2.都の惨状
荷馬車へ戻ると、アマリリスはグロリアたちに見守られながら馬と触れ合っていた。ルーナを失ったばかりの頃に比べれば、落ち着いたものだ。その瞳の端々に悲しげな色が残っているのは、この際、仕方のない事だろう。それすらも死にたがっていた時よりはずっとマシだと感じられた。
馬たちがどう感じながらアマリリスを見ているかは分からないが、余計な口を挟めない分、話すことをしらない獣たちの方が彼女の心に寄り添えるものなのかもしれない。グロリアをはじめとする聖戦士たちもそれを察しているのか、アマリリスに話しかけたりはしていなかった。
カルロスが馬たちを脅かさないように気を配りながら姿を現す。
私もそれに倣おうとしたが、コツがいるのか失敗してしまった。不快感と警戒心をむき出しにされて、アマリリスがこちらに気づいて振り返った。
「カリス……帰ってきたのね。おかえりなさい」
「ただいま」
ばつが悪かったが、とりあえずは返事をした。狼の姿のまま近づくと、馬たち――とくに真ん中にいるクラウン種の牝馬が歯をむき出した。どうやら特に私が気に入らないらしい。
ひんひん鳴いて足踏みする馬たちをすぐさまウーゴが宥めた。
「よしよし、このひとはカリスさんだよ。一度挨拶しただろう? ボクたちの仲間だよ」
すると両脇にいたドッド種の去勢馬二頭は大人しくなった。だが、クラウン種の牝馬だけは耳を倒したまま私を睨みつけ、不満そうに首を上げ下げした。
私は彼女を見上げ、溜息を吐いた。嫌われるのも不思議ではない。馬にとって狼は外敵だ。警戒しないはずがない。彼女からすれば、カルロスは忠実な番犬で、私は汚らしい野良犬のようなものにしか見えないのかもしれない。
「いいよ、ウーゴ。私はちょっと離れよう」
そう言うと、ウーゴは気まずそうに私を見つめた。
「すみません。こいつは気性が荒い事で有名で。なあ、ヒステリア。落ち着いておくれよ」
――ヒステリア。
聞き覚えのある名前だったが上手く思い出せない。ただじっと私の顔を見つめてくる彼女の眼差しは、何か訴えるような輝きを宿していた。
様子を見ていたグロリアが近づいてくると、ヒステリアが少しだけ気を逸らし、顔をぷいと背けた。どうやらグロリアにも懐いていないらしい。グロリアは私の横にくると、苦笑いをしながら言った。
「一応、この子とは顔見知りなんだけれど……どうやら嫌われているらしい。馬の心なんて分からないけれど、たぶん察しているのかな」
「察しているって何を?」
人間に戻ることも忘れて問い返すと、グロリアは鳶色の目を私へと向けた。
「そっか。あなたは知らないのですね。この馬は……ヒステリアは、かつてゲネシスの愛馬だったんです」
「ゲネシスの……?」
それを聞いて、はっとした。
そうだ。影の中での盗み聞きか、あるいは、ゲネシス自身からだったか、はたまた、ジャンヌか他の誰かからだったか、聞いたことがあったのだ。ゲネシスはかつて馬を持っていた。気性が荒い馬だったというが、よく懐いた良い馬だったのだと。それなのに、彼はせっかくの名馬を馬好きの戦士に譲ってしまった。
この馬が、そのヒステリアだったなんて。
「たまたまプルウィアに用事があったんです」
ヒステリアを撫でながら、ウーゴが教えてくれた。
「大変な事件があったとは聞いていましたが、まさかゲネシスさんが深く関わっているなんて思いもせず……。真夜中になると、ヒステリアは寂しそうに泣くんです。いつもは孤高な乙女なんですけれどね……ああもう乙女って歳でもないか」
不満そうにヒステリアは溜息を吐き、ウーゴを睨みつけた。アルカ語が分かっているのかどうか、それは分からないが、機嫌が悪い事はよく伝わってきた。
それでもプルウィアからここまで仲間二頭と一緒に荷馬車を運んでくれたのだから、聖馬たるものなのだろう。
彼女が頑張って運んでくれた私たちは、少しずつゲネシスの討伐の準備を進めている。彼はかつてヒステリアが心から認め、愛した主人だったのかもしれない。それを彼女は分かっているのか否か。
美しいな瞳に見つめられながら、私はただじっとその顔を見つめていた。
「ヒステリアは嫉妬しているの」
いつの間にか隣に来ていたアマリリスが声でそう言った。
「馬の言葉が分かるのか?」
揶揄い半分に訊ねてみれば、アマリリスは目を細めた。
「言葉は分からないわ。でも、魔術を使えばその感情ならある程度読める。彼女を苛立たせているのは怒りと嫉妬。そして失望と恋しさ。きっと主人を愛していたのでしょう。会いたがっているのよ」
ならば、グロリアを嫌っているのは嫉妬なのかもしれない。彼女がこれまでにゲネシスと親しくしていたことをヒステリアも知っていたのだろう。
では、私はどうだろう。これまでに会ったことはない。
ゲネシスと話していることを見せたことはない。それでもアマリリスには撫でられていたのに、私を近づかせたがらないのは何故か。単に人狼だからともいえるが、今だけは違う理由に思えてしまった。
私はゲネシスをかつて愛し、今は憎んですらいる。その想いの強さを、知らず知らずのうちにヒステリアに伝わってしまったのかもしれないのだと。
「私も……嫌われてしまったようだな」
ため息交じりにそう言ったとき、ヒステリアがふと耳を立てた。
風向きが変わり、私はその匂いに気づいた。
アマリリスも気配を察知したのかそちらを振り返る。だが、彼女が歩みだしてしまうより先に、私はその行く手を阻んだ。風の向こうから近づいてくる者がいる。
死霊ほど恐ろしい存在ではないが、間違いなく味方とはいえない男。
「コックローチ……」
アマリリスがその名を呟いた時、風の中から彼の姿がはっきりと現れた。
グロリアがようやく気付き、静かに警戒を見せる。荷馬車の付近にいる他の戦士たちもそれとなく意識をこちらに向けているようだった。
奴が花売りだということはもう分かっている。彼だってもはや私たちとの信頼関係が壊れていることは分かり切っているはずだ。それなのに、正面から堂々とやってきたのは何故なのか。
「やあ、皆さん。長旅ご苦労様です」
鼻につく口ぶりに全身の毛が逆立った。
忘れやしない。奴はアマリリスを攫おうとした。悲しみを煽り、隠れ家へと連れ去ろうとしたのだ。もうあの時のアマリリスではなくなった。とはいえ、脆い部分が全て頑丈になるということはない。
また言葉で彼女を揺さぶるつもりだろうか。そう思うと警戒は解けそうになかった。
「何の用だ」
唸りながら問いかけると、コックローチは苦笑いを浮かべた。
「まあまあ牙をおさめてくださいな。この度はアマリリスも立ち直り、聖女としての務めをひとつ果たしたと風の噂で耳にしまして、私も過去の振る舞いを改心し――」
「ふざけるな。お前と話すことはない。ここから立ち去れ」
「カリス」
警戒心の強まる私を静かに諫めてきたのはコックローチではなく、アマリリスの方だった。
振り返ってみれば、彼女は澄ました表情でじっとコックローチの姿を見つめていた。その瞳をじっと探ってから、私はとりあえず唸るのをやめた。
大丈夫だ。少なくとも今は、その心は虚ろではない。怪しく厄介な翅人の術に付け入られる心配もないだろう。
コックローチは目を細め、猫なで声でアマリリスに向かって言った。
「ありがとう、アマリリス。やはり君は物分かりの良い賢い花だ。さすがは私の――」
「無駄話はやめて。あなたの声を長くは聞いていたくないの」
冷たい声でそう言って、彼女は指輪の嵌る方の手をコックローチに向けた。荒々しくはないが、それが却って物騒だった。
コックローチはびくりと震え、固唾を飲んだ。そんな彼に表情を変えることなくアマリリスは訊ねた。
「聖戦士たちも見ている前にあなたが堂々と来たということは、売りたいものがあるからでしょう? それとも、くだらない用事で私の前に姿を現した、なんてことはないわよね?」
「はは、まさか。この私がそんな真似するわけはありませんとも」
焦りを見せつつ彼は笑い、ごほんと咳払いをしてから軽く一礼した。
「もちろん、もちろん。かねてのように情報をお売りしに来たのです。きっとそちらで私を睨みつけていらっしゃる勇ましき戦士の皆様も興味を持たれるような情報。命を懸けて影に潜み、この目でしかと見つめてきたシルワの都の状況についてのものです。お品物の数は全部で――」
言いかけるコックローチのもとへ、カルロスがゆっくりと歩み寄ってきた。狼の姿ではなく、人間の姿をしている。
「全部買おう。いくらだ?」
やや乱暴なアルカ語で訊ねた彼に、コックローチは黙って指をあげた。
「せっかちなお方だ。だが、こちらとしては有難い。リリウム銅貨でこのお値段でいくらでしょう。ついでに何か食べ物を分けていただければ幸いです」
価格としては高すぎるということはない。カルロスは懐から硬貨を数枚取り出すと、コックローチに向かって投げてやった。
「リリウム銅貨ではないが」
そう言われながら拾い集めたコックローチが確認し、「おや」と呟く。
「なんとリリウム銀貨ではないですか。であるとすれば、いささか貰いすぎてしまったようですが」
「生憎、それしかなかったのでね。こちらの食べ物は分けてやれないから、それを使って自分でどうにかしてほしい」
「おや……おや……」
苦い表情でコックローチは立ち上がった。ちゃっかりと銀貨は受け取ったが、なにやら不満そうだ。
「たくさんいただけるのは有難い事ですが、食べ物をいただけないのは残念です。というのも、シルワの都は安心して飲食できる状況にありませんので。シルワの中で食料品の流通が途絶えて三日経ちました、いまは貯蔵を消費しているのみ。イムベルやリリウムに救いを求める連絡も送れないまま、現在は生き残った住民たちが必死に抵抗をしているところでしてね……」
「そんなにひどい状況なの?」
ショックを受けた様子で問い返したのは角人戦士のイポリータだった。
「生き残りはどのくらいいるの? 角人戦士たちは? 〈果樹の子馬〉たちは? ペール司教はどうなったの?」
問い詰めようとする彼女に、コックローチは軽く両手をあげた。
「どうか落ち着いてください、イポリータ様」
穏やかな声で彼は告げる。
「私はしがない翅人情報屋です。この目で見ることが出来る範囲には限りがある。その上でお聞きいただきたいのですが、私の見た限り、レスレクティオ教会とヨクラートル館にいるのは死霊だけだ。取りまとめているのは、かつてあの場所を任されていた半角人の司教ペール様でもなく、彼を支えていた司祭や助祭たちでもない。生き残りの中にも角人はおりましたが、どうやらその中に彼らの姿はなかったようです」
「そんな……どうして……」
絶句するイポリータをラミエルがそっと庇う。逞しい馬の足もいまは子馬のように震えていた。角人特有の馬面のマスクを嵌めているため、その表情までは窺えない。だが、ショックは大きいだろうということは疑いようがなかった。
ここまで酷くなってしまったのは何故だろう。考えようとしてすぐに応えにたどり着いた。ついさっき目にした異様な死霊。これまでのものとは違うメディアたち。今まででは考えられなかった魔物の死霊という存在に、私は震えを感じた。
コックローチは薄っすらと笑い、私たちに向かって言った。
「カリス、それにカルロス隊長。あなた方は目にしたはずだ。異様なことが起こっていたと。たとえば常識が覆るような。そう、魔物は死霊に囚われないという当たり前の事実が根元から崩されるような――」
その言葉にグロリアがカルロスを見つめる。カルロスは大きく息を吐いてから後ろを振り返る。
「イポリータ。メディア隊長を覚えているか?」
名指しされたイポリータが動揺を見せる。仮面を被ってはいるが、きっとその下は蒼ざめているだろう。
「勿論です。私の……幼馴染ですから」
「そうか」
カルロスは短く頷き、そして再びコックローチを見つめた。彼の動きを警戒しつつ、彼は抑揚のない声で皆に告げた。
「聖戦士の姿をした死霊たちを俺たちも見た。俺の目が狂っていなければ、奴らは角人戦士の姿を借りていた。その内の一人――取りまとめている女戦士の姿に見覚えがあったのだ。彼女は『メディア隊長』と呼ばれていた」
重たい宣告にイポリータとラミエルが動揺を見せた。グロリアやウーゴも表情を曇らせている。半信半疑なのは全員同じだ。これまではあり得なかったことが起こっている。角人の死霊だなんて。神獣とさえ恐れられた者たちまで死に囚われてしまうなんて。
この衝撃をどのように受け止めるべきか。私を含め、戦士たちも戸惑いを隠せない。しかし、アマリリスだけは表情を変えることなく私の隣に立ってコックローチに声をかけた。
「コックローチ」
女性らしいほのかな甘みを含むその声が、人狼狩りの性に囚われていた頃の彼女のものによく似ていた。
「角人の死霊はどのくらいいるの? 私たちは彼らに敵うのかしら。あなたの見解も教えてくれる?」
非常に冷静な問いかけだった。
コックローチはにやりと笑い、すぐに答えた。
「角人の死霊はさほど多くはない。死霊の事情には詳しくないが、これまでに死んだ数を思えば少なすぎるくらいだ。そして力のほども不明瞭だ。見た目は生きている頃によく似ている。武具やマスクもよく再現されているね。しかし、その力まで生きていた頃と同じくらいなのかについては……私は正直疑っている」
「どうして?」
アマリリスの鋭い問いかけを、コックローチは落ち着いた様子で受け止める。
「手こずっているからだ。闘技場に立てこもる生き残りたちにね」
「生き残りがいるの? それは一体なんという――」
イポリータの声をコックローチは静かに制した。
「どうか落ち着いてください、イポリータ様。全体的には一般市民が多い。角人戦士も勿論生き残っているが、部外者の私には名前までは分かりません。ただその多くは武装した〈果樹の子馬〉たちのようです」
「武装した……〈果樹の子馬〉……」
その声には悲観的なものが多く含まれていた。
「そんな馬鹿な。戦えるような子たちじゃないわ」
「そうでしょうとも。しかし、長く持っているようです。ひょっとすると復活した角人たちと同じくらいやり合えているのではないかと」
「だとしても、いつまでも抵抗できるなんて思えないわ。だって、あの子たちは守られるべき種族なのだもの」
その悲鳴にも似た声に私は在りし日の大聖堂を思い出していた。
慌てて目を覚ましてみれば、アマリリスはとうに旅立った後。回復したジブリール共々必死になって迫りくる脅威を報せたとき、大切なこの場所を守るべく積極的に立ち上がったのが〈果樹の子馬〉たちだった。
角人たちはもちろん誰もが、今のイポリータのような反応だった。無理もないだろう。彼らは大人であっても人間の子どものような体格で、非力なのは見て分かる。死霊たちからすれば餌であり器候補に過ぎないだろう。それでも彼らは勇ましく作戦を練り、仲間が次々に犠牲になっても諦めない者ばかりだった。
ここまで壊滅してしまった今であっても、生き残りが闘技場に残って戦っている。希望の全てが潰えているわけではない。
「メディア隊長は……生き残りさえも潰そうとしているのね」
イポリータの問いに、コックローチは頷いた。
「はい。今の彼女はもはやかつての聖戦士様ではありません。死霊に囚われた人の子たちと同じく、本来の自分を見失った状態でソロルに支配されているのです。共に存在する角人のソロルやフラーテルも同じ。それを罪とも感じることなく、ただ仲間にしたいというだけで生き残りたちを殺めようとしているのでしょう」
この目で見たメディアたちの姿を思い出す。
悪事を働こうという様子ではなかった。死霊の女王と化したサファイアを盲信し、それが正義であると思い込んで、命じられたままに存在している。私にはそのように見えた。その恐ろしさは理解が進むにつれて深まっていく。
魔物が死霊になるとは。その可能性を示唆されて初めて、私はこの恐怖を自分の事として実感した。これまで食い殺した人間の魂を見せつけられた日の事を思い出す。同胞が呼び出されれば――それが私にとって大事な人物だったりしたら、動揺はあのとき以上のものとなるだろう。
「ああ……そんな……」
イポリータが嘆いた。
「先祖代々受け継いだ尊きベヒモスの血がこのような形で穢されるなんて」
心を痛めた彼女を庇いつつ、ラミエルが鋭い眼差しをコックローチへと向けた。
「つまり、あなたがそのメディア隊長を始めとした角人死霊の力を疑う理由は、その〈果樹の子馬〉たちの抵抗が続いているから、というわけだな?」
「はい、その通りです。メディア隊長のことを詳しく存じ上げているわけではありません。しかし、角人戦士が複数いながら制圧できないのは不自然だ。死霊は本来、人の血を継がぬものを呼び出せないはず。ならば、あの力も不完全な出来になっているのではないか、と私は感じたのです」
あまり楽観視していい事とは思えない。だが、そう信じていいのならば信じたいところでもある。角人戦士がこれまでにいったいどれだけ死んだだろう。あまりにも遠い時代の者ならばまだしも、大聖堂の凶事で命を落とした角人戦士は多い。それこそ、フィリップやリル隊長のように頼もしい味方だっていたのだ。
――まさかとは思うが。
「それで」
と、アマリリスが涼しい表情でコックローチに訊ねた。
「闘技場に皆いるの? 生き残りが全員?」
「全員かどうかは分からない。だが、私の見た限り、死霊でない者は闘技場にいた。救援を求めようにも周囲は死霊だらけで困っているようだ。翅人か吸血鬼でもいれば良かったのだろうがね。そういった者から先に殺されていったらしいから仕方がない」
「なるほど……よく分かった」
カルロスが野太い声で頷き、そして影に向かって声をかけた。
「パピヨン、そこにいるな?」
呼ばれたのは翅人戦士の名だった。イムベル大聖堂に向かった時に同行した名前なので覚えている。私はつられてそちらを眺めた。しばし時間を置いて現れたのは小柄で弱々しい印象の女性翅人だった。間違いなく覚えのある顔だ。パピヨン。現れるまで私はその匂いを全く感じられなかった。
「ここに」
静かに膝をつく彼女に、カルロスは命令を下した。
「可能ならば闘技場を見てきてくれ。こいつの言っていることが本当かどうかもまとめて報告してほしい。もしも生き残りに出会えたならば、伝えてくれ。すぐに向かうと」
「かしこまりました」
ひたすら従順に彼女は頭を下げて消えていった。
それを見届けてからコックローチは呆れたように笑いだす。
「参りましたね。彼女はあなた達についた監視役と見えますが……。伝令くらい私を頼ってもよろしいのですよ?」
「ただの情報屋にそこまで危険な仕事をさせるわけにはいかないのでね」
カルロスは皮肉交じりに返した。
「それに、お前よりもパピヨンの匂いの方に馴染みがある」
冷たいその言葉にコックローチは溜息を吐いた。
「やれやれ。信用されないのも辛いものだ。まあ仕方ない。私の売れる情報はこれまでです。また仕入れたら売りにきましょう。それまでどうかご達者で」
そう言ってコックローチは姿を消した。
程なくして、空から音もなく塵が降ってきた。ヒステリアを含んだ馬たちが不快そうな声をあげ、ウーゴがマントをかぶせ始める。アマリリスの隣で空を見上げていると、真っ白な塵の中に吸い込まれるような小さな声で、アマリリスが呟くのが聞こえてきた。
「……微かに聞こえるわ」
彼女の様子をちらりと窺ってみれば、その濃褐色の目が己の足元へと向いていた。その瞳は塵を映しているが、見つめているのは違うもののようだった。
「とても弱い声。でも聞こえるの」
「何が聞こえる?」
そっと訊ねてみると、彼女は目を逸らさずに小さく答えた。
「たぶん……ベヒモスだと思う」
彼女はそう言って、シルワ大聖堂を守る聖森の方角へと目を向けた。私も彼女に倣い、同じ方角の空を見上げてみた。塵はさらに濃くなり、どんなに目を凝らしても森は見えない。しかしあの向こうで絶望を味わった日の事は忘れていない。
アマリリスはそんな大聖堂を寂しそうに見つめている。その耳に届いたという声はどんなものだろう。どんなに耳を澄ませても、今の私にはまだ聞こえなかった。




