8.共に歩むために
「何処へ行っていたの?」
部屋の影へと戻るなり、アマリリスはすぐさま問いかけてきた。姿は見せていないが、さすがに気配には気づくらしい。大人しく彼女の声に応え、私は影から這い出した。狼のまま目を向けると、アマリリスの寂しげな瞳がこちらをじっと見つめてきた。
「一緒に居てくれるって言ったじゃない」
「会議が気になったんだ。それに、お前はよく眠っていたから」
激闘を乗り越えて、ウィータ教会に戻るなり、アマリリスは倒れ込むように眠ってしまった。半地下に閉じ込められていた頃とは比べ物にならないほどいい部屋を用意されていたため、その寝顔を取り囲むのは安心感ばかりだ。それに、眠りは深く、ちょっとやそっとでは途切れないと思われた。それでついつい抜け出したというわけだ。
どうやら、聖女様はご不満な様子。寂しかったというのが一番だろう。しかし、理由は他にもあった。アマリリスが俯き、そして直接訪ねてきたことでそれは分かった。
「〈リヴァイアサンの鱗〉を誰が宿すのかを話していたのでしょう?」
答えに詰まる私を、アマリリスは軽く睨む。
「魔女を甘く見ないで。心を読む魔術だってあるの。唱えなくたって、今のあなたの心はよく読めるわ。だって――」
私以上に動揺した様子で、アマリリスは声を詰まらせる。
「だって、あなた、本当はまだ迷っているのだもの。秘宝がそんなに危険なものだったなんて。誰もが怖がり、やりたがらない、やらせたがらない。そんな役目をあなたは引き受けてきてしまったのね」
「仕方ないだろう」
すぐさま私は言い返した。どういうわけか、声が震える。自分を励ましつつ、震えを抑え込みながら、私はアマリリスに反論した。
「誰かが試さなくてはいけない。お前ひとりでは、あいつらに勝つことは出来ないのだ」
机に置かれた〈リヴァイアサンの鱗〉の怪しい輝きを思い出す。アマリリスが必死に握っていたあれには、喉から手が出るほど欲しい力が込められている。
捧げるのは未来。聖女の在り方次第で、私は破滅へと歩むことになるだろう。しかし、それが何だというのだ。ゲネシスに対抗できるかもしれないのに。
「強大な力だ。巫女様方の生まれ持つ力よりも強烈なもの。かつての聖女だってその力を味方につけて戦ったと言われているらしい。だが、かつては知られていなかった欠点が分かってしまった今、この場所の竜人たちを引っ張っていかねばならないウィルに、この役目は負わせられない。ウィルだけじゃない。リリウムの者たちでは駄目だ。ならば、リリウムの者ではない私しかいない」
声だけは力強く。しかし、我ながら、まるで言い訳のようだった。
「お前を守り、あいつを止める。私が、そう決めたんだ」
とっさに出たその言葉はアルカ語ではなかった。必死になって口にしたその言葉は、拙いイリス語だった。今はもう滅んでしまった亡国イリス。その末裔たちはカシュカーシュ帝国の中で今も暮らしているが、命懸けで抜け出し、ハダスよろしく流浪の民となった人間も多いらしい。それは、イリスに根付いていた人狼や魔女も同じ。私の父母もそうだったのだろう。
しかし、覚えてはいない。私が覚えていたのは、カリスという名前と体に染みついたイリス語だけ。そして、イリス語が通じたアネモネの温もりだけだ。後は殆ど忘れてしまった。ラヴェンデルの田舎でアネモネと別れた時に、記憶や愛着ともども風に攫われていってしまったのだ。
一番話しやすいのは生まれ育った地で話したラヴェンデル語だ。それでも、私はイリス語を忘れていない。感極まっている時は、どうしてもイリス語が出てしまう。今回も、そうだった。
ため息を吐き、アマリリスは私に言った。
「傍にいてくれるだけでいい」
努めたようにアルカ語ではっきりと告げる。
「彼と戦うことは止めない。でも、私を守らなくてもいい。あなたにはあなたの未来があるはずよ? それなのに、どうして? どうしてそこまで犠牲になろうとするの?」
イリス語を容易に聞き取れるのは先ほど言っていた魔術のせいだろうか。そうだとしても、そうでないとしても、ますますアネモネと被ってしまう。顔や雰囲気だけではない。優しく諭すようなその温もりもまた、私の憧れた魔女のようだった。同じ〈赤い花〉だからなのか、それとも――。
巡り出そうとする思考をいったん止め、私はアマリリスに応えた。アルカ語をひとつひとつ思い出しながら、こちらもはっきりと口にした。
「お前を失いたくないからだ」
考えがまとまると、途端に迷いも晴れた。アマリリスへと近づき、その手に鼻先をつける。狼の姿のまま、じっとその顔を見上げた。
「今のお前の苦しみの、その責任は私にもある」
「責任?」
問い返す彼女の目を見つめながら、これを認めるのはとても怖かった。しかし、言わずにはいられない。
「お前をリリウムに売ったのは私だ。私なんだ。ゲネシスに話し、ゲネシスを通じて、お前を保護する作戦が始まったのだ。全ては偶然じゃない。仕組まれた事だったのだ。その結果、ニフテリザが傷ついたのも、ルーナが命を落としたのも、全部、私が――」
「もういい。それ以上、言わないで」
アマリリスは強い口調でそう言った。そして、俯いて私の視線から逃れると、掛布を手に握り締め、ゆっくりと両目を閉じた。
「あなたの仕組んだことだとしても、私の苦しみはあなたのせいじゃないわ。あのまま途方もない旅を続けていたって、いつかは限界が来ていたでしょう。私が聖女にならなくたってサファイアはきっと私を摘もうとしたでしょうし、そうでなくともきっと、違う脅威が私たちを襲っていたわ。何処へ行っても私は〈金の卵〉の泥棒であり、善良に生きようとする人狼たちでさえ対象とする殺戮者だったのだから」
目元からこぼれ、頬を伝う涙が白く輝いていた。私を責めることなく、アマリリスは何度も呟く。
「あなたのせいじゃない。責任なんて感じなくたっていいの」
その手にそっと鼻先をつけ、私もまた彼女に対して呟いた。
「責任だけじゃない。お前を恨み、殺そうとしたことだってあった。それでも、やはり殺せなかった。お前は似ている。似すぎている。まだ私にとって世界が希望で溢れていた頃に観た、優しい人の姿に。――分かっている。お前はアネモネじゃない。けれど、聖女となったお前が見せる優しさは、アネモネのものに似ている」
その手に縋りながら、両方の前脚を寝台にかける。人の姿になろうという余裕さえ、今はなかった。
「お前は戦いを避けられない。その隣に立つには、人狼の力だけでは足りない。このまま神や大地に祈り、運命に身を委ねるだけなんて嫌だ。私も力が欲しい。その代償に未来を捧げることになろうとも、お前と共に奴らに立ち向かえるだけの力が欲しい」
「――その結果、私と心中することになっても?」
低く、疑うようなその声に、私は顔をあげた。目を合わせようとしないその顔を見つめ、強く、はっきりと答える。
「ああ、そうだ」
そこで、やっと心に余裕が出来た。人の姿に戻り、その手でアマリリスの手を強く握る。握り返してくる気配はない。それでも、私は手を放さなかった。
「お前と心中することになっても、私は後悔しない。取り残されるよりも、ずっといい。お前がいない世界をただ放浪することになるくらいならば、お前と共に駆け抜け、お前と共に散りたい」
たとえ、私ではルーナの代わりにすらなれなくとも。
他の人狼たちは、こんな私を見下すだろう。魔女に飼い馴らされた牝犬。家族同然に育った仲間の仇を討つどころか、その相手に尻尾を振って、地獄まで付き合おうだなんて。
しかし、今はこれしか考えられなかった。誰かが寄り添わねばならないのだ。それならば、自分でいい。友も愛する人も失った自分でいい。
アマリリスは黙ったまま私を見つめていた。魔女のようにその目に宿る感情が覗けたらどんなにいいか。生憎、人狼にはそのような力はない。私に分かるのは、せいぜい相手の感情の匂いくらいだ。それすらも、今は花の香りのせいで紛れている。
甘い香りを漂わせて、アマリリスは呟くように言った。
「約束して」
私をじっと見つめ、命令染みた懇願をする。
「絶対に、自分だけ死んだりしないと約束して」
そして、握り締めたその手を、強く握り返してきた。
誓いは間違いなく受け取られた。
「私が死ぬときにあなたも道連れになるのなら、その逆も同じよ。あなたが死んだら、私も死ぬ。そのくらいの気持ちで寄り添っていて欲しいの。決して、一人だけで無理をしないって」
「分かった」
繋いだ手の温もりを味わいながら、私はアマリリスの瞳を見つめた。
「約束する。お前の許可なく死んだりはしない」
もしかすればこれは、気休めに過ぎないかもしれない。しかし、はっきりと、自信をもって、私はそう誓った。人々が聖女と崇めるこの花はとても頼りない。強風が吹けば、たちまち折れてしまうだろう。ならば、私が傍にいればいい。
大丈夫。聖女の指輪が私たちを繋いでくれている。広い世界を放浪してきた狼狩りの魔女にとってはとんでもない拘束具であるだろう。それでも、私と彼女の絆を産むのならば、その存在に感謝する他ない。
爪先でその指輪に触れると、アマリリスは薄っすらと笑みを浮かべた。
「ありがとう」
小さくそう言ってから、アマリリスは少しだけその笑みを濁す。
「あまり触らない方がいいわ。この指輪が外れてしまうのが怖いから」
本気で怖がっている様子の彼女に、私はそっと声をかけた。
「外れれば、やっぱりお前は私を殺したくなるのだろうか」
忘れているわけではない。ルーカスも、エリーゼも。
それでも、時間が経つにつれ、記憶も感情も段々と薄れていくものだ。今や、指輪を取った時のアマリリスの表情をうまく思い出せない。あからさまに狂っていたようにも思えるし、幾分かその記憶も脚色されているような気さえする。
はたまた、ルーカスやエリーゼが殺された記憶は本当だっただろうかと疑う始末。それでも、アマリリスの見せる不安そうな表情が、私の心を引き締めた。
「多分ね」
暗い声で彼女は言った。
「指輪を取った瞬間、私はきっと今の私じゃなくなる。あなただけじゃない。リリウムの教徒として直向きに生きるカルロスたちにだって、私は牙を剥くでしょうね」
私はそっと指輪から手を離した。
代わりにその手首を握り締め、しばし考える。
リリウムには暗い歴史が刻まれている。〈赤い花〉伝説もその一つだ。皆が秘宝を恐れ、隠し続けることとなったきっかけは、何も知らぬかつての聖女が何らかのきっかけで魔女に戻ってしまったことだった。
もしも、アマリリスがかつてのアマリリスに戻れば、やはり同じ運命は避けられない。
「怖いのよ」
アマリリスは言った。
「全てが怖くて不安なの。指輪一つで全てが変わってしまう。実際、そうなってしまえば、何も感じないのでしょうね。かつての私が、日々、淡々と食事をしていたように。それでも、怖い。善良に生きる人狼たちすらも殺してしまうかもと思うと、今はぞっとするの」
俯いたまま、彼女は力なく笑った。
「私は魔女よ。生まれついての魔女。魔女はその性から逃れられない。逃れようとしてはいけないの。だから、本当は、今の私の方が狂っているのかもしれないわね。魔女としての誇りよりも、指輪のくれる安らぎを重んじて、自ら人々の用意した鎖に繋がれているのだもの」
それでも、と、アマリリスは両手に力を込めた。
「私はそれでもいいの。たとえ……たとえ、この先、〈金の卵〉たちが受けるような憐れみの目で見られたとしても」
そう言って、彼女は言葉を詰まらせた。
聖女と呼ばれれば聞こえはいいが、実際の待遇はどうだろう。アマリリスだって忘れやしないはずだ。その血統の保護のために、教会の者たちが取る行動はあまりにも極端だ。地下に閉じ込められ、自由に外にも出られなかった頃の記憶はきっと薄れない。それに、この先だって同じようなことがある可能性も高いままだ。
指輪の恩恵とこの待遇は釣り合っているだろうか。生きること、それ自体は保障されていても、自由はなく、ともすれば自分の意思によらない改宗や、婚姻が強制されないとも限らない。表の世界であっても、その実際は花売りの暮らすという地下世界とそう変わらないのだとしたら。
あらゆる疑問はいつだってアマリリスの心を揺り動かすだろう。それなのに、彼女は指輪を拒まない。それは、何故か。
「だって」
アマリリスは私を見つめ、声を震わせながら言ったのだ。
「だって、この指輪があるから、あなたと共に生きられるのだもの」
そして、両目を瞑った。
私はしばらく茫然と、彼女の顔を見つめていた。思いが通じず、苦しみを味わった時間はどれだけ続いただろう。その重みと苦痛を、私は必死に忘れようとしてきたのだ。
しかし、今になって私は目頭が熱くなるのを感じた。絶望と暗闇の中でひたすら逃げ回っていた日々は終わったのだ。それを強く実感した。何もかも、すべて、指輪は変えてしまった。憎らしく、そして恐ろしい仇は本当にもう、何処にもいないのだ。
「……カリス」
窺うようなアマリリスの声に、私は慌てて片手で目元を拭った。涙を見せるのは、全てが終わってからだ。無事に帰り、共に生きよう。戦った聖女への称賛が優しい監禁だったとしても、彼女が望むのならば私は人々に牙を剥かない。大地と精霊に、そして、リリウムの者たちを見守るという神に誓おう。
私は目を細め、そしてアマリリスを見つめた。
「お前がどう生きようとも、一緒にいると誓うよ」
まるで恋の囁きのようだと内心笑った。それでも、この気持ちは本当のものだ。
人狼は嘘が得意だ。しかし、これは嘘ではない。数多の人狼の嘘を見破り、そのまま闇に葬り去ってきたアマリリスもまた、そう感じたのだろう。
私の手を引き寄せると、そのまま胸元で抱きしめ、耳を澄ましてようやく聞こえるほどの声で呟いた。
「ありがとう」




