7.女王を飾る花
アマリリスの動揺がすぐ横に居ても伝わってくる。
ベヒモスも、フィリップも、そして周囲からこちらを見守る三名のソロルたちも、そして私すらもその視界には入っていないらしい。彼女が見つめているのはただ一人。フィリップの隣でこちらを見つめる黒髪の少女だけだった。
「あたしを忘れないでいてくれたのね。とても嬉しいわ」
桃花。その名前の人物を私は思い出した。ルーナと共に私を追いかけながら、アマリリスは時折その名を口にしていたのだ。かつて共に育ったという血の繋がらない姉妹。大人になり切る前に死霊に摘まれてしまったという〈赤い花〉の幼い魔女。
そう、〈赤い花〉だ。周囲のソロルたちを見て、私はようやく気づいた。ここに呼ばれたソロルたちは恐らく全員、アマリリスと同じ心臓を宿していたものたちだ。
「あのね。あたしずっと寂しかったの。とっても痛くて、苦しくて、気がついたら私は冥界の檻の中に閉じ込められていたの。ひとりにひとつ。ひとりぼっちで。ソロルやフラーテルに食べられちゃった〈赤い花〉の魂はね、とても貴重だからその中に大切にしまわれちゃうんだって。冥界の住人たちを喜ばせるために、その中でずっとひとりきりで咲いていないといけないの。だからあたし、ずっと寂しかった。暗くて寂しい場所で、誰も愛してくれない場所で、何度も泣いていたんだよ」
でも、と、桃花は目を輝かせた。
「サファイア様がそんなあたしを救ってくれた。新しい世界を作るためにって、檻から出してくださっただけじゃなくて、あたしに相応しいソロルをくださって、もう一度、この大地まで連れてきてくださったの」
両手を広げ、周囲にいるソロルたちに微笑みかける。ベヒモスの亡骸が首をもたげ、フィリップが静かに彼女たちを見守っている。そこに穏やかな秩序らしきものを感じてしまい、異様な気持ちにさせられた。
まるで私たちの方が異質であるかのように錯覚してしまう。その空気に呑まれてはいけない。私は必死にその迷いを払った。
「ここにいるソロルは皆、あたしとあなたのお友達。アマリリスと同じ服を着ているでしょう? 皆、聖女さまだったのよ。メイベル、ルージェナ、それにマリナ。皆とても有名なひと達で、とても優しい人たちなの」
目を細めながら桃花は囁いた。誘い出すように、彼女はアマリリスを手招いている。
「ねえ、あなたもあたし達の仲間になろうよ。どうしてもって言うのなら、隣にいる狼さんも一緒で良いよ。きっとサファイア様なら今よりずっと賢い忠犬にして呼び出してくださるでしょうから」
揶揄うように見つめられるも、怒りはこみ上げてこない。ただただ不気味だった。平然と語り、子どもらしい無邪気さを保ったままアマリリスを誘うこの少女が。そしてアマリリスが彼女の狙い通り動揺していることが。
「アマリリス……」
声をかけたその時、桃花の声色が変わった。
「ねえ、アマリリス。どうして黙っているの。せっかく会えたのに、なんだか嬉しくなさそう。ねえ、アマリリス。あたしに会えて嬉しくないの? あんなに寂しがっていたじゃない。それともあの子の方が良かった? ルーナっていうんだっけ、あの子の方が良かったの?」
「……やめて」
耳を塞ぎ、アマリリスはしゃがんでしまった。
誰も彼も襲っては来ない。ただ苦しむアマリリスを見て嘲笑っているだけ。彼女自身の心を折るのを楽しんでいるのだろうか。笑い続ける桃花に、私は牙を剥いて怒鳴った。
「お喋りソロルめ。そろそろ口を閉じるがいい」
しかし、彼女はますます笑うだけだった。
「カリスだっけ。あなた、アマリリスを殺そうとしていたんでしょう? そして今はペットってわけね。ねえ、カリス。ルーナの代わりを続けて楽しい? 聖女さまになったアマリリスを独り占めして満足? でも、勘違いしないで。あなたのいる位置はあなたのものじゃなかったのよ。そこはあたしの場所だった。アマリリスの隣はあたしの――あたしだけの場所だった。アマリリスはあたしのものなの」
一歩、二歩と私たちに近づきながら桃花は睨みつけてくる。その背丈は小さく、顔つきも見れば見るほど幼かった。その幼さゆえに張り合う気にもなれない。
ただ怖かった。思い出に由来する無邪気さが、その悲劇が、アマリリスの心を今も抉っているのが手に取るように分かるのだ。その攻撃を前に、どう庇えばいいのか分からず、私は未知への恐怖を感じていた。
「いいわ。まずは邪魔なあなたから片付けちゃうから。フィリップ、お願い。アマリリスのことはまだ傷つけないであげてね」
覚悟を決める間もなく、フィリップが駆け出してきた。ベヒモスも同時だった。周囲のソロルたち――桃花はどうだろう。アマリリスの隣を死守しようにも、一度に掛かられれば反射的に避けてしまうほかなかった。
聖槍とベヒモスの蹄、そして魔術が執拗に襲い掛かってくる。それから逃れ続け、ひとり虚しく影道に逃げ込むことしか出来なかった。傍を離れないように誓ったはずなのに、随分と離されてしまった。慌てて影道へと逃げ込むと、そのまま私はすばやくアマリリスの影に同化した。近くを死守することは出来た。
しかし、これでは意味がない。
フィリップやベヒモスたちが私を見失い、きょろきょろと見渡している。
そんな中で、桃花は不敵に笑いながら、ひたひたと歩いてアマリリスのすぐ傍までやってきた。影の中から身構え、いつでもその体を引き裂けるように狙いを定めていると、そんな私のいる位置を正確に見つめながら桃花は言った。
「そこから動かないで」
その瞳と目が合った瞬間、影に鍵が掛けられるような感覚に陥った。慌てて飛び出そうとしたが、出ることが出来ない。どうやら魔術らしい。
「ソロルめ……」
悔し紛れに唸る私を前に桃花は勝ち誇ったように笑った。そしてアマリリスに手を伸ばすと、そのままためらうことなく抱き着いたのだった。
「アマリリス。ずっとこうしたかった。檻の中で過ごしながら、いつかまたアマリリスを抱きたいと思っていたの。成長したあなたの血が欲しかった。ニューラの元から逃げ出して、未来を約束してくれたあの日みたいに、また一つになりたかったの」
「桃花……やめて……あなたはもう……もう死んでいるのよ」
「死んでいる? 確かにそうだったかも。でも、戻ってきたんだよ。アマリリスに会いたかったから。ねえ、アマリリス。あなたもあたしに会えて嬉しいでしょう?」
「桃花……」
震えるアマリリスの汗と涙を影で感じながら、私はその心に寄り添った。
「落ち着け、アマリリス。私はここにいる」
「カリス」
「怖がるな。過去は消えないが、だからと言って未来を消すことはない。私はお前を信じると決めた。だからお前がどうあろうと傍を離れたりはしない」
声をかける私を確認するように、アマリリスは片手で自分の影に触れようとした。そんな彼女の手の動きすら、桃花は遮ろうと掴む。
「駄目。悪い狼の言葉なんて聞かないで」
幼い子どもが甘えるように、桃花はアマリリスに縋りつく。
「人狼なんてあなたの食べ物に過ぎない。幼いあたしたちを犯して食べようと近づいてくる悪い狼たちをいつも返り討ちにしていたじゃない。思い出してよ」
その囁きに、アマリリスは必死に耐えているようだった。
「アマリリス」
その名を呼び、もがいてみるも、どうしても影から出て行くことが出来なかった。周囲の影道を駆けまわり、出て行こうとしても無駄だった。あまり離れれば戻って来られなくなる可能性もある。締め出されれば向こうの思うつぼだ。ならば、どうすればいい。
焦っているうちにも、桃花の怪しい誘いは続いた。
「ただの代わりなんでしょう。ルーナも同じ。あたしの代わりだったんだよね。姉妹のように育ったあたしがいなくなったから、寂しかったんでしょう。でも、もう必要ない。代わりなんていらないの。あたしはここにいる。ちゃんとまた会いに来たの。ねえ、次はアマリリスの番だよ。あたしを信じて。この手で優しく連れて行ってあげる」
食い殺すつもりだ。焦りは強まるばかりだった。それでも、この魔術をどう解けばいいのか分からなかった。捕まった野良犬が虚しく檻を引っ掻くように、私は必死に影の出口を探り続けるしかなかった。
「リリウムに居続けなくたっていいの。アマリリスはあたしが幸せにしてあげる。一緒に新しい世界を彩る花になろう。メイベルもルージェナもマリナも、リリウムなんかじゃなくてサファイア様の世界を望んでいるんだよ。リリウムはあたし達の敵だもの。都合のいい時だけあたし達を利用して、それ以外では簡単に見捨てるのだから」
恨みのこもったその声に、ソロルたちが反応を見せる。
誰が誰だかは分からない。それでも、聖女の格好をしていながら、彼女たちは桃花の言葉に同意を示していた。ソロルだからなのか、それともそれが彼女たちの魂に残っていた本心なのか。
それが分からず、私はただ怖かった。
このままでは、アマリリスの迷いが深まってしまう。
影と外の間を何度も前脚で掻いたが、魔術は破れない。閉塞的な敗北感がじわじわと私の絶望を読んできた。
だが、そんな時だった。
「桃花……ごめんなさい」
アマリリスの静かな声が聞こえてきた。桃花の肩に手を回し、そっと押して引きはがす。しっかりと目を合わせると、語り聞かせるように彼女は言ったのだ。
「あなたのこと忘れたりはしていないわ。あなたが死んだのは私のせい。安全だったはずのニューラの家を逃げ出そうと誘い出したのは私だもの。籠から出て大空を飛べばそこは自由な世界。あの頃は自由って楽しいだけだと思っていたの。でも違った。全く違うんだってあの時になって知ったの。ごめんなさい」
涙を流しながら彼女は懺悔を繰り返す。
「ごめんなさい……桃花。あなたを失ってから、ずっと怖かった。私は怖がっていたの。いつかこの日が来ると。あなたに似たソロルが私を迎えに来るかもしれないって。きっと私を恨んでいるって。でも、身勝手だったんだって今になって分かったわ。あなたは死んだ後も苦しんでいたのね。そして私を愛し続けてくれた。それなのに、ごめんなさい……桃花」
涙をこぼしながら、彼女は桃花に強く言い聞かせた。
「私は……私の信じる道を進むって決めたの!」
空気が変わった。アマリリスの感情が影を通して伝わってきた。心配はいらない。そう判断するより少し早く、アマリリスは行動した。
「ベヒモス……気高き調和の獣……〈赤い花〉を含めたすべての狭間の者達を守護する御方。あなたは私たちにとって、誇り高き獣です。あなたの悲鳴が大地からよく伝わって来る。その嘶きに含まれる呪詛は魂の叫びが私の心にも沁み込んできます」
「駄目だよ……アマリリス……!」
異変に気付いたフィリップが槍を構えた。しかしそれよりも早く、アマリリスの指輪が強く輝いた。
「あなたは十分苦しみました。だからもう良いのです。あとは私たち――地を歩む者たちが担います。そのための誓いをこの魔術に込めて――」
大きな鋏がベヒモスの首元に生まれた。ベヒモスはじっとアマリリスを見つめたままだった。リヴァイアサンの時とは違い、暴れたりはしない。ただじっとこちらを見つめている。
大地を揺るがす音が響き、植物のざわめきが響き、そしてベヒモスが苦しそうに唸った時、それに対抗するようにアマリリスの周囲でさざ波の音と声が聞こえてきた。リヴァイアサンの声に似ている。イムベルの聖地の感触が、久しぶりに戻って来たようだった。
その瞬間、私の全身が震えた。
力がみなぎり、闘志が揺らぐ。
勢いに任せて影を突き破るように飛び出してみれば、桃花にかけられた魔術から容易く逃れることが出来た。近くにいた桃花を牙で追い払う。
それから先の動きは全て反射的なものだった。フィリップがアマリリスを狙っている。その槍の狙いを逸らすべく、私は全身に力を込めて体当たりをくりだした。巨狼と呼ばれる人狼の身体であっても、角人の馬体の方が上だ。ぶつかるだけでもかなりの衝撃が生まれ、万全ではなかったせいか思っていた以上の苦痛を伴った。それでも、狙い通りフィリップの攻撃を逸らすことは出来た。
どうにか着地をし、そのまま衝撃に耐えていると、アマリリスの水のように冷たい声が礼拝堂に響き渡った。
「鍬形虫の鋏の魔術――《断罪》」
呼び出された鋏が動くその瞬間、ベヒモスの目に涙が浮かんでいるのが見えた。




