6.命懸けの撤退
サファイアの周囲にいた死霊たちが信じられない勢いで襲い掛かってきた。ウィルが竜人ならではの動きで迎え撃ち、切り捨てるも、新たな兵は次々に呼ばれてくる。もたもたしている場合ではなかった。
「ウィル!」
アマリリスの声に、ウィルは頷いた。
「二人とも先に戻ってください! 私は後ろを守ります!」
怒号に従って、私はアマリリスを促して聖マル礼拝堂を走り去った。
死霊の女王は決して甘くない。この場でアマリリスの命を奪おうと、次々に死者を呼び出した。〈リヴァイアサンの鱗〉を手に入れたとしても、この場はまだ呪われたままなのだ。奪われた巫女の魂も、聖獣の力も、すぐに戻ってくるわけではない。
それでも、気のせいだろうか。出口へと駆け抜ける私たちの行く手を阻む者は現れなかった。廊下は続き、やがてウィル以外の仲間たちと別れた辺りが見えてきた。
生きている。カルロスも、グロリアも、その他の仲間たちも一緒だ。こちらに向かおうとしていたところらしいが、戻って来る私たちを見て立ち止まった。
「ウィルの命令だ!」
私は叫んだ。
「撤退!」
その言葉に、カルロスとラヨシュが真っ先に反応した。それぞれ、狼の姿で私とは逆の方向へと駆け抜け、後方を守るウィルに加勢し始める。イポリータとラミエルも同じだった。グロリアたちは私たちと同じ方向へと逃れ、前方を守る。私はそんな彼らに囲まれながら、アマリリスに速度を合わせていた。
ざわざわとした空気が後方から感じられる。ウィルたちが必死に止めている中、次々に死霊は呼ばれてくる。偵察として忍ばせた三名の魔物戦士たちはどうなっただろう。ただの一人も礼拝堂では見かけなかった。
そんな恐ろしい事実が頭を過ぎり、不安になったその時、ようやく出口は見えてきた。だが、イムベル大聖堂の荘厳なる大扉は固く閉ざされたままで、その前にはすでに死霊たちがひしめき合っていた。
――囲まれている。
ベアトリスとエド、シャルル、ニコたちが覚悟を決めて死霊の群れへと飛び込んでいった。グロリアはその後ろで冷静に足を止め、襲い掛かって来る死霊を切り伏せながら、私たちの元へと下がってきた。
「アマリリスさん……」
彼女は懇願するように言った。
この数だ。戦士たちの力ではすぐには減らせない。その間に、先の四人が捕まれば、新たな兵にされてしまうだろう。
アマリリスが力を溜める。糸か、針か、あるいは鋏か。いずれにせよ、味方を巻き込まずに済むとは限らない。
「食べるのは、死者だけにして」
祈るように彼女は言って、その魔術を解き放った。現れたのは大量の蝗たちだ。死霊の群れに次々に襲い掛かり、その肉体を滅ぼそうとする。だが、アマリリスが懇願したように、この力を制御するのは中々難しいらしい。
術中の彼女は殆ど動けず、暴れる蝗たちを必死に睨みつけていた。少しでも気を抜けば、死霊たちの中で戦う仲間たちまで襲ってしまうのだろう。だが、集中の甲斐あって、この術は成功した。蝗たちは死霊たちだけを綺麗に食い荒らし、あっという間に数を減らしたのだ。
「……よかった」
しかし、ほっとしたのも束の間、またしても新たな死霊たちは呼び出された。
サファイアは何処にいるだろう。段々と近づいてきているのだろうか。気づけば、ウィルたちはすぐ傍まで来ていた。蝗の術により、少しだけは前進することも出来た。だが、相変わらず、扉は固く閉ざされ、その前には新しく呼び出された死霊たちが壁となっている。どうあってもここを通さないつもりらしい。
きりがない。だが、何もしないわけにはいかない。
根競べをするだけだ。しかし、この戦いで消耗するのは、我々の精神の方だけなのかもしれない。
消極的な予想が頭を過ぎった頃、突如、ウィルのすぐ傍に魔物が現れた。一瞬だけ警戒したが、姿を見てすぐに気が抜けた。
けろっとした表情でそこに居たのは、味方の吸血鬼戦士ペトルであった。次々に死霊は呼ばれ、逃げ道はない。そんな状況にもかかわらず、吸血鬼戦士のペトルは、のんびりとした様子でウィルに向かって頭を下げる。
胡散臭いのは吸血鬼――それも、マテリアルという不老種族特有のものだろうか。ともあれ、彼は仲間たちの苛立ちなどどこ吹く風といった様子で告げたのだった。
「皆様、もうしばしの辛抱です。ただいま、アラーニャとパピヨンが援軍を連れてまいります。船はもうすぐそこまで来ています」
話によれば、彼らは安全な影の中で我々の戦いを見届け、アマリリスが〈リヴァイアサンの鱗〉を手にした時点でウィータ教会まで引き返したらしい。シメオン司教の判断は早く、そして、準備も整っていた。万が一に備えて待機させておいた二軍は全て竜人戦士で構成され、その数も多いという。
その話を聞いて、ざわついたのは周囲にいた死霊たちの方だった。
次々に呼ばれてはいたが、無限であるわけではないはずだ。そう睨んだ通り、死霊たちは明らかに動揺している。そしてそれは、後方から少しずつ近づいてきているサファイアも同じだった。
「――どうせ間に合わないわ」
声が聞こえ、ウィルが真っ先に身構えた。
新たに呼ばれた死霊たちに守られながら、〈リヴァイアサンの鱗〉よりも青い目を光らせてこちらを睨みつけている。それ以上は近づいてこない。死を恐れる必要のない彼女であっても、あの肉体を壊されるわけにはいかないのだろう。
だが、近づけないのはこちらも同じだ。死霊たちが黙っているはずがない。彼女にたどり着く前に、食い殺されて終わりだろう。影に忍んで近づくなどという手も無駄だ。すぐ傍で飛び出したとしても、あの女ならば対処できるだろう。
今はアマリリスを――そして〈リヴァイアサンの鱗〉を無事に逃がすのが先決だ。耐えきれば応援は来る。まだまだ希望を捨てる時ではないのだ。
「皆、怯えては駄目よ。思い出しなさい。冥界での屈辱を。死者たちの悲しみを背負い、希望を背負い、あたし達は繁栄しなければならない。そして、一方的な正義に立ち向かわねばならないわ。思い出しなさい。死の苦しみを。生きている者たちへの羨望を。大地に見捨てられた哀れな魂たちの為にも、まずはその呪われた〈赤い花〉を手に入れましょう」
サファイアの言葉に、死霊たちの空気が少し変わった。
怯えているような者もまだいたが、大半はその命令に従って、我々へとにじり寄って来た。狙っているのは恐らく一人――アマリリスだけだ。〈リヴァイアサンの鱗〉を握り締め、アマリリスは怖がるわけでもなく、ただ悲しそうにサファイアを見つめていた。
私はその傍に寄り添いながら、死霊たちの接近をひたすら嫌った。勇猛果敢なベアトリスやエドたち三人が、今度こそ出口を確保しようと死霊たちを斬りつけている。その度に、私はアマリリスの身体を押して、扉へと近づかせた。
ウィルたちは相変わらず後方を守っている。ペトルも吸血鬼戦士としての力を駆使して、カルロスやラヨシュが対処できない遠方の相手を抑制していた。
こうして、ようやく我々は扉に触れることが出来た。怪力のベアトリスが力任せに小扉を引っ張ると、外の空気が流れ込んできた。その冷たさと新鮮さに身を震わせ感動したいところだったが、すぐに聖道に死霊たちが待ち構えているのが見え、私は慌ててアマリリスの前へ出た。
まだまだいる。まだまだ余裕があるのだろう。
それでも、時間次第だ。ペトルが嘘を言っていなければ、そして、海で何かが起こっていなければ、船はたどり着く。援軍は……そこまで来ている。
大聖堂の入り口から船着き場までは坂道だ。その向こうは青々とした海路で、対岸もよく見える。ペトルの報告は、勿論、出鱈目なんかではなかった。船はちゃんとこちらに向かっていた。ほぼ到着していると言っていい。
あと少しだ。
「そこを退け!」
ベアトリスが威勢よく聖道にいる死霊たちに切りかかる。エド、シャルル、ニコが続くと同時に、ラミエルが翼を広げて空高く飛びあがった。私はアマリリスと歩調を合わせながら、常に死霊たちの気配を探った。
前の仲間と距離が空けば、それだけ死霊に挟まれる可能性は高まる。しかし、扉が開けられて以降、死霊たちの士気は下がり続けているようだ。それでも、彼らを指揮する者は最後の最後まで諦めないだろう。
後方にいたイポリータに追いつかれ、背中を押される。
「急いで」
短くそう言われ、アマリリスが頷いた。
サファイアはまだ追ってきているのだ。ウィルたちが出来るだけ足止めしながら退却しているが、いつまでも甘えているわけにはいかない。
共に駆けだそうとしたその時、背後から声がかかった。
「アマリリス」
サファイアの声だった。恋人を呼ぶときのような、その声。喧騒の中だというのに、なぜかはっきりと聞こえてきた。人の血を継ぐ者には、それなりに力のある声なのかもしれない。私は不快のあまり、そして、アマリリスは気を取られたかのように、共に振り返ってしまった。
ウィルたちが死霊の群れと戦うその向こうから、サファイアはこちらを見つめていた。扉は開け放たれたまま、閉めようにも既に死霊たちが抑えてしまっているらしい。青い目をまともに見てしまい、アマリリスが立ち止まってしまう。
サファイアは優雅に目を細め、言った。
「いいわ、今回は諦めてあげる。でも、あたしの話を聞く気になったら、いつでもお呼びなさいな」
そして、あっさりとその姿を消してしまった。戦っていた死霊たちも、彼女に続いて消えていく。見逃されたのだろうか。だが、まだ油断は出来ない。茫然としているアマリリスの袖を引っ張り、私は船着き場へと急いだ。
どうやら、前を阻む死霊たちすらも消えたらしい。ラミエルが地上へと戻り、ベアトリスやエドたちが歩みを止め、私たちが追い付くのを待ち始めた。少しずつ、危険が去ったことを実感し始め、心が少しは軽くなった。
だが、その一方で、引っかかるものを感じた。
――あたしの話を聞く気になったら。
余裕のあるあの表情が、頭に焼き付いてしまった。
ゲネシスのように、アマリリスの心さえも捕らえられると信じているかのような顔だった。そして何より私が恐かったのが、当の聖女様が何を考えているのか全く分からないところだった。
私に引っ張られるたびに、その歩みは早くなっていく。ルーナの復活という餌がどれだけの誘惑となったのか、私には計り知れない。それは偽りだと自ら否定したが、それも秘宝に縋っての事だった。
アマリリスはきっと恋しがっているはずなのだ。愛した隷従の温もりを。人を信じすぎてしまう哀れな家畜の少女のことを。
「おおい、こっちだ!」
大声が響き、我に返った。
気づけば港はすぐそこだった。手を振っているのはアラーニャとパピヨンで、その後ろには若き竜人戦士たちがいる。暴れるつもりで来たらしい彼らは、死霊の消えたラケルタ島を前に拍子抜けしたようだが、こちらとしては着てもらえただけで助かった。
後で聞いたところによれば、彼らはクルクス聖戦士として認められる直前の訓練生ばかりであったらしい。それでも、サファイアが警戒した通りの実力はあるだろう。死霊たちは本来、戦士ではない。大地へ現れることを望むだけの存在であり、その一人一人は竜人戦士に敵うほどの者ではないのだから。
しかし、もしも何処かで歯車が狂っていれば、彼らが到着する前にアマリリスを失っていたかもしれない。帰りの船に全員無事で乗れるようなこともなかったかもしれない。船の上でひと息つけるのも、アマリリスに身を寄せられながら互いの無事に安堵できたのも、リリウム教会の者達にしてみれば、神のご加護というものなのだろう。
私のような異教徒にとっては、大地の守護とでもいうべきか。
いずれにせよ、私たちは無事に帰還した。〈リヴァイアサンの鱗〉はアマリリスの手に握られ、出撃した誰ひとりとして欠けることなくイムベルの町へと船は戻っていく。波に揺られながら、短い船旅の中で、私はアマリリスの匂いと温もりに浸った。花のような香りを感じながら、サファイアへの恐怖を思い出す。
ゲネシスを奪われてしまった絶望が、まだ胸にこびりついているのだろう。
「ねえ、カリス」
あと少しで船旅も終わるという時に、アマリリスが周囲に聞こえないほどの声でそっと囁いてきた。
「今夜はずっと、傍にいて」
哀願するようなその声は、聴いているだけで心が痛くなるものだった。




