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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
2章 ウィル

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9.竜の代理人

 水が囁きかけてくる。このように感じたことは今まで一度もなかった。

 人狼という生き物は、人間たちよりも多感なのだという。私からすれば、人間が鈍感なだけだと思うのだが、人の目を忍んで存在するあらゆる生き物たちを感知できるということは、それだけ周囲への異変に敏感であるということらしい。

 だが、この度、私もまた人間たちを見下す資格がないほど鈍感であったことを思い知った。水というものは囁きかけてくるものだったのだ。そのことを初めて知ったのは、ウィータ教会にて急遽行われた儀式の最中のことだった。


 古くからイムベルに住まう誰もが初めて実際に執り行ったというその儀式は、〈リヴァイアサンの鱗〉を授けられた者と、聖女の心が一つになり、その後の戦いの中で守られることを祈るためのものであるという。

 その際に、私は全員の前で秘宝を口にしたのだ。海水を思わせるその味が体に沁み込んでいったその時、私は声を聞いたのだ。人狼として生まれ持っていた以上の感性が、私の中に芽生えているようだ。儀式が終わった後もずっと、私は周囲が気になって仕方なかった。


 聞こえてくるのは間違いなく声だ。女性のような声。しかし何を言っているのか、耳を澄ませなくては分からない。水の声なのだと理解したのは、ウィータ教会の敷地内にある池からも声がしたからだ。

 だが、しばらくして、厳密にそれは違うのだと私は気づいた。違う。水が話しているのではない。声はどれも同じだ。水が話しているのではない。水を通して、何かの声が聞こえてくるのだ。


 そう気づいた時、私の耳にはあの鯨の歌のような音が聞こえてきた。ラケルタ島の方角で、たまたま周囲にいた修道女たちには聞こえていないようだった。

 しかし、聞こえたのは私だけではない。無事に儀式を終え、私に付き添われながらニフテリザへ面会しようとしていたアマリリスもまた同じだった。


「聞こえた?」


 ラケルタ島の方角を見つめ、アマリリスは呟いた。


「彼女ね。今、はっきりと話していた」


 アマリリスが穏やかにそう言った。

 見つめる先は、ラケルタ島のある方角だ。私は周囲を見た。やはり、傍を通る修道女たちは気にしていない。少なくとも人間たちは、あの声を気にも留めていないらしい。


「周りには聞こえていないらしい」

「……ええ、でも、あなたも聞こえたのでしょう?」


 戸惑うような瞳に見つめられ、私は静かに頷いた。

 聞こえた。それも、これまでのような鳴き声ではない。音と共に言葉もまた伝わって来た。まるで狼たちの遠吠えが聞こえてきたときのように、私はその声を理解できた。


「助けてほしい。そう言っていた」


 力は略奪され、愛する存在の魂もまた奪われたままだ。

 両方を取り戻すには、彼らを追い詰めなくてはならない。しかし、リヴァイアサンはここを離れられないのだ。祠は彼女の家であり、同時に檻でもある。いつの時代からそうなっているのかは知らないが、全ての獣たちを愛していた彼女はそれを受け入れ、人々を見守り続けているのだ。


 いずれ、ラケルタ島を不当に占拠する死霊たちも消えるだろう。リヴァイアサンはそう言った。しかし、愛するマルの魂と己の力が戻ってくるまでは、この場所を守り続けることも難しくなっていくだろうと。

 彼女は嘆いていた。己の無力さを。そして、歌っていた。それでも自分を信じ続けてくれる人々への愛を。その全ての人々のために震えながら立ち上がろうとする聖女と、聖女と死を共にしようと決めた私への愛を。

 リヴァイアサンは愛を歌っている。そして、願っていた。その愛の歌が、鱗を口にした私を通して罪人の心すらも癒し、人として葬られるようにと。


「どうやら聖竜は、奴を恨んでいないらしい」


 アマリリスにそう言うと、力なく目を細めた。


「そうでしょうね。だって、彼女は獣を愛して陸へ運んだ聖竜であって、彼はその愛すべき獣の一人なのだもの」


 確信に近い言葉に、私もまた頷いた。


 恐ろしく厳格だと聞いたこともあったが、実際には違うようだ。

 産まれた子を平等に愛することのできる慈愛に満ちた母親のように、無力と化した今も世界を見つめている。彼女の歌には深い愛が籠っているのだ。たとえそれが人々に聞こえなくとも、自らの血を引く一部の者達にしか届かなくとも、彼女の愛が歪むことはないのだろう。

 これが聖竜――かつては神とも呼ばれた者。無残に殺され、大切なものを奪われ、その無力な心のみが残された今であっても尊さは変わらない。


 リヴァイアサンの愛の込められた鱗の力は、私を通してゲネシスとサファイアにどう影響するだろう。巫女と聖獣の力を悪用する彼らの行為を阻むだけのものとなれるだろうか。

 不安は残ったままだが、今は信じて進むしかない。


 そうして、私たちはニフテリザに面会した。無事を伝えるため、そして、長くなりそうな別れを告げるために。


「とうとうこの時が来てしまった」


 私たちを前に、ニフテリザはそう言った。

 今日の彼女はこの間よりも幾分か顔色がいい。だが、その表情は今にも泣き出してしまいそうなほど暗かった。


「奇跡が起こって、私も一緒に行けるようになったらどんなに良かったか。でも、そんなことは起こらなかった」


 悲しげなその瞳にかける言葉も見当たらない。私は勿論、アマリリスであっても、だ。そんな私たちを前に、ニフテリザは少しだけ表情を変えた。泣き出しそうなほど暗いのに、目を細めて微笑もうとしている。


「私に出来ることは、ここで待っていることだけみたいだね。でもきっと、それがいいんだ。私は特別な力なんてない。ただの人間の女だから」


 アマリリスがそっと寄り添い、その手を握り締めた。


「どうか分かって、ニフテリザ。あなたがここで待っている。それがどれだけ価値のある事なのか。あなたが待っていると思うから、きっと頑張れる。だから、どうか絶望しないで。ここでゆっくりと待っていて欲しいの。私たちの為に」


 ニフテリザはじっとアマリリスを見つめ、ちらりと私を見やった。

 私もまたアマリリスに同意を示す意を込めて頷いた。


 ニフテリザがここにいる。それだけで、アマリリスはリリウムに尽くし、生き続ける理由が生まれるのだろう。

 かつて、ルーナがその役目を担っていた。彼女との未来は、彼女にとっての希望だった。その希望を失った今、絶望の中で枯れ果てるしかないのか。いや違う。失った希望が取り戻せなかったとしても、新しい希望を見つけ出してくれればいい。


「待っているよ」


 ニフテリザは頷いた。先ほどとは大きく違い、その声には力強さがあった。


「ここでずっと、ずっと、待っているから。無事に帰ってきて、私に話してくれる日を。二人とも一緒にね」


 潤んだその目がとても美しかった。いつまでも観ていたい。そう思うような瞳だった。


 しかし、程なくして、心細い旅立ちの時はやってきた。


 角人たちの住まうシルワとの連絡が取れたと報告が入ったのだ。これで、いつでもレスレクティオ教会へと向かえる。旅支度もとうに済ませてあった。

 決して、アマリリスとの二人旅ではない。帰郷がてら共に歩むイポリータや、さらにその先のカエルムを目指すラミエル、そして竜人たちの協議によってイムベルに留まることになってしまったウィルの代理人として、カルロスとグロリアとが共をすることになっていた。

 それなのに、どうしてこんなにも心細いのだろう。


「ウィルは残るのだな」


 顔合わせが済んで、ウィータ教会の者たちとの別れの時、私はそっとウィル本人にそう訊ねた。竜の目をやや小さくして、ウィルは答えた。


「これが決まりですからね。私はここでリヴァイアサンの心を癒し、海巫女マル様の魂が故郷へと戻るその日まで待たねばなりません」

「――そうか。ならば再び会える日は随分と先になりそうだな」


 言葉にしてみれば、少しだけ寂しいような気もした。他人などどうでもいいと思っていた頃もあったのに、どうしたことだろう。


「あなたの方からまた会える日の話が出るとは思いませんでした」


 ウィルは苦笑を浮かべ、そう言った。


「悪いか?」


 そう言ってみれば、ゆっくりと首を横に振る。


「いいえ、光栄なことです」


 穏やかな口調で彼がそう言った丁度その時、ウィータ教会の鐘の音が聞こえてきた。


 控えめで厳かなその音色が心に沁み渡る。かつてあの音は不気味で、不吉なもののように思えていた。人外のものとして人間たちを憎み、そして羨望しながら生きていた頃の話だ。今はそうではない。

 我々の旅立ちを祝福するようなその音に聞き惚れていると、ラケルタ島の方からその鐘の音に合わせるように声が聞こえてきた。私と、そして、アマリリスが同時にその方角へと見つめた。ウィルや周囲にいた竜人たちも同じだった。

 鐘の音に合わせてリヴァイアサンが歌っている。ぼんやりと聞いているうちに、その声に込められた意がじわりと伝わってきた。


「我、憐れむ、人の子を、命を奪った、か弱き心の……」


 理解できたままに言葉にして、はっとした。ゲネシスのことだと分かったからだ。

 ウィルが表情を曇らせた。


「あんな目に遭っても、目の前で愛するすべてを失っても、我らの母は断罪すべき大罪人を心から憎むことはできないのですね」


 淡々と語る彼の表情は浮かないものだった。


 この戦いでゲネシスによって殺された者は多い。ウィルもまた大事な人々を失い、そして死霊たちによって新たな苦しみを植え付けられた。ラケルタ島での襲撃でも、秘宝の奪還でも、全てを指揮する死霊の女王サファイアは勿論のこと、実際に命を奪い、破壊していったゲネシスを少しも憎まない等とどうして言えるだろうか。

 同じ歌を聴く竜人たちは、それぞれが苦悶を覗かせながら俯いていた。それでも、ウィルは彼女の意図を理解すべくラケルタ島の方角を見つめ続ける。

 やがて、リヴァイアサンは美しい声で咆哮した。およそ人間の言葉とは言えないその声は、だからこそ獣らしく、竜らしく、私の本能へと直接届いた。


 ――わが愛を受け継ぎし聖女とその友に祝福を。


 アマリリスはラケルタ島の方角を見つめていた。

 彼女にこの言葉が正しく伝わっているのか、それは分からない。ただ、リヴァイアサンの声に含まれる感情が、好意的なものであることは理解しているようだ。ウィルもまたそっと目を細め、彼女の声が止むと再び私たちへと視線を戻した。


「アマリリスさん、あなたは我らの母にも認められた聖女です。偉大なるその力は不当に奪われましたが、聖竜の正しき心はあなたと共にあります。そして、カリスさん、あなたもまた秘宝を口にし、こうして我らと共に聖海の声を聞けるようになりました。竜の子の一人としてあなたに敬意を払うと共に、その行く先が明るいものであることを祈ります。その証として、あなたに渡すものがあります」


 柔らかくも威厳ある竜の目が、私を見つめている。

 ウィルの言葉に従って、竜人の修道士が物陰から何かを持ってきた。美しく輝いているそれ。ひと目見て、ぎょっとした。――聖剣だったのだ。


「あなたが持ち歩いていたものです。エスカという聖戦士に与えられたもの。教会によって清められ、鍛え直されました。カリスさん、これをあなたに託します」


 渡されるままに手に取って、私は茫然とした。

 エスカの聖剣。もともとは、アマリリスを殺せるかもしれないと思って持ち逃げした武器だ。ゲネシスとの一件で状況は大きく変わり、リリウムに味方する間に返した剣でもある。

 人狼である私には必要ない。今後は相応しい者が持つように。まさか、戻って来るとは。


「間に合ってよかった。人狼のあなたには不要と思われるかもしれない。ですが、きっとこの先の戦いで役に立つときが来るでしょう。次こそはこの刃の煌きが正義のためのものとなりますように」


 そう言って、ウィルは私とアマリリスの背後にいるカルロスたちへと目を向けた。


「友よ、後は頼みます。ここを動けぬ私に代わり、どうかお二人をお守りください」


 ちょうどその時、私にとっては煩わしい太陽の光が遮られた。

 見上げれば、空からは音もなく塵が降ってくる。美しい雪のようなそれが地上へと降りる頃には、魔の血を持たぬ野次馬の一部が室内へと避難していた。グロリアもマントで口と鼻を覆い、不快そうに眉を顰める。だが、私とアマリリス、そして共に旅立つ大半の者達と、外で見送る竜人たちは先ほどと全く変わらない。


 塵の中で私たちはそっと別れを惜しみ、そして旅立った。

 イムベルの家々はすっかり閉ざされ、塵が平気なはずの竜人の姿さえも見ない中、ひっそりと都を出て行く。この戦いのことを、人々はどれだけ意識し、どれだけ関心を持つのだろう。未知のものに怯える彼らにとって、私たちはどのような存在なのか。

 どうであれ、私たちのやるべきことは変わらない。ゲネシスが止まらぬ限り、そして、アマリリスが歩む限り、私もまた向かうべき未来へ進むしかないのだ。


 まずはシルワへ。そこに待つ生き残りとベヒモスの亡霊の元へ。


 都を抜け、小高い丘を上がった辺りで、ふと呼ばれたような気がして振り返る。塵はまだ止んでおらず、一望できる都の殆どが真っ白だった。その向こうに見えるラケルタ島も霞んでいる。呪われ、そして清められた大聖堂の姿はあまり見えない。だが、敗北と無力感に苛まれたあの場所から、囁きかけてくる者がいる。

 まるで別れを惜しむかのように、あるいは、激励するかのように、彼女は再び歌い始める。美しく、物悲しく、それでいて不思議と力が湧いてくる歌だった。だが、この歌声はグロリアやカルロスには勿論のこと、ジズの子であるラミエルやベヒモスの子であるイポリータには聞こえなかったらしい。アマリリスだけが私と共に振り返り、そっと声をかけてきた。


「分かるの?」

「全てが分かるわけじゃない。だが、私たちの旅を祝福しているらしい」

「……そう。それなら、私が聞いているのとほぼ同じね」


 そう言って、アマリリスは先へと進んだ。


 塵の中でも目立つ赤い礼服が妙に不気味に見えた。恐れる必要は何処にもなく、何度も心を通わせられたと感じていても、なお、私はまだ彼女の心を理解しきれていない部分がある。聖女となった彼女は、何処まで指輪や聖獣たちに干渉されているのか。

 今の私と彼女は、何処までその繋がりを深めてしまっているのか。

 先の見えぬ不安を少しでも感じてしまうと歩みも止まりそうになる。だが、そんな私の背中を押すように、リヴァイアサンは柔らかな声で鳴いていた。


 信じて進め、そう言っているようだった。

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