7.秘宝を授かる者
誰がその秘宝を口にするのか。
命からがら持ち帰った〈リヴァイアサンの鱗〉を前に、教会の者たちは長い間話し合いを続けていた。こうしている間にも、ウィータ教会まで死霊の使いが現れるかもしれない。そんな不安は誰だって分かっているはずだ。しかし、それでも、教会の者達の話し合いはなかなかまとまっていなかった。
疲れた体を癒すようにともてなされ、その陰で進められていた会議を盗み聞きしてみれば、そのあまりの遅さに苛立ってしまう。
誰もが恐れているのだ。かつては神獣とまで言われた存在と心を通わせられるというこの怪しげな秘宝を口にすること、そして、口にさせることを。
一体、なぜ。
真っ先に手を挙げたのは、やはりウィルだった。かつて、この秘宝は竜王と呼ばれる竜人たちの長が口にしていた。多大な力を得て、リヴァイアサンの目の届く範囲において絶大な権力を有したという。それならば、その末裔であり、正式な継承者であるウィルが名乗りをあげるのもおかしい事ではない。
しかし、リリウム教会の聖職者たちはあまりいい顔をしなかった。遠回しに却下するような態度までとって、ならば誰がいいなどという話は出ない。ウィルはその言葉に不服そうな表情を浮かべつつ、押し黙ってしまった。
かつての竜王も、今や人間たちの顔色を窺わなければ自由に物事を決められないらしい。他の竜人たちもまた、苦い表情を浮かべていたが、何処かほっとしたように見守っている。そして次に名乗りを挙げたのは、まだ傷の癒えぬメリュジーヌだった。
「ウィルに何かあればとお考えになっておられるのなら、私で試してみてもいい。言い伝えが本当だとしても、ウィルとは違って、私の代わりならばいくらでもいる」
――試す? 私の代わり?
どうやら秘宝を口にすること、させることを躊躇っているのには深い訳があるらしい。
口にする者に何か良くない事でもあるのだろうか。盗み聞きしている私には都合の悪い事に、全ての者がそれを知っていること前提で会議は進んでいく。
「あなたの代わりなんてそうそういませんよ」
穏やかな口調でシメオン司教がそう言った。ただ、表情は浮かない。〈リヴァイアサンの鱗〉を誰に押し付けるのか。それを決定できるのは彼であるが、決め切らずにいるようだ。きっと慈愛の心が満ち足りている代償に、冷酷さを欠いているのだろう。
「やはり……アマリリスさんにお願いした方が」
そう言いかけたのは、共にいた助祭であった。しかし、傍らにいる司祭がそれを制する。
「彼女は貴重な存在だ。これ以上、負担をかけてしまえば今度こそ取り返しのつかないことになるかもしれない」
そう言う彼の言葉も、この場の誰もが納得するものなのだろう。
話し合いは滞り、倦怠感あふれるため息が複数漏れ出した。これでは時間の無駄だ。
会議室の隅の影より、私は狼のまま飛び出した。司教など会議に参加していた者の数名は私の姿に純粋に驚き、あるいは、嫌悪感を示したが、ウィルたちはあらかじめ知っていたかのように受け止めた。
メリュジーヌの鋭い目がこちらを睨みつける。話が進まない苛立ちがよく表れていた。しかし、その口から飛び出したのは、文句でも叱責でもなかった。
「何か意見でもあるのか?」
厳しいが、気遣いすら感じられる問いかけだった。
「ある」
私は慌ててその機会に乗った。
「質問したい。いったい、何が問題となっているのだ。我々はその秘宝を命懸けで回収してきたじゃないか。罪人共の力を弱体化させる希望ではなかったのか。どうして、こうも話が進まないのだ?」
止められる前に、訊ねたいことを全て口にした。言い終えたところで司祭が我に返り、私に対してあまり友好的でない指示を出そうとしたかに見えたが、その直前にシメオン司教が口を開いてくれた。
「伝説が何処まで真実なのか、それは分かりません」
そう断ってから、彼は語る。横に座る司祭は不満そうにしつつも口を閉じた。
「しかし、聖獣たちと心を通わすこの秘宝には、無視するには忍びない不吉な話もあるのです。生きとし生ける者には神の定めた器というものがあると言われております。しかしながら、世の中にはその器を超えた力を授ける品物がある。聖女の指輪もそうですし、あなたが確かに見たという操縦の指輪もそうです。そして、この秘宝もまた同じなのです」
穏やかなその目が、机の上に置かれた美しい〈リヴァイアサンの鱗〉を見つめた。透明な皿に盛られたその欠片は、物言わぬまま、ただただ青く輝いている。
「こういったものは、力を得る代わりに何かが犠牲になるものです。本来とは違う力は、それだけ体の負担となる。そういうものなのでしょう。この秘宝は命を削るとも言われているのです」
彼曰く、神獣たちの子孫として栄えた魔物の三王もまた、あまり穏やかとはいえない日常を送っていたと記されているという。
秘宝を口にすることで、自由も、尊厳も失ってしまう。それが、決して絶対的とは言えないこの力を得る代償であるらしい。この聖地にリリウムの風が吹いて以降、救われたのは生贄にされていた花嫁たちだけではない。王たちもまた、秘宝を口にして寿命を縮めなくて済むようになったのだと。
「それだけではありません。この秘宝を巡っては、ある恐ろしい記録が残っています」
シメオン司教は暗い表情のまま語った。
「以前、この秘宝が動かされた記録のある年に、これを口にしたのは花嫁守りたちであったと言われております。古き伝統に従って、長らく封印されてきた秘宝の力を得て、花嫁守りたちは守り切れなかった巫女たちの為に戦いました。そして、彼らの助力が〈赤い花〉の聖女を助け、罪人を悪から解放することに成功したのです。世に平和が戻り、聖女たちは人々に称えられました。ところが、聖女の運命は大きく変わりました。指輪をイグニス大聖堂に返して間もなく、彼女は段々と人が変わっていってしまった。そしてとうとう、到底許せぬ罪を犯し、破滅を迎えてしまったと伝えられています。……つまり、火刑に処されたのです」
シメオン司教の率直な説明に、周囲がややぎょっとした。この辺りは本来、ぼかして語られるのが常なのだろう。何の性を背負い、何をしでかしてしまったのか、全く知りはしないことだが、アマリリスのことを思えば想像が難しいわけではない。
それでも、世界を救ったはずの聖女を焼き殺したなどという歴史は、現代に生きるリリウムの者達も出来れば忘れたい、葬りたい負の記録なのかもしれない。
そんな中、シメオン司教は淡々と語った。
「人々はかつての聖女の栄光を忘れ、ただ罪を憎み、変わってしまった彼女を炎の中に葬り去ることで全てを忘れようとしました。しかし、異変はその直後にありました。それぞれの聖地にて、かつての戦友の為にせめてもの祈りを捧げていた花嫁守りたちが、全員、原因不明の死を迎えたのです」
「……死んだ?」
異様な話に、息を飲んでしまった。
秘宝を口にした者たちが、聖女の処刑と共に不審な死を迎えた。偶然にしては不気味すぎる話だ。
「本当にそれが秘宝のせいなのか、それは分かりません。ただ、これ以降の記録では、秘宝を口にする者は、聖女に選ばれた者と運命を共にすることになると語られるようになりました。これを回避するには、聖女その人が秘宝を全て口にした方がいい。しかし、指輪の力で無理をしているその身体に、かの秘宝の力を三つも背負わせることもまた、危険すぎること。心身が持たないとも伝えられています」
なるほど。
秘宝はせめてもの希望に過ぎない。ゲネシスの力をすぐに無力化できるものではなく、その力に抵抗できるかもしれないというあやふやなもの。集めれば必ず勝てるというものではないのだ。
それなのに、代償は大きい。誰にでも与えられるようなものでないくせに、失えば困るような人物が口にしていいものでもないのだ。
「語り継がれていることの全てが本当なのかどうか。疑えばきりがありません。しかし、この秘宝に関する数多の伝承は、厳重に管理されてまいりました。そうしなければならないと判断した先人たちのことを思うに、我々も慎重にならざるを得ないのです」
シメオン司教の言葉に、しばしの沈黙が流れる。
誰だってアマリリスが将来、処刑されるような事態を望んでいるわけではないだろう。それでも、何があるかは分からない。志半ばで殺される事があるかもしれない。その時に、道連れにされる覚悟があるのかどうか。あるいは、誰かを道連れにさせる覚悟があるのかどうか。
だから、この場に手を挙げる者がいても、皆、なかなか頷けないのだ。
「聖女と心中か」
言葉と共に思わず笑みが漏れだした。
力も権力もある連中が、こぞって恐れているのは自らの尊厳を侵しかねない死の呪い。だが、この呪いも呪いとして通用しない者はいるのだ。私がそうである。
「悪くない」
小さく呟き、私はシメオン司教を見つめた。この場で決定権があるのは誰か。旧時代のままであれば、それはウィルだっただろう。しかし今は違う。今は、リリウムの時代である。そこが光明の照らす人間たちだけの為の世界であろうと、その人間たちに寄り添って生きる私もまた、無駄に逆らうつもりはない。
だから、私はシメオン司教に素直な気持ちで希った。
「その秘宝、私が口にしたい」
途端、会議室がしんと静まり返った。共に戦った聖戦士たちは各々が渋い表情を見せ、聖職者たちが次第にざわつき始めた。私を見つめる視線の半数は戸惑い、一部は敵意すら感じられた。聞こえてくるのは友好的とは言えない単語。早口のアルカ語を聞き取るのは困難だが、それでも、何を言っているか分からないわけではない。
彼らは恐れている。必死に守ってきた秘宝を、異端の者に託すという選択を。それでいて、自分たちが口にする勇気はないのだからおかしなものだ。
喧騒が段々と議論へと変わろうとする中で、シメオン司教は竜の血を思わせるその目で私の顔をじっと見つめていた。穏やかだが、探るような鋭い眼差しだ。それを正面から受け止めるには人狼の私であっても勇気がいった。それでも、私は目をそらさずに、真っすぐ彼だけを見つめていた。
「……猊下」
司祭がそっと助言を口にしようとしたその時、シメオン司教は軽く片手をあげた。
「カリスさん」
優しげだが厳しさを含む声で、彼は私の名を呼んだ。
「あなたはご自分の言葉の意味をどれだけ理解しているのでしょうか」
諭すように、揺さぶるように、私へと問いかけてくる。
「今は深い縁があなたとアマリリスさんを結んでいるかもしれません。しかしその精神的な繋がりは、いつか、何かがきっかけで解けてしまうことだってあります。その時に、あなたは後悔するかもしれませんよ」
「それすらも覚悟の上だ」
私は心から主張した。
アマリリス。彼女と出会ってからというもの、私の日常はすべてあの女に縛られてきた。生活を共にする家族のような友人を失い、その妹まで目の前で殺され、人狼の誇りを踏みにじられた頃だって、私の人生はアマリリスのためにあったのだ。
どうやって捕らえ、殺せばいいのかばかり考えていた日々もあった。その為にずっと監視を続けていったのだ。いつの間に、こんな関係になっていたのだろうか。今となっては分からない。
ただ変わらないものもある。私にとってこの世の中は、アマリリスがいるかどうかが大事なのだ。捕らえ、殺し、その後は何もない。復讐をしたところで、虚しさは解消されなかっただろう。ただ空虚な思いのままに生き、野垂れ死ぬだけ。だがそれも、過去に予想した未来の私の姿なのだ。
しかし、アマリリスは変わってしまった。
血塗られた狼殺しの毒花はもういない。ここにいるのは弱々しく、それでいて誇らしく咲く聖花だけ。
ずっと傍に寄り添い、せめて聖女を聖女とするために、私は奔走した。恋心という悪魔に盲目にされ、混乱しながらも、絶望の世界の中で咲くただ一つの希望としてきたのだ。そうやってどうにか今まで生きてきた。
今更、アマリリスのいない世界など考えられるだろうか。
「不確実な未来を恐れるよりも、決断せずに後悔する方が私には怖い。この先、何が起ころうとも、それは全て私自身の責任だと覚悟は出来ている」
今の私にはもう、彼女を見捨てる事なんて出来ないのだ。
「――そうですか。あなたのお気持ちはよく分かりました」
シメオン司教は静かにそう言うと、考え始めた。
少しだけ聖職者たちが囁き合う。旧時代から慎重に保管されてきた秘宝を、部外者――それも洗礼も受けていないような魔物が口にするなど、彼らには理解しがたいことかもしれない。じっと司教の判断を待っている者もいるが、その表情は苦々しい。
いずれの判断も、この場にいる全ての者が納得できるものとはならないだろう。誰かが〈リヴァイアサンの鱗〉を口にしなければならない。恐ろしい未来が待っているかもしれなくとも、誰かがアマリリスと運命を共にしなくてはならないのだ。
これからもイムベルとマルの里を引っ張っていかなければならないウィルやメリュジーヌ、踏みにじられたこの世界で怯える人々を守らねばならないカルロスやグロリアなどの聖戦士たち、ただでさえ指輪と死の別れで心がかき乱されているアマリリス、一聖地の責任と決定という重い役目を担うシメオン司教。そして、未知の力に怯えるその他の者達。他に誰がいるという。この場の誰よりもアマリリスを見てきたのは私であるのだ。
後悔するものか。後悔できるものか。
「我々に猶予はありません」
私の目をじっと見つめながら、シメオン司教はそう言った。
「こうしている間にも、死霊たちの暴力が力なき者たちを虐げ、命を奪われているかもしれません。そして、悪意に付け込まれ、多大な罪を犯した我らが友人の心もまた、今もなお苦しみの渦中にいるはずです。人間として生まれ、人間として生きてきた彼を、人間に戻すことが出来るのは、彼をずっと見ていたカリスさん、あなたかもしれませんね」
会議室の空気が変わる。
ある者は真摯に受け止め、ある者はいまだ不満そうな表情でシメオン司教を見つめていた。しかし、納得している者が少ないわけではない。ほっとしているような者もいた。また、不満と不安はあっても、代わりに自ら名乗りを上げる者もいなかった。
「あなたの決断が、今後もずっと主の御手によって守られますよう」
シメオン司教の渋みのある声が会議室に響き、イムベルの秘宝の行く末は決まった。
この決定が、私の生き様をどのようなものにするだろう。不安が全くないと言えば嘘になる。だが、これでいい。こうするしかない。もはや私には、アマリリスと共に歩む以外の道はない。
どんなに人々に見下されようと、恐れられようと、私の希望は変わらない。かつて愛した美しい人――多くの命を奪い、尊厳を踏みにじったあの馬鹿な男を止める力が欲しい。そして、その恐ろしい存在に唯一対抗できると信じられている聖女の隣に立つに相応しい力を。今すぐにでも、その一部が手に入る。破滅の臭いの強いその力が。
ウィータ教会の幹部の半数ほどが苦い表情を浮かべる中、シメオン司教は落ち着き払った表情へと戻り、私へと告げた。
「明日の朝、礼拝堂にて、我々の前で〈リヴァイアサンの鱗〉を口にして貰います。ひと晩だけ、時間は空きます。その間に、もう一度だけよく考えておくようにと、私からは述べておきましょう。仮に明日になってあなたの考えが変わってしまったとしても、誰も責めたりしませんよ」
気遣うようなその竜の血を感じさせる目が、私を真っすぐ見つめていた。
心変わりなどするだろうか。覚悟は決まっている。アマリリスが何と言おうと、そちらに従う気はない。私が私の立場で考え、決めることだ。
しかし、言葉だけは素直に受け取っておこう。今から明日までの短い時間。それが私の運命が自由奔放でいられる最後の時間となるかもしれないのだから。




