5.死人の悲鳴
アマリリスの制止する声が聞こえ、私は自分が飛び出していることに気づいた。全く愚かな真似だ。鳥人戦士――それも、鳥王の子孫の肉体を持つ相手に飛び掛かろうというのだから。それでも立ち止まることなんて出来なかった。
悔しい。憎らしい。そんな思いが先行した。脳裏に蘇るのは傷だらけになって戦い、死んでいった在りし日のジブリールだった。ネグラ亡き後も彼女はシルワを守ろうとした。最期まで投げ出さなかった。それなのに。
きっと怖かったのだろう。
訳も分からずフラーテルになってしまっていたフィリップとは違う。まるで自分の意志でソロルになっているように振舞うジブリールのことが怖かった。死人が自ら望んで、死霊となっているなどという可能性を微塵であっても感じたくはなかったのだ。
だから、私は飛び掛かった。勝ち目がないなんて全く考える余裕すらないままに。
全く愚かな真似だ。ジブリールは余裕をもって聖槍を構える。真正面から飛び掛かる人狼ごときを貫くなど容易いことだろう。
「カリス!」
アマリリスの悲鳴がこだました直後、聖槍は目にもとまらぬ速さで突き出された。
だが、その切っ先が私の身体を貫くことはなかった。代わりにもたらされたのは鈍い感触。強い力に突き飛ばされた私は、そのまま宙を跳ね、アマリリスのいる場所に戻されてしまった。どうにか着地をしてみれば、ジブリールの槍を止める者の姿が見えた。
ウリアだ。
「アマリリスさん!」
背後から声がする。どうやら味方たちが駆けつけてきたらしい。グロリアとカルロスの姿が見え、少しだけ緊張が解れた。アズライルやラミエル他、鳥人戦士たちも複数駆けつけ、ウリアの援護に回る。その動揺を消すように、彼らは猛々しい猛禽の声をあげた。
「ジブリール……」
ウリアの呟きに、ジブリールはその目に薄っすらとした笑みを浮かべた。直後、彼女は背後に庇うルージェナに向かって言った。
「ここは我々に任せてほしい」
ルージェナは無言でうなずき、そのまま地面へと消え失せてしまった。
取り逃がしてしまった。だが、いま重要なのはそこではない。ジブリールを滅ぼす必要なんてないのだ。ここでの目的は一つだけなのだから。
ジブリールもそれは分かっているのだろう。一払いでウリアを突き飛ばすと、両腕の白い翼を広げて威嚇してきた。
「かつて共に戦ったリリウムの戦士たちよ。私に剣を向けるつもりならば、覚悟するがいい。手を抜いたりはしない。全員、我々の仲間にしてやろう」
その声が響くと、周囲の地面から鳥人戦士が現れた。全員が死霊だ。死んで間もない者もいれば、おそらく遥か昔に絶命した者もいるのだろう。ジブリールの声に引き寄せられるように蘇る。
ここで死んでいった戦士がどれだけいるだろう。誰もが天寿を全うできるわけじゃない。若くして落命する者は当然ながらいる。病死にせよ、事故死にせよ。そんな鳥人戦士のほぼ全てが死霊になれるというのならば果てしない数となるだろう。
それでも、絶望する余裕すら私たちにはなかった。
「王の器を穢す悪魔め。この剣で灰にしてやろう」
ウリアが荒々しく声をあげると、味方の鳥人戦士たちがそれに賛同した。
そうして、生者と死者の乱闘は始まった。カルロスがそれを注意深く見据え、そっとアマリリスに告げた。
「今のうちにジズのもとへ」
肯く彼女の影に忍び込み、私は周囲に気を配った。
数名の戦士たちがアマリリスに続いて大聖堂を目指し始める。だが、それを死霊たちが許すはずもない。次々に地面から現れては、アマリリスの足を止めようとした。だが、他の戦士は止められても、アマリリスは止められなかった。彼女が魔術を使って生み出すのは通り道だけ。周囲で他の戦士たちが足止めを食らおうと、苦戦しようと、彼女は気にせず走り続けた。
やがて、聖山の参道をだいぶ登る頃になると、アマリリスの代わりに足止めを食らう戦士すらいなくなってしまった。彼らの代わりに私は影という影を行き来して、立ちふさがる死霊たちを薙ぎ払い、アマリリスの通り道を作り続けた。
誰もついて来られなくたっていい。だが、私だけはついて行かないと。そんな思いで私は次々に死霊を突き飛ばしては、アマリリスの影へと戻ることを繰り返していた。
死霊たちの抵抗は激しかった。それでも、アマリリスに指一本触れさせたりはしなかった。おかげで彼女は無事に参道を登りきり、沈黙のうちに佇むカエルム大聖堂の入り口に到達した。それでも、何処から死霊が現れるかは分からない。だからだろう。アマリリスはひと休みすらせずに、開けっ放しの扉に飛び込んでいった。
ここまで来ればジズの声もはっきりと聞こえるのかもしれない。覚えはあってもさほど詳しいわけじゃないはずの大聖堂の中を迷いなく進んでいく。死霊は聖堂の中にもいる。鳥人戦士だけでなく、ネグラたち空巫女の一族である〈金の鶏〉の姿をした者たちも多かった。その一人ひとりをなぎ倒していくたびに、私はふとその顔に見覚えがないか考えてしまう自分に気づいた。
行く手を阻む死霊たちは、誰もがここにいた者達の魂を持っている。誰もがここで暮らし、ここで過ごし、それぞれの物語を終わらせてきた。そんな者達が、今や信仰してきたはずの世界を害す存在として蘇っている。
故人がそれを望んでいるなんて、どうして思えるだろう。
間違ってない。間違っているはずはない。私は何度も自分に言い聞かせながら、アマリリスについていった。アマリリスがいま何を思いながら走っているのかは分からない。息を切らすこともなく、一心不乱に進んでいく。向かう先はジズのもと――聖シエロ礼拝堂だ。ゲネシスが取り返しのつかない罪を犯した始まりの場所でもある。
拒んでいようといまいと、アマリリスの足は止まらない。重たい扉を共に開け、私たちはとうとうその場所へとたどり着いた。聖シエロ礼拝堂。足を踏み入れると、そこにはすでに先客がいた。
ボロボロになった大きな鳥の躯の前で、悼むように祈りを捧げる者が二人。片方は先ほど逃げていったルージェナ。そして、もう一人が振り返る。
桃花だ。
すぐさまアマリリスを庇ったが、当の本人は思いのほか堂々としていた。覚悟を決めていたのだろうか、気づいていたのだろうか。ともあれ、桃花の姿だけでアマリリスの意志が殺がれるようなことはないらしい。そのことにホッとしていると、桃花の愛らしい笑い声がその場に響いた。
「そっか。あなたはもう、昔のアマリリスじゃないんだ」
寂しそうな笑みは、まるで生きているかのよう。
「残念だけど、よく分かったよ。あんなに楽しく過ごしたのに、今はもう、人食い狼の方を選ぶんだね」
ルージェナが私の動きを見張っている。私もまた彼女たちの動きを注意深く見つめていた。アマリリスが動けずとも、真っ先に飛び出せるようにしておかないと。私たちが牽制し合っているのをよそに、桃花は語り掛け続けた。
「でもいいの。今は理解してもらえなくても、いずれは分かり合える。サファイア様が言っていたもの。ね、アマリリス。あたしたち〈赤い花〉はね、死霊と一つになって新しい世界の住人になるほうがいいんだよ。その方がずっと幸せだから」
子供のように笑う桃花を見つめ、アマリリスは静かに呟いた。
「桃花は死に、私は生きている。死者と生者は共には生きていけない。だから、分かり合えることはないわ」
突き放すようなその言葉に、桃花の笑みが少しだけ歪んだ。
「いいの」
自分に言い聞かせるように彼女は言った。
「今はそうでも、なってみれば分かる。全ての〈赤い花〉は、こうなるべきなんだって。リリウムに飼い馴らされることはない。その狼なんかよりも、あたしと一緒にサファイア様のもとで咲くべきなんだって」
だから、と、桃花はさり気なく動き出した。
アマリリスのことをしっかりと見つめ、その目の前で唱えるように告げた。
「ここを明け渡すわけにはいかない。そうでしょう、ジズ!」
直後、甲高い声が響いた。動かぬ躯となっていたジズの亡骸が、震えながら起き上がり始める。ボロボロの身体がどうにか繋がり、形を成していった。そこにはかつてあっただろう神聖さは皆無だ。いかつい鳥の姿になると、ジズはまたしても大声で鳴いた。その声を聴いて、アマリリスの表情が少しだけ歪む。
「相反する感情で引き裂かれそうになっているわ」
小声で呟く彼女に、私はそっと告げた。
「全力で守る。お前はジズのことだけを頭にいれるがいい」
「言われずともそのつもりよ」
素っ気なくアマリリスはそう言って、一歩踏み出した。
直後、私は飛び出した。ルージェナが動いたのを見逃さなかった。アマリリスを害すことがないように、その道を作りながら動き回る。ルージェナの魔術に襲われつつも、アマリリスの歩みを止めさせるようなことにはならなかった。
積極的に動いているのがルージェナだけだというのも助かるところだ。だが、桃花の動きを軽視していいはずがない。戦いながら、私は何度も桃花の様子を窺った。桃花はジズのすぐそばに立ち、アマリリスが近づいてくるのを待っていた。
アマリリスは吸い寄せられるように近づいていく。狙いはジズだ。その表情はしっかりしている。だが、大丈夫だろうか。ここずっと不安定な部分がみられる彼女のことだ。心配で仕方なかった。
しかし、そんな私の注意を引きつけるように、ルージェナは激しく攻めてきた。
「余所見をするとはいい度胸だ」
楽しそうに彼女は言う。戦うこと自体は娯楽なのか、あるいは、その果てに待っている殺戮を期待しているのか。
目を光らせるその姿は聖女の格好をしていても、ソロルに間違いない。それでも、魂は確かにルージェナなのだろうか。ソロルと一緒になっていても、ルージェナが生前に持っていた心が反映されているのだろうか。
狼の姿と人間の姿をうまく切り替えながら、私はルージェナの攻撃を避け続けた。隙を見せない彼女の相手は難しい。これまであらゆる敵を相手にしてきたという無意識の自負すら霞んでしまう。
ここぞという薙ぎ払いの一撃も、呆気なく避けられてしまった。
距離を取り、威嚇しながら、ルージェナは不敵に笑った。
「楽しい。面白い。一瞬で仕留められてくれない獲物は好き。長い時間、楽しめるから」
ジズの甲高い声が聞こえてくる。アマリリスは無事だろうか。桃花は何処にいる。今も、アマリリスを狙っているのではないか。傍についてやらないと。だが、その前にルージェナを排除するのが先だ。
睨みつけてやると、ルージェナはますます笑みを深めた。あれが聖女だったなんてどうして思える。魔女の性と信仰の間で苦しみ、もがいた彼女はもうどこにもいないのだ。
「汚らわしいソロル。いかに聖女気取りでいようと、お前は死人の皮を被っているだけ。その記憶と心に触れ、本人であると思い込んでいるだけだ。哀れな死霊よ、いまに解放してやろう」
「哀れなのはそっちの方だ。教会に首輪をつけられて尻尾を振っているなんて。それほどあの娘が大事と見える。けれど、目を覚ませ。お前は人狼で、あれは魔女だ。何故、お前たちがリリウムの世界のために戦わねばならない」
「うるさい、黙れ!」
飛び掛かると、ルージェナはひらりと躱し、高らかに笑った。
「ああ、私もかつては同じだったよ」
笑ってはいるが、空虚な笑みだ。まるで、過去を悔いるように、まるで、ルージェナ本人かのように、ソロルは自嘲気味に笑っていた。
「お前のように、そして、あの娘のように、リリウムを心から信じていた。救われると信じ、正しくあらねばと信じ、耐えていた。それが正しいことだと、死後に救われるものだと――ああ、それなのに」
荒々しく息を吐く彼女の目から涙が流れている。笑いながら泣き、泣きながら怒っている、溢れるままに感情を吐き出そうとしている。その姿はとても演技には見えなかった。
死霊は亡者の魂を利用し、全てを演じているのだと私は信じている。だが、ルージェナは、そう見えなかった。
「それなのに、私は」
震えるその身体に宿るのは、強い恨みなのだろう。
「私は……ソロルになってしまった!」
来る。
直感だけが頼りだった。
アマリリスも得意とする蜘蛛の糸をどうにか避けたところで、今度は蜂の針が襲ってくる。全てを避けきるのは不可能だった。それでも、致命傷だけは避けないと。
長引く戦いは不利でしかない。意を決し、私はそのまま走り出した。速さを求め、無意識に狼の姿となり、放たれる矢になったかのようにルージェナに飛び掛かる。あらゆる魔術が私の命を刈り取ろうと襲い掛かってきた。それでも、それらに怯む余裕すらなかった。
ケダモノそのものになり切ったかのように、私はただ一点の的を見つめていた。いざという時の武器はやはり聖剣などではない。己の牙こそが最も使い慣れた武器だった。
柔らかな喉笛の感触も、それを噛み千切る感触も、全てが他人事のようだった。普通ならば直後に浴びるのは返り血だ。だが、本能に身を任せて食いちぎると同時に、哀れな亡霊の姿は塵となって消えてしまった。
四つ足で床を踏みしめ、ソロルの消えた場所を私は見つめていた。茫然としている場合ではない。それでも、彼女の遺した呪詛が、頭の中に木霊して消えなかった。
――私はソロルになってしまった。
その声を思い出せば思い出すほど、全身の毛が逆立った。ぞわぞわとした不安が身体を駆け巡り、心を保つことが難しい。
だが、その時、混乱する私の目を覚ますかのような声が、響き渡った。
甲高い、ジズの声だ。振り返ると、アマリリスの姿が見えた。指輪の嵌る右手が指し示すその先で、断罪は行われた。




