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AMARYLLIS  作者: ねこじゃ・じぇねこ
2章 ウィル

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5.リヴァイアサンの鱗

 長い沈黙だった。

 私も、そして、アマリリスも、話すべき言葉を失ったまま目の前に立っている竜人戦士の男――ウィルの背中を見つめていた。彼の持つ大剣は、しばしの間、赤い雫をたらしていた。だが、やや時間が経つと思い出したかのように雫も、その下に生まれていた血溜りも、跡形もなく消えてしまった。


 ブエナの遺体は残らなかった。命の灯が消されてすぐに、ぼろぼろと崩れ落ち、風に攫われるように何処へともなく消え失せてしまったのだ。リヴァイアサンと一緒だ。そして、これまでに見た死霊たちと同じ。

 死霊の肉体と共に消えた魂は今度こそ冥界に渡っていくのだというのが先人たちの言い伝えだった。私の信仰してきた大地の教えでは、魂は清められ、再び何者かに宿るらしい。

 リリウム教の場合は、その後、魂の審判が下り、天国か地獄かへと振り分けられるそうだ。そして、人々の魂を悪用したソロルやフラーテルは神や天使の手を逃れ、冥界へと戻り、次なる宿主を求めて人の死を待つという。


 しかし、本当の事は誰にも分からない。ブエナが何処へ消えたのか、彼女を捕らえていたソロルはどうなったのか。はっきりとした答えを教えてくれる者は何処にもいないのだ。

 分かっていることはただ一つ。これでもう二度と、ブエナの姿、記憶を持った者には会えないということだけだった。


「昔の話です」


 ぽつりとウィルは語りだした。


「マルの里でブランカ様が無事に十歳になられたお祝いが行われた時のことでした。ブランカ様がお生まれになった頃から、私は相談役として、花嫁守りとして、我が母リヴァイアサンの代わりに片時も離れずお守りしておりました。そんな私を見つめながら育ってきたブエナが、人目を忍ぶようにそっと一輪の花を渡してくれたのです。白くて美しいクラベルの花でした」


 ――いついかなる時も、わたしの祈りがあなた様の力となりますように。


 少女は彼にそう言ったという。


「その頃の彼女はまだ幼く、そして私は大人だった。今までずっと、人間の少女が一時だけ抱く可愛い恋心にしか思っていませんでした。――けれど」


 言葉を詰まらせ、ウィルは項垂れる。

 勇ましい竜人戦士に憧れた少女の姿は何処にもいない。その愛も、未来も、全てが奪われた。深い悲しみで狂ったゲネシスが、そして彼を利用したサファイアが、全てを踏みにじってしまった。


「私は全てを守れず、失ってしまいました。もっと強ければ、もっと賢ければ、こんなことにはならなかったはずなのに……」


 喧騒は遠い。死霊たちの気配も感じない。

 それだけに、ウィルの深い悲しみが間近に感じられて辛かった。だが、そんな私たちを、ウィルは振り返った。その目は険しく、闘志に満ち溢れている。


「さあ、今こそ〈リヴァイアサンの鱗〉を」


 促されるままに、アマリリスは祠へと近づいた。リヴァイアサンの亡骸がぶつかったためか、その青い祠には傷がついている。それでも、依然として神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 一歩、また一歩とアマリリスが近づくと、応じるように祠の周囲で何かが青く輝いた。祠の欠片だ。とても不思議なことに、今だけは戦いの地にいることを忘れてしまうほど神聖な輝きだった。そして、アマリリスが指輪の嵌る手でその欠片に触れた瞬間、聖マル礼拝堂の天井から光が差し込んできた。


 白く、清らかな輝きだった。

 その聖光しょうこうに、リヴァイアサンの亡骸から生まれた青い光が反応を見せた。矢のようにまっすぐ白い光へと飛んでいくと、そのまま合わさって、礼拝堂全体を澄んだ青の光で包み込み始めた。

 その眩さに一瞬だけ目を奪われている隙に、光は竜の形を取っていた。腐臭をまき散らす穢れた暴竜などではない。目を見張るほど美しく、慈愛に満ち溢れた目をした知的な聖竜だった。


「リヴァイアサン」


 アマリリスが指輪の嵌った手を掲げると、聖竜は歌いだした。よく見ると、アマリリスの手には何かが握られている。美しい声で、明るい声で、先程までとは大きく違う音を奏で始める。祠に触れたアマリリスを祝福するように、優しい眼差しを向けていた。

 そして、私たちには分からない竜の言葉で、リヴァイアサンはアマリリスに語り掛けた。その言葉は、ウィルには聞き取れているのだろうか。その表情からは読み取れなかった。アマリリスはどうだろう。じっと聖竜の目を見つめ、その言葉に耳を傾けている。そして、かつての女神が何かを言い終えると、首をもたげてアマリリスの指先へと触れた。何かを握っているその手へと。


 リヴァイアサンが切なげに鳴いた。その声を最後に、美しい姿は雫となって消えていった。

 残されたのは余韻。そして、アマリリスの指に残る輝きだけとなっていた。アマリリスは恐る恐るその手を見つめる。握られているものもまた青く輝いている。まるで蒼玉サファイアのようだった。


「これが……〈リヴァイアサンの鱗〉」


 神々しい秘宝に見惚れ、そして胸に抱きしめる。

 奪われた聖獣の力を抑制する鍵となるかもしれないものだ。手に入った。無事に回収できた。あとは帰るだけ――だったのだが。


「全く、煩わしい」


 その声が響いた瞬間、礼拝堂の冷気がぐっと増した。


「他者の心というものはどうしてこうも簡単に手に入らないのかしら」


 声だけで殺意は芽生えるものなのだろうか。聞き間違えるはずもない。愛する者を化け物に変えてしまったその女の声に、全身の毛が逆立った。


 ――サファイア。


 かのソロルはいつの間にかアマリリスのすぐ目の前にいた。いつからそこにいたのだろう。祠の影から現れると、宝石のように青い目でアマリリスだけをじっと見つめていた。

 死霊の女王。そう呼ばれるだけの威圧感が彼女にはある。それは、先程まで数多の死霊たちと戦ってきたからこそ際立つものだった。


 ――まずい。


 そう思ったのは、私だけではなかったらしい。私とほぼ同時にウィルも身構えた。だが、それよりも早くサファイアは動いた。アマリリスの身体へと腕を伸ばし、その肩を無理やり掴んだのだ。


「動かないで」


 その冷徹な声に、私もウィルも従うほかなかった。

 アマリリスはただ茫然と、サファイアを見つめている。恐怖を感じているのか、そうでないのかさえ判別がつかない。ただ、手に握った〈リヴァイアサンの鱗〉だけはしっかりと握っていた。

 サファイアはアマリリスだけを見つめ、優しい声で訊ねた。


「その秘宝を使って、愛しいあの人を止めるつもり?」


 アマリリスは何も答えない。だが、サファイアは声をかけるのを止めなかった。


「止めてどうするつもりなの? この世界にはもうあなたの愛するルーナはいないのよ」


 その言葉に、アマリリスが俯きだす。暗い表情は見なくても分かった。彼女はまだ立ち直れていない。いや、ひょっとすれば、永遠にこの苦しみを背負い続けるのかもしれない。

 サファイアにもそれは分かっているのだろう。手応えを感じた様子で彼女は畳みかけた。


「アマリリス。良い事を教えてあげましょう。全ての巫女を捕らえ、聖獣たちの力さえも集わせた今のあたしならば、人の血を引いていない者すら生き返らせることができるの。あなたの大好きなルーナを、再びこの地へ呼び戻してあげられる。あたしにだけ出来る奇跡の技よ」

「――ルーナを……呼び戻す?」


 ふとアマリリスが訊ね返した。

 いけない。動揺している。


「ええ、あなたが私を心の底から支持してくれれば、そして、あたしに逆らわないと誓ってくれれば、あたしは生と死の力をあなたの為に使いましょう。〈赤い花〉であろうと特別に咲かせてあげる。私の抱える籠の中に留まってくれるのなら。ねえ、アマリリス、いい子だから、あたしを煩わせないで」


 サファイアの手がアマリリスの右手へと迫る。

 指輪が嵌り、〈リヴァイアサンの鱗〉の握られたその手へと。それ以上、黙って見ているわけにはいかなかった。


 私は怖かった。リリウム教会の者達にとって、アマリリスは駒の一つに過ぎないかもしれない。〈赤い花〉は希少だが、ただ一輪しか存在しないわけではない。探せば何処かにいるはずなのだ。つまり、アマリリスが駄目でも、聖女の変わりは何処かにいるかもしれないのだ。しかし、私にとっては違う。ここで彼女を失うという可能性が、あまりにも怖かった。

 一体なぜだろう。かつての彼女は仇でもあったのに。ルーカスを殺し、エリーゼを殺し、彼女は生き永らえてきた。私だってその狂気の餌食になりそうだったのだ。それなのに、私の心の根底に、無視できない使命感じみたものが宿っていたのだ。


 ――彼女を守らないと。


 拙いイリス語で話していた幼い頃の私が、必死に毛を逆立てて吠えている。どうしてだろう。こんなことが前にもあったような気がするのだ。


「やめろ……」


 しばしの間、保護者であったアネモネの帰りを待つ間、幼い私はあらゆる外敵に怯えながら、必死にある者を守ろうとしていたのだ。


「汚らわしい手でその女に触れるな!」


 そこに死の恐怖など何処にもなかった。

 取り返すことだけを考えて、私はサファイアを襲った。悪しき狼が、人間を食い殺すかのように。サファイアの表情に一瞬だけ変化が訪れた。これまでの死霊の女王としての表情では決してない。まるでごく普通の小娘のように、サファイアは私に恐れを見せたのだ。


 ――まるで、本物のサファイアのように。


 小さく呻き、サファイアが身を逸らした。その隙に、アマリリスが拘束を解いて前へ逃れた。サファイアが我に返り、彼女を捕まえようとする。だが、許すはずがない。太い前脚で取り押さえ、その細腕を噛み千切ろうと牙を剥いた。

 その頃にはサファイアもいつもの様子を取り戻していた。アマリリスを逃したことに苛立ち、目の前の私を確実に仕留めようと殺意を向けてくる。


「カリス、戻ってきて!」


 アマリリスの声が聞こえ、私はサファイアの攻撃を避けた。

 睨みを利かせながら身構え、そして、改めて先程のことを頭に刻んだ。襲い掛かった瞬間のあの表情。珍しくも純粋な自身の暴力への恐怖に思えた。

 思い出すのはサファイアという女の死に様だ。ゲネシスが私を拒んだ日の事は忘れたくとも忘れられない。愛する妻は人狼に食い殺された。つまり、サファイアが最期に見たのは、食欲に狂う人狼の姿だったわけだ。


 死霊というものは、死者の魂を依り代にこの世へと這い出してくる。

 生前に付き合いのあった人々の前に現れ、彼らへの執着を見せるわけだ。それらは間違いなく死者の記憶によるものであり、遺族にとってみれば苦しいまでに死霊たちは亡者を演じることが出来るのだ。

 時が経つにつれ、死霊たちは己の持つ魂を元に生前の彼らそのものを目指すようになっていくという。長く存在しすぎた死霊は、生前親しかったものであっても見抜くことが難しく、それだけに危険なのだとか。


 だが、その能力が彼らにもたらすのは利点だけではないとしたら。たとえば、負の記憶や心の傷までも死霊たちが受け継ぐようになるとすれば。

 死霊の情報は、大半は胡散臭いコックローチによるものだ。それ以外は今はただの推定に過ぎない。それでも、サファイアが一瞬だけ見せた私――人狼への恐怖は、見落とすわけにいかなかった。

 ほんの一瞬だけだった。今のサファイアは涼しげな表情でこちらを見据えている。まるで常にあちらが有利であるかのように。だが、それはどうだろう。サファイアはアマリリスを見つめている。アマリリスの持つ〈リヴァイアサンの鱗〉を欲している。よく見れば、そこには怯えがないだろうか。


「いいの?」


 青い目が聖女に問いかける。


「あたしの誘いを断ったりして。ルーナに会いたくないの? 会わせてあげられるのは、この世であたしだけなのよ?」


 ウィルの眼差しがさり気なくアマリリスへと向いた。監視しているように見えるのは私だけだろうか。真意はともあれ、ウィルはこの状況を黙視していた。その視線など全く気にする様子もなく、アマリリスはサファイアを見つめている。いや、気にしていないのではない。気にする余裕がないのだ。


 迷いは当然あるのだろう。この誘惑はそれだけ彼女にとって縋りたくなるほどのものであるはずだ。死霊の呼びかけを偽りだと切って捨てるのは簡単そうでいて、そうではない。実際に死んだ人間が目の前に現れ、懐かしい言葉を囁く様を目の当たりにしてしまえば――それで戸惑う人々の表情を見てしまえば分かることだ。

 悪魔の奇術か神の奇跡か。大切な人を失って深く傷つく者の耳には、他人の言葉など入らないだろう。後は当人の問題だ。死霊に呼びかけにどう答えるのか。どのような態度を見せるのか。


「アマリリス」


 サファイアは呼びかける。


「素直に認めなさい。あたしの助けが欲しいのでしょう? ただの死霊たちは勿論、嘘偽りだらけの教会や、その汚らわしい雌狼では逆立ちしても出来ないようなことが、今のあたしには出来るのよ」


 その声に、アマリリスは反応を見せた。〈リヴァイアサンの鱗〉を握り締めた手を胸元へと寄せると、そのままぐっと身を屈めて答えたのだ。


「いいえ」


 青い視線が急に冷えたものに変わる。その一言で、偉大なる死霊の女王の機嫌は大きく損なわれただろう。

 それでも、アマリリスは退かなかった。


「あなたの助けはいらない」


 震えてはいる。怯えてはいる。迷いも消えてはいないのだろう。〈リヴァイアサンの鱗〉に縋りながら、必死に心を保っていた。


「あらゆる死を導き、偉大な者たちまで手にしたあなたには、本当に魔物を呼び戻す力があるかもしれないわ。でも、冥界から呼び戻されたルーナは、もはや私の知るルーナじゃない。あの子は死んだの。あなたの導きで命を奪われた。もう戻ってこない。戻ってきたとしても、それは……ルーナじゃない」


 自分に言い聞かせるように、アマリリスは言った。


 死霊としてこの世に現れた亡者たちは、どんなに似ていても、記憶を有していても、本人ではない。魂はそこにあるかもしれない。しかし、肉体は滅んでいるはずなのだ。死霊たちの器にされ、混沌の中で苦しんでいるに過ぎない。

 それが、大地の教えであり、リリウムの教えともそう変わらなかった。ウィルたちの信じるリリウムの神も、私やアマリリスの信じる数多の精霊たちも、亡者への警戒を説いていた。

 死霊がどんな事を言おうとも、信じてはいけない。信じたところで訪れるのは破滅だけだ。アマリリスだって分かっている。それに、ゲネシスだって、その教えを忘れたわけではなかっただろう。


 ――しかし、もしもその教えが間違っていたら?


 アマリリスは必死に拒絶した。見てはいけない、考えてはいけない可能性から必死に目を逸らし、そして、震えながら口にした。


「私は死霊になったあの子を見たくない……人を襲って食べようとするあの子を見たくない。あの子が愛した世界をその手で壊させるなんてしたくない。これ以上、あの子を苦しめたくないの……」


 拒否の姿勢だけは、はっきりとしていた。それだけに、サファイアの目の色はさらに冷たいものとなっていた。

 異変を感じたウィルがそっと身構え、私たちの前へと出た。直後、サファイアの周囲に死霊たちが呼び出された。

 サファイアは冷たい表情で、しかし、優雅に、アマリリスを見つめた。


「残念だわ。分かってもらえなくて」


 そして、ほんの小さな声で呟いた。


「後悔なさい」


 それが合図だった。

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