2.鳥人たちの動揺
他の死霊は何処にもいない。彼女一人だ。それでも、この状況はチャンスとはならなかった。私たちは皆、その場から動けなくなってしまった。ジブリール。その姿に釘付けになったまま、時が止まったように動けなくなっていた。
ジズに少し似た目でジブリールは私たちを見つめ、そしてそのくちばしを開いた。
「またこうして会ってしまうことになるなんてね」
そして、彼女は武器を構えた。
やる気だ。私たちと敵対する気だ。かつて共に戦ったものがこうして敵として現れる。そんな光景はもうさんざん見慣れてきた。それでも、今回はさらに緊張が高まった。
鳥人戦士たちは動揺を深めている。自分たちを取りまとめていたものが死霊になってしまうなんて誰が信じられるだろう。事前に聞いていたとしても、こうして目の当たりにすれば狼狽えても仕方のないことだった。
だが、それだけでない。
私はジブリールの姿に恐怖すら抱いていた。フィリップだって蘇った。角人でありながら、死霊となって私たちの前に立ちはだかったのだ。けれど、あの時とは何かが違う。何か、とても大切な部分が違うように感じたのだ。
「……迷いがない」
アマリリスが小さく呟いた。
「フィリップの時とは違う。ジブリールには迷いがない。まるで、本人があの姿を望んだかのよう。ジズの声も遠い。今までと違う……私を完全に拒んでいるみたい」
茫然とする彼女に寄り添い、私は前方を見据えた。
アマリリスの言葉は馬鹿に出来ない。聖女となった時はともかく、ルーナを失って以降の彼女は度々放心しているかのような時がある。
以前のように揶揄い合える時もあるが、聖獣たちの声には敏感になったものだし、現実離れした言動が目立つようになってきた。
指輪のせいなのか、はたまた、私の思い過ごしか。
けれど、彼女の言葉はただの戯言でもなくて、非常に鋭い勘のようなものにも思える。そしてそれは、私の勘とも通ずるものだった。
このジブリールは何かが違う。無理矢理復活させられたわけではないのだとしたら、その脅威はフィリップの比ではないだろう。
「ジブリール。目を覚ませ」
槍を構えてウリアが言った。
「君は死んだのだ。カエルム唯一のレグルス聖戦士として立派な最期だったと。全てを見届けた翅人戦士からイグニスにも報告があったのだ。さすがは古き時代の王の末裔だったと。その名誉を穢すことはない。いますぐに安らかに眠らねば、再び空巫女様とお会いする機会も永久に訪れないぞ。分かるだろう、ジブリール。君は眠らねばならないのだ」
優しく諭すような口調だ。それでも、彼の言葉は今のジブリールにはちっとも響かない。
当然だろう。彼女は死霊だ。ソロルと成り果てた以上、説得が効くような相手ではない。それでも、ウリアは諦めきれないようだった。
ジブリールはそっと目を細めた。
「ウリア。久しいな。立場が変わっても、お前はちっとも変わらない。けれど、私は違う。変わってしまった。もう昔のような、私には戻れない」
「ジブリール様」
アズライルたちが声をかけるも、ジブリールは軽く白い翼を動かすばかりだった。その表情は変わらず、目は何処か遠くを見つめているようだ。その姿は、ジブリールの姿に化けているだけだと単純に言い切れるようなものではなかった。
まるで、本当に、ジブリールがソロルでありたがっているかのような――。
「ジズは言っている。私の好きなようにしていいと」
ジブリールは言った。
「『古の王がそれを望むのならば、それもまた時代の風』と。ならば、好きにさせてもらおう。私は望む。このまま眠りたくない。ここで待ち続けたい。死霊の女王がもう二度と死ぬことのない空巫女様を生み出してくれる日をここで待ち続けたいのだ」
その言葉に、ウリアが絶句する。
私も同じだった。あれほど傷つきながら共に戦った彼女の姿が頭をよぎり、胸が痛くなった。
違う。こんな人ではなかった。いくらそう訴えても、ジブリールの姿をしたソロルの態度が変わるわけではない。
彼女の姿が私は怖かった。ソロルが化けていると単純に思えたらどんなに良いか。だが、そう思えないほどの生々しさがそこにはあった。
やはりこれは、ジブリールの死後の魂が本当に望んでいることなのだろうか。ソロルはそれを汲み取っているだけなのだろうか。
そう思ってしまうほどの悲痛さがそこにあったのだ。
「邪魔をするというのならば、私はお前たちに武器を向ける。神のご加護など今の私にはないだろう。それでも、力の全てを失ったわけではない」
彼女の言葉が合図となり、カエルム大聖堂までの道より一斉に死霊たちが這い出してきた。
様々な種族の者が多いが、魔物の姿も珍しくない。すでに殺された者が、サファイアによって蘇ったのだろう。さらに悪い事に、現れたソロルやフラーテルの中には鳥人戦士たちもいた。
「偉大なるジズの末裔……それも鳥王が死霊になってしまうなんて……」
味方の鳥人戦士の一人がわなわなと震えた。死霊になるはずがないと信じていただけに、その衝撃は凄まじいものがあったのだろう。
だが、ショックを受けている場合ではない。このまま戦えばどうなるか、結果は目に見えていた。となれば、今すぐここを押し通るというのはあまりにも非現実的だった。
ウリアの命令は決まっていた。
「退避だ! いったん戻れ!」
帰り道も阻まれていないはずがない。それでも、カエルム大聖堂まで突き進むよりは幾らかマシだった。
味方に囲まれながら、私はアマリリスの傍を走った。いつどこから死霊が現れるかは分からない。地面から突然現れることがあるのが彼らだ。その力を封じる〈メイベルの心臓〉の欠片は都にあり、ここにはない。
それに、アマリリスはこの状況でもなお、大聖堂を諦めきれずに振り返ろうとする。ジズのことが気がかりなのだろう。だが、それならば尚更、彼女の側を離れられなかった。
都に戻るまでの間、私は必死になってアマリリスの背を押した。途中、ジブリールのものだろう猛禽の雄叫びが轟き、空が震える。
その度に、アマリリスは呼び止められたように立ち止まりそうになってしまうのだ。死霊たちも諦めず、襲い掛かろうとしてくる。
それでも、周囲を取り囲んでいた仲間たちのお陰もあり、どうにか無傷で戻ることが出来た。
だが、いかに傷はなかろうとも、気持ちは塞ぎこんだままだった。
ジブリール。私たちの戦友。死霊を率いるその姿がどうしても脳裏に焼き付いていた。
都に戻った後も、動揺は後を引いた。
ジブリールがソロルになっている。
その噂の広がりはとても防げるようなものではなかった。戦士たちの動揺は激しく、心から恐れている者も多い。その絶望は、鳥人の血を引くものは特に大きいものだったようだ。
ただでさえ魔物が死霊になるなんて前代未聞のことなのに、よりによって生まれながらの長であるはずの者が囚われてしまうなんて。
退避後、時折影に潜みながら、わたしはカエルムの人々の様子を注意深く見つめていた。人目を避けるように囁きあう鳥人たちの会話を盗み聞き、冷静にそれをかみ砕く。アマリリスに伝えるためでもあったが、正直のところあまり聞かせたくはない。それくらい、人々の様子は宜しくなかった。
ジブリールが自らソロルであろうとしている。彼女が花嫁の復活を求めている。その事実が、良くない影響を及ぼそうとしている気がしたのだ。
「ジズはどう思っているのだろう。死霊になったとはいえ、ジブリール様はジブリール様でないのだろうか」
声を潜めながら鳥人のカエルム市民は囁き合う。
「ジズがそれも時代だというならば、我々はどちらに従うべきなのか」
迷っていることは勿論、分かっている。
今でこそリリウムの民である彼らだが、もとはと言えば違う文化に生きる民族だったはず。ジズを崇め、巫女を捧げ、鳥王に従いながら暮らしていた彼らにとって、いざという時の指標はリリウムの教えなどではなかったのだろう。
それに、私もまた不安だった。
ジブリールの様子は明らかにシルワでのフィリップの時とは違う気がした。一体どうしてなのだろう。あれほど迷いもなく、はっきりと動けるということは、彼女の本来の魂もまたソロルにすっかり馴染んでいるということではないか。それが鳥王の真の願いだったならば、鳥人戦士たちはどう判断するのだろう。
身震いがして、私はそっとその場を去ってしまった。
アマリリスはあれから厳重に守られている。
ただでさえあのゴキブリ花売りの出現が怖い所であるし、死霊はいつだって神出鬼没だ。〈メイベルの心臓〉の効果が強い場所にじっとしてもらいたいのがリリウム教会の願いであったし、その要請を無視できるほどの元気は今のアマリリスにはないらしい。彼女はいつも不安そうにしていた。そのせいだろう、部屋に戻るなり、目ざとく私の気配を感じ取り、迷うことなく視線を向けてきた。
「おかえり……何処へ行っていたの?」
心底寂しそうなその声を聞くと、多少の意地悪もする気になれない。私は素直に姿を現した。
楽な狼の姿のまま、ベッドに座る彼女の傍へと寄り添い、その手に顎を乗せてやると、アマリリスはまるで犬でも愛でるように額を撫でてくれた。かつてならばその傲慢さに辟易としただろうに、今は妙に心地よい。
しばらく黙ってその温もりを味わってから、私は静かに答えた。
「都を見てきた。噂が広がっていたよ」
そっと見上げると、アマリリスは憂いを帯びた目で私を見つめ、訊ねてきた。
「皆は何て?」
返答に躊躇いもあったが、私は素直に告げた。
「動揺しているようだ。普段ならば死霊の言うことなど真に受けないだろう。だが、ジブリールは……」
「鳥王ですものね」
アマリリスは声を潜めながらそう言った。
「リリウム教会の人たちは明言を避けるけれど、カエルムは今だってジズを神と崇めてきた時代の感覚を受け継いでいる。時代の流れでそうなったから、彼らはリリウムの兄弟姉妹となったけれど、その本心もそうだとは限らないのでしょう」
「ああ、恐らくね。角人や竜人だって同じだっただろうけれど、鳥人の場合はリリウムから解放されたジブリールたちの姿が引き金になった」
私もアマリリスもリリウムの信者ではない。
そのせいかもしれないが、彼らの迷いは理解できるような気がした。生まれながらにしてリリウム世界の住民として暮らしているはずだが、その端々から感じ取れるのは、竜人、角人、鳥人としてのアイデンティティだ。そこが敵に刺激されれば、味方が味方でなくなることだってあり得ないことではない。
「それで、ウリアやアズライルたちは怯えているの?」
やや苛立ち気味にアマリリスはそう言った。私は彼女を見つめ、静かに答えた。
「作戦を練り直している。怯えてなどいないが、警戒はしているだろう。ジブリールはレグルス聖戦士だ。脅威となるのは力だけではない。長く、この場所を仕切ってきた彼女を崇拝している者は多い。死霊とはいえ、そんな彼女と戦うことにためらいを覚える戦士も多いのだろう」
「そうね……」
静かに同意して、そして、アマリリスはふと顔をあげた。
「ジブリールは……本当にサファイアを信じているのかしら。花嫁が蘇ると信じて、私たちを拒んでいるのかしら」
「信じるも信じないもない」
不安を跳ねのけるように、私は即答した。
「彼女は死んだんだ。あれはソロルだ」
「そうね。あれはソロル。でも、元になっているのは、ジブリールに違いない」
「死んだ者は蘇らない。蘇っているようにみえるが、あれは死霊だ。中身が違う」
「そうね。そうよね。でも、桃花は――」
「アマリリス!」
即座に私は彼女の手を掴んだ。掴んだ後で、自分の姿が人間になっていることに気づいた。だが、どうだっていい。どんな姿をしていようが、関係ない。惚ける彼女の意識を呼び覚ますのに、姿なんて関係ない。
「目を覚ませ。あれは桃花なんかじゃないだろう?」
力を込めて睨みつけてやると、アマリリスはびくりと震えた。
「ええ、分かっているわ。だから、私が……私がこの手で……」
俯く彼女の肩を抱き、私は必死に呼びかけた。
「しっかりしてくれ。苦しいのは分かる。だが、これだけは譲らないでくれ。死んだ者は蘇らない。サファイアが語るのはまやかしだ。そうだろう?」
「ええ……ええ、分かっているわ」
まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
脆い。あまりにも脆い。
かつて恐れたはずの魔女が、今は子羊のようだ。そして、その脆さは私をも恐れさせる。あれほど憎んだ相手なのに、今は失うのが恐い。壊れてしまいそうで、とても怖かった。
ゲネシスを止める。その為にはこの女が必要だ。しかし、その戦いのせいでアマリリスが死ぬようなことがあるとしたら。そう思うと認めたくない恐怖が沸き起こってくるのだ。
私はどうしたいのだろう。
この状況下で、どう判断したいのだろう。
「アマリリス。お前はこれからどうしたい?」
抱きしめたまま、私はそっと訊ねた。花の香りのする中で、アマリリスはそっと息を吐くと、震えの止まらぬうちに答えてくれた。
「……行かないと」
震えてはいても、迷いは感じられなかった。
「たとえ鳥人戦士の協力がなくたっていいの。リリウムに命じられるまでもないわ。ジズだって本当は、それを望んでいるはずだから」
「お前には分かるのだな」
「ええ……だから、行くしかない。誰もついて来なくたって、私一人でジズを助けに行かないと。こんなところで足を止めている場合じゃないの」
力強いその声に、私は少しだけほっとした。
脆くたって、聖女は聖女だ。
そして、彼女が進む道を決めているのならば、私に迷いなどない。
「一人なんかじゃないさ。私も一緒だ」
そう言うと、アマリリスは小さなため息を吐いて、私にしがみついてきた。子どものように甘えてくるその背を撫でながら、私はしばしその香りを堪能した。殺伐とした世界の中で、この香りだけは癒しに違いなかった。




