5.魅惑の香り
闘技場を飛び出した味方たちがレスレクティオ教会を奪還するまでにかかった時間は恐ろしいまでに僅かなものだった。角人死霊は多くないという推測は当たり、少なくともレスレクティオ教会を守る死霊の中に角人らしき姿は見られなかったという。
数の差は圧倒的であったが、メディアとその部下たちが勢力の中心であったのは確かだったらしい。残った死霊は殆どが〈果樹の子馬〉であり、それ以外の人間や魔族の戦士たちも勝利で自信と勢いをつけた百名足らずの味方の軍勢を前になすすべなく全員が冥界送りにされてしまったらしい。
死霊がひとりもいなくなると、味方たちは勝鬨の声をあげ、レスレクティオ教会の鐘は盛大に鳴り響いた。
それから日が傾かないうちに、レスレクティオ教会を訪れる生き残りたちの姿が見られるようになった。いずれも死霊などではない。鐘の音を聞いてすがるような思いでやってきたのだ。どこでどうやって生き延びてきたのだろう。あれほど死霊に支配された町のあちらこちらから、彼らは這う這うの体でやってきた。
闘技場にも逃げ込めなかった者たちの憔悴ぶりは、鐘の音を頼りによくぞここまで自分の足で歩けたと感心するほどのものだった。
勿論、まだこの勝利は完璧ではない。死霊はいまだに都をうろつき、レスレクティオ教会まで逃れようとする生き残りの住民たちを見つけては襲っているという。いずれは奪われたこの場所を再び奪い返そうとするかもしれない。
しかし、〈果樹の子馬〉の勇士たちはそうはいかないと燃え上がっていた。
「死霊どもの気配は一つの場所に集まっているようです」
教会の大部屋にてカルロスに向かって報告したのは白ずきんのふたりの魔人だった。闘技場でアマリリスに力を貸したあの二人だ。どうやら兄妹であるらしい。シー兄妹と呼ばれており、兄がパック、妹がラナンというのだと聞いた。魔人は女の方が魔術に長けると言い伝えにあり、そのために魔女と区別され恐れられるものなのだが、どうやらこの二人は同等の力を持っているのだとか。
その心臓の種類までは分からないが、いずれも死霊と戦う術を幼い頃より仕込まれ、年端もいかぬがその実力は確かなようで、ここに避難してきた人々が死霊かどうかも見抜けるのだという。
レスレクティオ教会の奪還後はその最上階よりじっと都を見渡しているが、何かあれば今のように風の隙間からふらりと現れて死霊の動きをカルロスに伝えている。
その動きはまさに翅人のようでもあった。
「しかしすぐに動く様子はありません。どうやらあちらも警戒しているようです」
男女の違いは感じられても、まだその声に絶対的な差異はない。それだけ若く見える二人ではあるが、魔人の年齢などマテリアルのようなものだ。魔女の性さえ満たせば、その体は時を止めてしまう。
そういえば、ゲネシスが言っていた。彼が憎んでいる相手は、何千年も生きているのに幼い少女のような姿をしているのだと。ならばこの二人も相応しい年齢であるのかもしれない。
「結構だ」
カルロスが頷く。
「そのまま見張っていて欲しい。何か動きがあったらすぐに伝えてくれ」
「了解」
二人同時に礼をすると、やはり翅人のように消えてしまった。その見事な魔術はアマリリスの関心も引くほどだった。
彼らが消えるとカルロスは場を濁すように咳払いをした。
「さて、戦う意志の残っている者は手当てが済み次第でいいから礼拝堂に来て欲しい。この先の事を話し合わねばならない」
カルロスの言葉に、大部屋にいた者たちの多くが視線を送った。広間は今、医務室となっている。生き延びたアリコーンとアグネスを中心に、怪我人たちを順番に治療しているところだったのだ。
戦う意志が消えるなどあり得ない。戦士たちならばそんな視線も少なくないのだろう。しかし中にはもう戦うことは止した方がいい者だっている。その判断をすることになっていたのが、アリコーンだった。
「先生、後は頼みます」
そう言って、カルロスは広間を出て行った。
怪我の殆どない者、軽傷だった者はいくらでもいる。そういった者たちと話を進めるつもりだろう。その場にアマリリスは呼ばれなかった。
アマリリスだけではない、私も同じである。
「現在、聖女様に相応しいお部屋を用意しているそうです」
そう言いながら、私の身体に自作の薬を塗るのはアグネスだった。二足の角人で、アリコーンの一番弟子。彼女とは前にも話したことがある。命からがらこの地へ危険を報せに来た時、私を介抱してくれたのが彼らなのだ。
だから私はすでに知っていた。彼女の薬はとても効果が高く、同時に驚くほど沁みるということを。歯を食いしばって耐える私に、アグネスは容赦しなかった。
「アグネス……とても沁みるのだが……」
「このくらい、あなたなら耐えられるでしょう。先生が必死に治したその体に大変な無理をさせたお仕置きですよ」
きっぱりと言われてしまうと返す言葉もない。
アマリリスが痛がる私の頭をそっと撫でる。その労りがまた飼い犬を気遣う飼い主のようで、ひどく情けない気持ちにさせられた。
「カリスの傷は良くなる?」
心配そうなアマリリスに、アグネスは微笑みを浮かべた。
「ご安心ください。これでも前よりはずっと軽いようです。用意したお部屋でしばらく安静にさせていれば元通りになるはずですよ」
「安静に、ね」
アマリリスが静かに繰り返す。
何かをじっと考えているようだ。だが、声をかける前に意識が薄れていった。異様なほど眠い。薬のせいだろうか。心地よい睡魔に意識が攫われて、痛みがだんだんと遠退いていった。
しばしの闇に閉ざされて次に目を覚ました時、私は寝台の上に寝かされていた。
小綺麗な部屋だ。体を起こしてみれば、寝台の脇でアマリリスが転寝をしていた。私が目を覚ましたのに気づくと、目をこすりながら声をかけてきた。
「気分はどう?」
「まあまあだ。痛みは……あまり感じないな」
「そう、それはよかった」
少しだけ笑みを浮かべ、アマリリスは寝台に寄り掛かって脱力した。野良猫がするような気怠そうな仕草を見せてから、大きく息を吐いた。
「ちょっと怖かったの。目を覚まさなかったらどうしようかと思って」
「そんなに眠っていたのか」
「ええ、丸一日ね」
「一日……?」
その言葉に目が覚める。一瞬のように思えたが、そんなに眠っていたとは。窓の外が気になって寝台から抜け出そうとしたが、それはアマリリスに止められた。
「まだ寝ていた方がいいわ。前よりは軽かったそうだけど、それでも普通の人間なら死んでいるか障害が残っていてもおかしくなかったって。アリコーン先生やアグネスがいなかったら、まだ目を覚まさなかったかも」
その表情が目に焼きついた。
本気で心配しているらしい。その表情を見ていると、不思議な気持ちになった。かつて命を狙い合っていたのが嘘みたいだ。そんなことを思いながら、私は呟いた。
「彼らには助けてもらってばかりだ」
「ええ、そうね」
「お陰でまた戦うことが出来そうだ。大聖堂にはまだ行っていないだろう。お前も行くつもりか?」
「ええ」
表情を変え、アマリリスは答えた。
「あの場所はきっと闘技場やここのようにはいかない。サファイアはきっと現れるでしょう。そしてシルワ大聖堂に踏み込んだ者たちを死霊にするために襲い掛かってくるはずよ」
「出発はいつだ。私もすぐに準備を――」
「出発は今のところまだよ。でもね、カリス」
アマリリスは落ち着いた声で私に向かって言った。
「あなたはここで待っていて欲しいの」
「待て、だと?」
反射的に睨みつけてしまう私を、アマリリスは憐れむように見つめてくる。
「ええ、そうよ」
突き放すようなその態度に、腹が立った。
こみ上げてきた感情をどうにか抑え、深く息を吐いてから、私は訊ねた。
「どうして待たねばならない」
「アリコーン先生の助言でもあるの。あなたは怪我人よ。これまで無茶ばかりしてきて、それでも生き延びてきたあなたの強運は認めましょう。でも、この先もそうであるとは限らないわ。手負いのあなたに死霊たちが手加減してくれると思う? また角人死霊が現れでもしたら……。だから、あなたには待っていて欲しいの」
「死霊たちの手加減? そんなものに期待している私だと思うか? アリコーンの助言があろうと関係ない」
「カリス」
諫めるようにアマリリスは言った。
「お願いだから聞いて。角人が死霊になったのよ。今のところはメディア隊長とその部下たちだけだった。でも、それが全てとは限らない。本当に彼女が魔物を呼び出せるようになったとしたら……」
そこで息を飲むと、アマリリスは跪き、私の手を握り締めてきた。
「ねえ、カリス。私は怖いの。サファイアが何の考えもなしに蘇らせる死霊を選んでいると思う? きっと私に縁のある人たちを呼び戻すに違いないわ。その上、あなたまで失ったら――」
「私をそう見縊るな。お前を一人にはしない」
「そう言うのなら、ここに居て。ここなら〈メイベルの心臓〉が守ってくれる。シー兄妹もいるし、他の聖戦士たちも死霊との戦いに慣れてきているわ。攻め落とされることはないはずよ」
「それなら安心だな。だが、傷はもう塞がった。お前が行くというのなら、私もお前と一緒に行く」
手を強く握り返し、私はアマリリスにはっきりと伝えた。
気持ちは揺るがなかった。傷の痛みも死霊の怖さも狼の誇りの前には殆ど意味がない。それよりも今は、アマリリスの傍にいたいという気持ちが強かった。
涙を浮かべた〈赤い花〉の聖女が、私の顔をそっと見上げる。その表情もやはりアネモネによく似ていた。彼女とは違うと分かっていても、同じ香りがした。
音信不通となったアネモネ。ルーカスと共に黒い仕事で生き永らえ、世界を旅しながら探しても、彼女の香りは見つからなかった。きっともう生きてはいないのだろう。だからだろうか。だから、私はここまでアマリリスに拘ってしまっていたのだろうか。
しかし、もはやそれだけではない。私とアマリリスは繋がっているのだから。
「そんな顔をするな」
私は彼女に囁いた。
「私だって怖い。ここでじっとしていることが怖いのだ。忘れたのか。今のお前は私の命すら担っている。伝承が本当ならば、お前に何かあった時に私の命も尽きてしまう。お前が無事に帰るまで寝台の上に横たわったとしても、さほど休めやしないだろう」
「私を信じていないの?」
アマリリスの問いに、私は即答した。
「ああ、そうだ。お前はいざという時に頼りないからな。お前を守ってやることは、私自身を守るということなのさ」
前のように揶揄ってやると、アマリリスも軽く息を吐き、涙を手で拭うと不敵な笑みを浮かべた。
「その頼りない私相手に、昔はずいぶん怯えていたじゃない」
「人狼狩りの魔女は侮れなかったからね。水たまりでも滑って転んで打ちどころが悪ければ死んでしまう。警戒するに越したことはなかったのさ」
「あらそう。けれど、その水たまりをサファイアは恐れているのよ」
わざとらしく得意げにそう言うと、すぐに表情を変えた。
「何が待っていようと私は乗り越えて見せる。あなたが生きてさえいてくれれば、ここへ帰るために頑張れるの。だから、私を信じて。ここで待っていて」
「ニフテリザに言い聞かせた言葉に似ているな」
「それは――」
そのままアマリリスは口ごもった。
言葉を探そうとする彼女の手首を掴むと、そのまま私は寝台の中へと引きずり込んだ。小さく悲鳴をあげる彼女を組み敷いて、じっとその顔を見降ろす。痛みは少しあったが、他は問題ない。腕力も、華奢な体を抑え込む程度には鈍っていなかった。
アマリリスは怯んだまま私を見上げていた。とっさのことで体が竦んでしまったらしい。怯えたその様子は狩りの獲物のようで、久しぶりに狩猟本能が刺激される。身を任せれば、このまま噛みついてしまいそうだ。そんな本能を軽く抑え、私は花の香りのみを楽しみながら彼女に言った。
「これが人狼の腕力だ。こうされては動けないだろう」
「悪ふざけはやめて。それに、今のは狡いわ」
「狡くない人狼なんていない。狡くなければ狩りは出来ないからね」
アマリリスが抵抗しようとする。魔術を使わないのは私への配慮だろう。だが、魔術を使わなければ彼女は人間の女と何も変わらない。
私がこれまで騙し、食い殺してきた獲物たちと同じ。逃げようとするその力を抑え込むのに決して苦労はしなかった。もがけばもがくだけ、彼女の方が不利になる。ため息が出るほど力は弱く、愛おしくなるほどだった。
アマリリスもその差を段々と思い知ったのだろう。やがては力を抜いて私から目を逸らし呟くように言った。
「降参しようかしら」
「諦めが早いな。人狼を前に降参は死を意味する」
「ええ、よく知っているわ。言っておくけれどね、わざとこの体勢になったことだってあるの。こうやってわざと誘って食いつこうとする人狼を逆に食ってやったことだってあるもの」
怪しげに微笑む彼女だが、かつてのような恐ろしさを不思議なくらい感じなかった。
それだけ親しくなってしまったのか、はたまた私が慣れてしまったのか。それだけあの日々が遠い過去になってしまったということかもしれない。
「ああ、よく知っているさ。私だって物陰から見てきたからね。皆、お前を食う気満々だったのにもれなく食われていった。事前に忠告してやっても聞く耳を持たない奴らばかりだったよ」
「あなたはなかなか引っかかってくれなかったわね。昔はあんなに欲しかったのに歯痒かったわ……でも、今はそんなあなたの慎重さに感謝している」
そう言ってから、アマリリスはもう一度逃げようともがいた。だが、その力はやはり非常に弱い。抑え込むのは容易かった。魔女にとって魔法は爪や牙に等しいというわけだ。それを使わなければ、アマリリスだってこんなにも弱い。
やろうと思えばこのまま服を剥いで、この場で食ってやることも出来る。聖女となった〈赤い花〉はどんな味がするのだろう、と、恐らく一生は体験することのないその味を想像していると、アマリリスは大きくため息を吐いた。
観念したように彼女は囁いてきた。
「あなたが元気になったのはよく分かった。人狼の腕力ってやつも、肉体的な私の弱さも理解できたわ」
「それで、どうする?」
「分かった。ついて来てもいい。だからそろそろ放して」
「二言はないな」
彼女がしっかりと肯くのを確認してから、私はようやく解放してやった。するとアマリリスはゆっくりと体を起こして私を見つめてきた。
「人狼に食べられる前の人の恐怖がちょっとだけ分かった気がするわ」
「痛みの方にも興味があれば齧ってやっても良かったんだぞ」
「止めておく。生憎だけど被虐の趣味はないの」
軽く笑ってアマリリスはそう言った。その表情、その顔が誰かのものと重なって、私はふとその顔をじっと見つめてしまった。
この感じはずっとある。いつ、いかなる時も、アマリリスは記憶の片隅にある誰かに似ているのだ。きっとそれはアネモネだろうと信じていた。
だが、時々ふと思うのだ。本当にそれはアネモネなのだろうか。幼い頃に手を引いてくれた命の恩人の事を思い出すたびに、アマリリスとの明確な違いに気づかされる。似ているが違う。違うが似ている。これまでずっとアマリリスへの親近感は全てアネモネのせいだと思っていた。だが果たして、アネモネの記憶だけなのか。
きっと今すぐには解決できない疑問を心の中に抱えつつ、それを忘れるように私はアマリリスを抱き寄せた。
「そうか。それは残念だな」
囁くように言い聞かせると、花の香りに引き寄せられるままに、その唇を奪ってしまった。きっと狩猟本能のせいだ。だが、こうなるともう止められなかった。
突然の事に一瞬だけ彼女は怯えたようだった。
これはきっと気の迷いだ。そう思って私はすぐにやめようとした。だが、アマリリスは、そのまま私に抱き着いてきた。口づけを受け入れるように、いや、むしろ求めるように、私の背中に腕を回してきた。
花の香りに包まれながら抱きしめ合うと、何故だか懐かしい気持ちになった。遠い昔、こうしてじゃれ合ったような気がする。そんなはずはないのに、まるでずっと昔から自分のものだったかのような気持ちにさえなった。
だが、脳裏に染み込んでいたのが純粋な子どもの記憶だったとしても、今まさに沸き起こっている気持ちはそんなに無邪気なものではない。
鐘の音が聞こえてくる。〈果樹の子馬〉たちが遊びながら鳴らしているのだろう。
その音を耳にしながら、私はアマリリスを再び寝台に押さえつけてやった。
吐息、鼓動、温もり、香り、そしてその口から漏れ出す甘い小声。赤い礼服の中へと手を伸ばし、ひとつひとつ捲りながら、その新鮮な反応を楽しんでいく。
心の深い部分が彼女を求めている。口にした秘宝のせいか、はたまたこれまでの経緯のせいか、私の本能は目の前にいる〈赤い花〉の全てを求めていた。
誰もが欲しがる心臓の宿るその裸体を抱きしめ、温もりと鼓動を思う存分味わった。そしてその唇から甘い声が漏れるたびに、私は静かな満足感に浸っていった。
邪魔をする者はいない。
たとえ誰かに見られていたとしても、咎められないのならどうだってよかった。
純潔を尊ぶリリウムの眼差しから逃れるように、私はアマリリスに覆いかぶさった。
未来のため。愛のため。これからも戦い続けるために。
今はとにかく、この聖花をじっくりと味わおう。それが、今の私が願う最高の褒美だった。




