4.欲望の目覚め
最初に聖山登りをしたときほど、鳥人戦士たちに勢いはなかった。それでも、ウリアもアズライルも気持ちは変わっていない。ラミエルだってそうだ。そんな彼らに引っ張られるように、士気を取り戻す若い鳥人戦士も多かった。
問題は、中堅以上の戦士だった。とくにジブリールのことをよく知る戦士たちの衝撃は計り知れず、彼女に近ければ近いほど精神面での脆さが際立っているという。
いや、それとも、それが普通なのだろうか。私は少しだけ不安になった。見知った顔の相手と戦う。味方であったはずの者の姿をした何かと戦う。その正体が偽物だと分かっているはずなのに、もしかしたらという期待が捨てられない。その恐怖に初めて触れる鳥人たちの動揺は深いものがあるのかもしれない。
フィリップの時はここまでじゃなかった。だが、思えばあの時は彼が角人戦士たちの前に立ちはだかる事もなかったのだ。ただベヒモスの周囲を守らされていただけ。
しかし、ジブリールはどうだろう。白い天使のような姿をしたあのソロルは。
考えたって仕方ないはずなのに、私は何度も想像してしまった。どうして、ジブリールの姿をしたあのソロルは、あそこまで積極的に動けるのだろう、そのもやもやした気持ちは、出撃後――聖山登りをしようという時までも続いた。
「どうした?」
不意に声をかけられて、私は息を呑んだ。カルロスだ。
「別に何でもない」
すぐに答えると、彼は周囲を見張りつつ、咎めるように言った。
「気を緩めるな。この辺りはもう奴らの領域だぞ。偵察がよく殺される辺りが近い」
「分かった。すまない」
ひっそりと詫びて、私はそっと狼の姿をとってアマリリスの影へと潜んだ。こちらで待機している方がいい。そう判断したのだ。そんな私を見つめ、カルロスは納得したようにため息を吐くと、アマリリスの隣に移動した。
アマリリスはそんな私たちのやり取りなど目もくれず、ただ前へと進んでいる。その目に映るのはジズだけなのだろう。しかし、しばらく歩いているうちに、ふと、アマリリスの歩みが止まった。
その目が初めて大聖堂以外の場所へと向けられる。すぐに気づいて、私は彼女に声をかけた。
「アマリリス」
すると、彼女はそっと身を屈め一方に意識を集中させた。間違いない。何かがそこにいるのだ。カルロスもそれに気づき、黙ったまま歩みを止めた。
ニオイは分からない。区別がつかない。風向きのせいもあるかもしれないが、この辺りはソロルやフラーテルのニオイばかりだ。しかし、無視できないものがそこにいる。それは確かだった。
「アズライル」
前方を歩むアズライルをカルロスが止めた。全ては言わず、彼はアマリリスの様子だけを目配せで伝える。アズライルはそれに気づくと、表情を変えて指笛を鳴らした。空を進む鳥人戦士たちへの号令だった。
と、その時のことだ。
アズライルの指笛を聞いて動いた若手の鳥人戦士のひとりが、突然何者かに追撃されて鈍い悲鳴をあげたのだ。猟銃で撃たれた鷲のように彼は堕ち、地面に叩きつけられた。すぐに仲間が駆け寄ったが、その時はすでに絶命していた。狙いは正確なようだ。
態勢を整える間もなく、次の攻撃が来た。標的となったのは、身を隠していたはずの翅人戦士だった。
身を隠すのが得意なはずの翅人たちの術さえ破られる。それならばやはり、相手は魔術に長けた者――あるいはそれを支配している者の仕業だろう。
私はすぐに周囲を探った。何処かにいるはずだ。しかし、頼りの嗅覚も死霊の臭いのきついこの場所ではあまり役に立たなかった。
いったいどこだ。
神経をとがらせていると、私の潜んでいる影の主――アマリリスがふと一点を見つめた。
「いたわ」
そう言って、彼女は動き出した。
攻撃に驚いて身を屈めていた一段がついて来ることなど期待せずに、ただ陰に潜む私だけを連れて彼女は見つけ出した相手の元へと駆けていく。
「アマリリスさん!」
誰かが止めようと叫んだが、そこへさらなる追撃が襲った。
狙いはアマリリスだ。しかし、やはり魔術には魔女なのだろう。アマリリスはそれを正確に予測し、避けていた。そして、それだけでなく、まだ見えぬ相手が隠れているだろう場所に向かって、魔術を放った。
蛍の魔術だ。ふわりと飛ぶ光の弾がいくつも放たれ、目印のようにその場所を晒す。
あの場所か。私はそれを確認すると、そのまま影道を使って接近した。間違いは、なかった。岩陰に隠れていたのはアマリリスと同じような赤い服を着ている女だった。その顔には見覚えがある。
聖女ルージェナ。その魂を支配した、ソロルだ。
影道から飛び出して襲い掛かると、彼女の方もすぐに応戦してきた。きっと私の気配には気づいていただろう。それでも、魔女との戦い方などとっくに理解している。とくに〈赤い花〉のことは大体わかる。彼らが得意な魔術は、アマリリスが使うのと同じ、虫の魔術だ。その魔術でとっさに接近戦をするのは困難な場合が多い。
「覚悟しろ、ソロル!」
唸りながらその喉笛を噛み切ろうとしたが、ルージェナはそれを躱し、逃げようとした。しかし、逃がすわけにはいかない。すぐさま追撃を加えようとした……その時だった。ルージェナが振り向きざまに蝶の魔術を放ったのだ。
あっという間に蝶々の幻影に取り囲まれ、聖山とは全く違う空間へと放り込まれた。視界に映るのは蝶々とルージェナ、そして見たことのない、はたまた何処かで見たことのあるような長閑な田舎の風景だった。
ルージェナは私をじっと見つめている。その顔は、純朴な若い女性のものに違いなかった。何も言われなければ、何も知らなければ、彼女の事を私もただの人間だと思っただろう。あるいは、魔女と見抜いたに過ぎない。すでに死んでいると知らなければ、ソロルだなんて思いもしない。
しかし、違うのだ。彼女は遥か昔に死んだ。ルージェナ。殺人の魔女。もしもリリウムに拾われなければ、生まれながらの悪党として生き延びたのだろうか。かつての私のように、かつてのアマリリスのように、生まれ持った本能にただ従いながら、時折、その矛盾に苦しみながらも、今も生き延びていたかもしれない。だが、そうではなかった。ルージェナは死んだ。生き返ったように見えても違う。目の前にいるのはソロルであって、本人ではないのだ。ジブリールと同じように。
「覚悟しろ」
同情を押し殺して呟くと、ルージェナはそっと微笑んだ。と同時に、その姿がすっと霧のように消えてしまった。死霊の得意技だ。人の血を継がぬ魔物の目を盗み、逃げていくというもの。人間や魔族相手ならば捕食者となり得る彼らも、同族である生粋の魔物は恐ろしいがための、いわば弱き者の技だ。しかし、この度は少し違うようだ。鼻につく死の香りは遠ざかっていないし、蝶の幻影の魔術も効果は薄れない。きっと、私を確実に仕留める気でいるのだろう。
望むところだ。
身を屈め、神経を研ぎ澄ませて、私は周囲を探った。もっとも頼りになるのは、やはり嗅覚だが、今の私は奇妙なまでに頭が冴えていた。
これも聖女と運命を共にするという覚悟の賜物だろうか。今の私ならば、貧弱な人間の姿であっても死霊の位置が分かりそうだった。姿をもとに戻し、背中に負った聖剣を抜く。動くのは狼姿の方が楽だが、剣を扱うならば圧倒的にこちらの方がいい。握り締めながら、私は目を閉じた。
ここだ。
剣を振るうと、ルージェナの姿がほんの一瞬だけ見えた。攻撃を避け、退くとともに再び姿を消してしまった。どうやら的外れということもないらしい。だが、相手の方が有利なのは間違いない。息を整えながら、私はさらに探ろうとした。
しかし、そこへ、私の背後より割って入る者が現れた。二人きりだと思っていた空間に侵入してきたのは針だ。私の身体のすぐ横を放たれた矢のように通り過ぎ、姿の見えぬルージェナを襲う。すんでのところでルージェナはそれを同じ魔術で弾いた。私のすぐ前だった。思っていたよりも近かったらしい。その事実に思わず怯んでしまう。だが、そんな私を彼女は叱咤した。
「しっかりして。まだ相手は傷ついていないわ」
アマリリスだ。平然と隣にやってきて、私の目には映らない敵の姿を正確に睨みつける。死霊の隠れ蓑も、魔女には通用しないらしい。目晦ましが効かないならば、まやかしの聖女が本物に勝てることなどあるだろうか。
いまだその気配を正確に捉えられない私の横で、アマリリスはルージェナがいるらしき場所をじっと見据え、そして音もなく魔術を使った。無数の蝶がその手から生まれ、一か所に集う。その直後、わずかにだが輪郭がこの目にも見えた。
そこか。
すぐさま私は飛び出した。狙うはルージェナの首だ。
私の動きに気づき、ルージェナが動揺した。その途端、姿が浮かび上がり、その表情がはっきりと見えた。
こうしてみれば哀れな女にも見える。ゲネシスと出会うまでに食い殺してきた女たちお変わらない。リリウムの教えと魔女の性という矛盾の中で苦しみ悶えたことを想えば、同情だってしてしまう。
それでも、これだけははき違えてはならない。彼女はソロルであって、本物のルージェナではないのだ。
「サファイア様……!」
覚悟を決めたらしきその声が聞こえる。私の動きは止まらなかった。波に呑まれるように、大地に突き動かされるように、勢いは増すばかり。聖女を害するものを排除せねばという思いばかりが先行し、本来持っている人狼の能力以上の力がみなぎってくるようだった。ルージェナにとっては僅かな希望となり得る逃亡の機会すら、アマリリスの放った蝶の幻影たちが阻んでいる。そんな中で、勝敗は決まったもの同然だ。
私はそう思っていた。だが、動いた直後、それが間違いだったことを想い知らされた。
白く柔らかそうなその首を刎ねんと払った聖剣は、全く違う硬いものに阻まれた。視界は一瞬にして遮られ、まるでリリウムの者達が信じる天使のような純白の鳥の羽根が散らばった。
ジブリール。
鋭い目を見つめた時、その名前が頭に浮かんだ。
偉大なる鳥王の末裔。世界にたった三人のレグルス聖戦士。
純白の鳥人の構える槍を前に、私は一瞬怯んでしまった。狙いはその向こう。だが、こうなっては引くしかない。いくら何でも本気の鳥人相手に一対一で叶うわけがない。
神経をとがらせながら、私はとっさに影道へと逃れた。反射的なその行動が幸いし、恐ろしい一撃からは逃れることが出来た。だが、ホッとしている暇などない。すぐさまアマリリスの影へと戻り、その白い死霊を睨みつける。
アマリリスはさほど動揺していないようだった。ジブリールも同じだ。槍を構え、ルージェナを庇ったまま、鳥の目を聖女へと向けた。
「アマリリスさん」
懐かしい声色と共にジブリールは嘴を開いた。
「久しぶりですね。事情は知っております。あれほど可愛がっていたルーナさんのこと、さぞ、お辛かったでしょう」
その名を口にされ、アマリリスがやや動揺を見せた。
私はそっと影から這い出て、アマリリスの足にオオカミの身体を寄せた。彼女と会話をさせることもない。そう判断し、睨みつけたまま私は唸った。
「ソロルめ。まんまとジブリールを陥れるとは。彼女を解放せよ。神聖を失い、他の神獣の聖域で命を懸けて戦った戦士の誇りをいつまで穢すつもりだ」
だが、ジブリールは憂鬱そうな表情で私を見つめてきた。
「カリス。共に戦ったお前とこのような形で再会するのは辛い。だが、これだけははっきりしておこう。私はジブリールだ。ソロルかもしれないが、確かに私なんだ」
「違う! ジブリールの記憶と魂を乗っ取っているだけだ!」
毛を逆立て、私は吠えた。自分でも訳が分からないくらい、腹が立った。カエルムで共に戦い、共にシルワへと逃れたあの日の記憶が蘇る。
最愛の人を失い、最期の時まで悪しき者を阻もうとしたジブリール。その白い体が血で汚れ、生まれ故郷ではない聖地のために戦って散った鳥王の末裔。あの時、共に戦い、最後まで諦めなかったのは、正義のためだったはずだ。しかし、そんな彼女は今、ソロルとなっている。
私は怖かった。ソロルが勝手にジブリールを騙っているのだと思いたかった。
しかし、そうではなかったら。正しくあろうと戦って死んだ彼女の魂の中に、ほんの少しだけ残されていた悔恨。その部分がソロルと結びついているのだとしたら。
死者の気持ちなど生者にはもう分からない。確かめようがない。恐らくこうだったはずというのは願望に過ぎない。私たちがソロルの主張を退けるのは何故か。怖いからではないのか。本当は死者が望んでいたとしたらと思いたくないからなのではないか。
――違う。
私はいっそう唸り、毛を逆立てた。
「ジブリールはそんな事、望んでいない!」
それは、戦い続ける私の勝手な願いでもあった。




