのならこれ幸いと私はそのままアマリリスの足元へと迫った。影道さえ使えば、地上にいる桃花も怖くはない。
何処か恍惚とした聖女の影に溶け込んでから、私は影道から抜け出してアマリリスの前で身構えた。だが、桃花が襲ってくることもなかった。その目はアマリリスではなく、私たちから逸れた場所へと向いていた。私が先程までいた辺り。そこで、決着がついていたのだ。
「ウ……リア……」
呟くジブリールの声が礼拝堂に響いている。
雪のように白い羽根が散っている。
立派なその身体を背後から貫いているのは、ウリアの持っていた聖槍であった。貫通した刃は赤く染まっていた。
苦痛に満ちた顔だが、その目だけは異様に穏やかに見えた。
「やがて生まれる新しい王を……どうか導いておくれ」
そう言い残した直後、ジブリールの身体が端々から崩れていった。まるで空から降ってくる塵が風に攫われるように、その白く見事な身体は消えさっていった。その存在が完全になくなってしまうと、ウリアは聖槍を握り締めたまま項垂れた。
呪われたジズも、強敵も消えた。あとに残されたのは、たった一人。その一人を逃してなるものか。
「桃花」
聖女の声が沈黙の中に響く。
「おいで」
その冷たい声は、かつて私たち人狼にかつて向けられていたものにそっくりだった。
聖女としての役目を果たしたアマリリスの姿はどこか堂々としていて、今の彼女ならばどこまでもついて行けるような気さえした。
一方、桃花の周囲に仲間はいない。
あれほどいた死霊たちも今は息を潜めているのだろうか。誰も桃花を助けにこようとはしなかった。アマリリスはそんな桃花に詰め寄っていた。
かつての友、それも深い仲だった義姉妹。年若いまま死んでしまった彼女を優しく迎えるように、アマリリスは桃花に近づいていく。そして指輪の嵌る右手をそっと持ち上げた。
もたらせるのは安らかな破滅だろう。
死霊のそれは死ではなく解放である。
大切な人の大切な故人だ。私もまたいつでも助力できるように、アマリリスの傍に隠れ潜んだ。けれど、ぎりぎりまで手は出さないつもりだった。きっと、この娘のことだけは、自分の手できっちりと始末をつけたいだろうから。
だが、桃花を支配するこのソロルは、こんなことで諦めるような者ではなかった。
「いやだ」
そう呟いたかと思えば、彼女は目を光らせた。
「認めない、認めない、絶対に認めない!」
アマリリスが慌てて避ける。私もまた、とっさに影から飛び出してその場を離れた。直後、私たちのいた場所を桃花の魔術が襲った。
蝗の魔術だ。さほど詳しいわけではないが、アマリリスが使っているのを見たことがある。暴食、だっただろうか。恐らくあの場所にいれば、無数の蝗の幻影に身体を食いつくされていたのだろう。
奇跡的に無傷だったが、厄介な状況は解決していない。桃花は自棄になっている。死なば諸共という事なのだろう。そして、そんな心境の彼女が誰を真っ先に狙うかは、よく分かっていた。
「アマリリス」
不敵に笑いながら桃花はその眼差しを我が聖女へと向けた。
「あなただけでも……!」
その注意は完全に私を無視していた。ならば、そこを突くだけだ。影から飛び出して、私は桃花目掛けて飛び掛かった。本当ならばアマリリスに譲りたい。その小さな友人の身体を食い荒らせば、アマリリスは私を憎むだろうか。目の前で引き裂けば、それがソロルだと分かっていても、きっと辛い思いをするだろう。
だとしても、私は迷わなかった。
憎まれたとしても、連れていかれることだけは避けられるはずだから。
けれど、この牙が、そして爪が、可憐な花の姿をしたソロルの身体を捉えようかというその瞬間、突如として衝撃が私を襲った。激しい力で跳ね飛ばされ、私は速やかに地面へと潜った。こういう時はどうするべきか決めている。相手が何なのかを把握するよりも先に、アマリリスの影の中へと逃れるのだ。
その中から一息ついて、私は新たな敵を睨みつけた。
あの女――サファイアだ。
アマリリスが少しずつ後退する。恐ろしい青の眼差しから逃れるように。だが、そのサファイアの方もまた同じだった。失いかけた駒である桃花を抱き寄せて、少しずつ彼女もまた後退していた。
どうやら聖女の力を今は恐れているらしい。
「サファイア様……あたし……」
怯えた様子の桃花の声には答えず、サファイアはじっとアマリリスを見つめていた。
「これが聖女というものなのかしら。どう考えたって、そこまでしてリリウムに尽くす必要はないというのに」
「尽くしているわけじゃないわ」
アマリリスは答えた。
「ただあなた――愛するルーナを奪った者に従いたくないだけ」
「そのルーナだって、今のあたしならば再会させてあげられるのに」
少しだけアマリリスの心が動揺した気がした。
私はとっさに影の中から反論した。
「そんなものはまやかしだ。ルーナの皮を被ったソロルなどに代わりが務まるものか」
ただの願望に過ぎないと自分でも分かっていた。だが、アマリリスは何も言わなかった。ただ、サファイアだけを見つめている。その眼差しの奥に秘められた心がどんな色をしているのかは分からない。匂いは伝わってきた。我が聖女は明確な敵意を死霊の女王に向けていた。
とうとう何もいう事はなく、アマリリスはサファイアたちのいる場所を指さした。直後、何の反動もなく指先から放たれたのは蜘蛛の糸の魔術だった。サファイアはそれを見て少しだけ微笑むと、軽く首を振った。その途端、彼女の周辺のみアマリリスの魔術は見えない何かに弾かれてしまった。
「分かっているでしょう。無駄なことよ」
目を細めてサファイアは言う。
「でも、あなたの気持ちはよく分かった。褒めてあげましょう。自慢の花を一輪散らし、せっかく手に入れた鳥王も奪い返し、とうとう最後の聖獣も解放してしまった。天に神というものが本当にいるのなら、きっとあなたの勝利を望んでいるのでしょうね」
青い目を光らせながら、サファイアは怪しく笑った。
「けれど、そんなことはどうでもいい。こうなれば、運比べと行きましょう。あなた達の道のりはこの先もっと険しくなる。一体どこまで絶望せずにいられるか。愛するあの人が真の王になるまでに、どれだけの血が流れ、どれだけの魂が死霊に食われるのか。最後の最後までせいぜい楽しみましょう」
消える。
無駄だと分かっていたものの、私は迷わず走り出した。ほぼ同時に同じ空間にいたウリアが動いた。風を切りながら死霊たち目掛けて飛ぶ私と、同じく突進するウリア。防がれるのだとしても、どちらか一体は持っていけないか。
だが、やはり駄目だった。
望みは薄いと分かっていたものの、ウリアの攻撃も私の攻撃も何もいない空間を抉る。その感覚に虚しさが生まれた。またしても逃げられてしまった。桃花も一緒に。
すっきりとしない勝利の中で、逃した獲物の大きさに苦い思いを抱えていると、味方が遅れて礼拝堂になだれ込んできた。カルロスもいるし、グロリアもいる。アズライルやラミエルも一緒だ。人数は少し減っているような気がするが、死霊らしきものはついて来ていない。敵はもう何処にもいないようだった。
終わった。
静かにそれを実感しながら、私はアマリリスの傍へと戻った。狼の姿のまま身を寄せてみると、彼女はそっと私の鼻先をその手で撫でてきた。
「アマリリスさん」
ふとそこへ声がかかった。ウリアだ。アマリリスは頷くと、その手に隠し持っていたものを差し出した。赤く美しい輝きが見える。これまで私が口にしてきたものと同じような形をしている紅玉のような欠片が。
あれこそがゲネシスに罰を受けさせる鍵となる秘宝。ジズの羽根と呼ばれるそれを目に焼き付けながら、私は早くも最後の戦いを予感していた。




