4.操られた古竜
聖マル礼拝堂の扉まで、私たちの歩みは止められることもなかった。あれほどまでに死霊たちが群がっていたのが嘘のように、また、背後からは今も剣戟の響きが聞こえてくるのが信じられないように、私とアマリリスを阻む者がいなかった為だ。
アマリリスは取り憑かれたように進んでいたし、私は周囲を警戒するので精一杯だった。結果的に誰も来なかったことに気づき、私はますます不安を感じた。おかしい。まるで誘い込まれているかのようだ。
血に穢れた床を踏みしめ、アマリリスは礼拝堂の扉を見つめていた。扉は堅く閉ざされ、中がどうなっているかはすぐには分からない。
開けた先に待っているものは何なのか。妙な緊張に見舞われた。
ここで、この中で、アマリリスは一度心を失った。いや、ひょっとしたら今も失ったままなのかもしれない。自分の命よりも大事な存在――ルーナを奪われたのだから。
アマリリスが恐る恐る手をかけて、扉を開けた。その途端、鼻が曲がりそうな悪臭が私たちを出迎えた。両脇を流れる水の音の響きは、悪臭が混ざっているせいで忌むべきものかのように思えた。聖壇も、椅子や机も、必要以上に荒らされ、乾いた血の跡がいくつも残っている。流れてくる水は綺麗なままだが、溜まっている水質はきっと濁り切っているだろう。だが、注目すべき点はそこではない。
礼拝堂の中心――聖壇を突き飛ばす形で、倒れ伏したまま放置されているものがいる。どう見ても竜の骸だ。壁画や彫刻などで表される竜の姿によく似ていた。だが、その体は口が裂けても神聖とは言えない。鱗は剥がれ、ところどころ骨まで見えている。明らかに悪臭の根源はこの骸だった。
リヴァイアサン。ゲネシスに殺されたかつての女神の亡骸が、その尊厳を踏みにじられたまま横たわっていた。呆気なく殺され、力を奪われたその骸は、ここが陥落したあの時と変わらず当然ながらぴくりとも動かない。それでも、近くを通るのは私でも勇気がいった。ただ、アマリリスは違った。
足音も立てずに礼拝堂へと入り込むと、彼女は真っすぐ祠――ではなく、リヴァイアサンの骸の元へと向かっていったのだ。
「呼んでいたのは、リヴァイアサン。あなたね」
そう言って彼女が近づこうとすると、突如、礼拝堂の空気が淀んだ。海を生きる鯨たちの歌のような音が響き渡る。その音に反応するかのように、礼拝堂の奥にある祠が光り輝いた。
この地にリリウムが入り込むより前から、かの祠はあったという。かつては女神だった竜の宿るという場所。あの場所に〈リヴァイアサンの鱗〉が隠されているはずなのだ。
目と鼻の先だ。それなのに、今に限っては恐ろしく遠く感じた。秘宝の気配を感じ取って尚、私もアマリリスも近づけやしなかった。なぜなら、行く手を阻もうとする者がいたからだ。
これをなんと呼べばいいだろう。
リヴァイアサンは死んだのだ。長く聖竜と称えられた偉大なる海の母は、自分の愛した獣の子に対してあまりにも甘かった。では、こいつはどうだろう。私たちの行く手を阻む、何と呼ぶべきかさえも分からない腐ったこの竜は。
光を宿さない目であっても、私たちの姿は見えるらしい。死によって神でも聖者でもなくなった化け物は、どうやら秘宝を求めてやってきた私たちを拒むようだ。
「……何故だ」
私は竜の骸に向かって嘆いた。
「私たちは盗賊じゃない。あなたを救うためにここに来たのだ。奪われたあなたの力とその尊厳を取り戻し、大罪人に復讐を果たそう。その為に、あなたの秘宝が必要なのだ。それなのに何故、怒っているのだ」
「怒っているのではないわ」
アマリリスが冷静に私を咎めた。
「深い悲しみと呪詛に苦しんでいるだけなの。聞こえるでしょう、カリス。彼女は言っている。彼女は復讐を望んでいるわけじゃない。ただ愛するひとを返して欲しいだけ。安らぎの日々を、聖竜として静かに過ごせる日々を、返して欲しいだけ。……今の状態のまま、分かってもらうことは出来ないでしょうね」
そして、アマリリスはリヴァイアサンの骸に向かって手をかざした。
戦う気なのだ。聖なるものと。これまでずっと尊ぶべきものだと教えられてきたから、私はかなり戸惑った。骸であっても神は神なのだ。リリウムが聖獣と呼ぼうと、私にとっては神だ。人に倒され、虐げられ、腐りかけてはいるけれど、それでも大地に繁栄する全ての獣の守護者であったはずの存在だ。
リヴァイアサンの骸が鳴いた。何かを訴えかけているが、私には分からない。アマリリスには分かるのだろうか。じっとその濁った眼を見つめると、ほんの一滴だけ慈愛を含ませたような笑みを見せたのだった。
「分かったわ。あなたのお望みのままに」
そして、アマリリスの視線が脇へと逸れた。それは、礼拝堂の右奥にさり気なくある扉の付近だった。かつて、あの場所からゲネシスを追いかけた。その先でニフテリザたちを助け、海巫女を失ったのだ。
そんな陥落へと至った扉の前に、いつの間にか一人の人間が現れていた。いや、人間と呼ぶよりも魔族と呼んだ方がいいだろう。低級精霊の血を引いた女は、亡者となっても美しいままだ。
ブエナ。彼女の事は覚えている。影の中からそっと窺った先では、ブランカの良き友人としての姿ばかりが目に焼き付いていた。しかし、今は違う。そこにいるのは死霊なのだ。
「アマリリスさん、お久しぶりです」
まるで生前のブエナのままのようだが、その魂はソロルに侵食されている。
「こうしてまたお会いできるとは思いませんでした。ルーナさんを失った悲しみが、あなたの魂を枯らしてしまったのだと聞いておりましたから」
「……ブエナ。あなたまで囚われたのね」
アマリリスは優しくそう言った。ブエナもまたにこりと笑う。ゲネシスの剣に無残にも割られた額は何事もなかったように綺麗である。あの出来事が嘘であったかのように、ブエナはそこにいた。
「死霊、なのでしょうか。実はよく分からないのです。わたしは確かに死んだはずなのに、気づいたらこの場所を彷徨っていました。ねえ、アマリリスさん、ゾロとゾラはどうなったの? わたしの事も滅ぼすおつもりですか?」
ああ、同じだ。ここの死霊たちは、かつての仲間たちは、今まで思っていた死霊たちと何かが違う。まるで本当に死者が蘇ったかのようなことを口走るのだ。そんなはずはないと分かっているはずなのに、その心を揺さぶってこようとする。恐ろしい。全く恐ろしい。もしかしたら、という疑問や期待を植え付けようとするのだから。
それでも、アマリリスは落ち着いた声でブエナに訊ね返した。
「あなたは誰の命令でここに居るの? どうして私たちの前に現れたの? リヴァイアサンの骸を前に、あなたは何を思っているの?」
「――答えられません」
ブエナは虚ろな表情でそう言った。
「ただ、これだけは、はっきりとさせましょう。あなた方をここで止めます。祠には近づかせません。場合によっては、あなた方の命さえも――」
――来る。
そう思った瞬間、ブエナの周囲で風が生まれた。生前はあまり見せなかったその能力も、死霊となった今は存分に使えるらしい。躊躇いもなく、彼女は自分の人間ではない血の力を発揮した。かつてはそれで苦しんでいただろうに。そんな話も影から聞いた覚えがある。しかし死んでしまった今――ソロルとなった今は、関係のない事なのかもしれない。
こうなれば、風の魔術は非常に怖い。ともすれば、アマリリスの蜘蛛の糸よりも恐ろしい。動きの鈍い彼女の袖を加え、その攻撃を避けた。ブエナの魔術は正確だった。近くで蠢くリヴァイアサンには傷一つ与えず、アマリリスと私だけを狙っていたらしい。
当たれば八つ裂きにされるだろう。冷気を感じながら、私は警戒した。
私たちが逃れた隙に、ブエナはリヴァイアサンへと駆け寄っていた。いまだ混乱している様子のリヴァイアサンに触れると、口早に何かを唱える。アルカ語ではない。古イリス語だ。あまりにも古語的でよく分かりはしないが、呪文めいた言葉を口走っている。
「何をする気だ……」
戸惑う私の横で、アマリリスは冷静にそれを見届けた。
ブエナが何かを唱え終えると、リヴァイアサンの声色が変わった。腐臭をまき散らしながら、濁った眼でこちらを見つめている。混濁していた意識がはっきりしたらしい。無論、私たちには都合の悪い形で。
アマリリスがすっと一歩踏み出した。
「そう」
納得したように、アマリリスはリヴァイアサンへと呟いた。
「今のあなたは死霊の女王に縛られているのね。愛するひとを奪われた上に、操られるなんて可哀想に」
恍惚とした声掛けにも、リヴァイアサンは応じない。先程までとは打って変わって、明確な敵意を私とアマリリスに向けていた。私はすぐさまアマリリスの前へと出で、その行く手を阻みつつ、ふたりの死者を威嚇した。
「戦うしかないのか」
当てもない問いに、ブエナが微笑みを見せる。
「あなた方がお帰りにならないのなら、仕方がありません」
「そうか。ならば覚悟しろ!」
飛び出す私の動きに、リヴァイアサンが反応する。やや遅れてブエナも風を呼び出した。敵は二体。ただの死霊ではない。滅びかけてはいるが暴れ竜と化した元聖竜に、人を傷つけることを躊躇わない風の魔術使い。少数であっても油断ならぬ相手を前に、心の隙すらも見せられない。
だが、焦る私を余所に、アマリリスは涼しげな顔でリヴァイアサンを見上げていた。ブエナの魔術に怯えていないらしい。リヴァイアサンの注意を惹きつけつつ、私はブエナを襲った。彼女の風がアマリリスに向かないように。それでも、リヴァイアサンの攻撃を躱しながらというのはだいぶ無理があった。
腐っていようとその堅い鱗は爪も牙も通らない。
勝てる要素はあるのか。不安が影を覗かせ始めた。そんな時だった。
「カリス、伏せて」
命令染みた声だが、何故だか逆らえない。奇妙な威圧を感じながらとっさに従ったその直後、アマリリスの魔術で呼び出された針がリヴァイアサンの額を貫いた。
大きな悲鳴をあげながら、リヴァイアサンが暴れまわる。どうやらたった一撃で、相当な打撃を与えたらしい。その状況にもっとも困惑したのは、ブエナだった。
――今だ。
アマリリスの元へは戻らず、私は飛び出した。ブエナが暴れるリヴァイアサンに気をとられているその隙をついて、風そのものになったかのように飛び込んでいった。狙うはその白い喉笛。すでに朽ちたはずのその体は、死んでいないかのように綺麗ではある。仮にも海巫女の血縁で、幼馴染で、親しい友人でもあった彼女に牙を剥くなんて我ながら信じられないことだが、躊躇いは捨てなくてはならないのだ。
ブエナが私の動きに気づき、すぐさま対応しようとする。旋風が私の身体を切り刻もうと襲い掛かるが、先に動いていた私にとって容易く避けられるものに過ぎなかった。いよいよ、ブエナの表情が変わる。はっきりとした私の敵意に感じたのだろう。人狼に襲われる恐怖というものを。
しかし、ブエナの身体に牙が剥くより先に、衝撃が私の脚を鈍らせた。怒声と悲鳴、そして轟音が礼拝堂を揺らし、私のすぐ傍で破裂音がした。遅れて広がるのは悪臭。強烈な腐肉の臭いが背後から襲い掛かってきた。その全てを耐えたためか、ブエナの命を奪うことは出来なかった。代わりにその体を前脚で押し倒し、床に押さえつける形となった。
背後で何が起こったのかは、音と、臭いと、そしてブエナの表情で分かった。悪臭は消えそうにないが、急に静かになったのだ。ブエナを抑えたまま振り返った先に立っているのはただ一人。赤い礼服に身を包んだ聖女は、悲しげな表情を浮かべていた。
「そんな……リヴァイアサンが……」
ブエナは嘆きながら、床を見つめる。祠の周囲に散乱していたのは鱗と、そして腐肉だ。それらをバラバラにしたのは糸だろうか。角は落とされ、手足は切断され、尾も胴から切り離されている。聖竜であった過去など嘘のように、昔話に出てくる勇者に退治される邪竜のように、リヴァイアサンは無残な姿になってアマリリスを見つめていた。
アマリリスはじっとリヴァイアサンを見つめている。その目は哀れみに満ちているが、警戒は解いていない。ここで全てが終わったと思ったのは、私とブエナだけだった。
そうではないと主張するように、リヴァイアサンは尚も身を起こした。手足も、尾も、失った状態で、首をもたげる姿はまるで蛇の怪物のよう。どんなに刻まれても、動ける限り、アマリリスを狙うらしい。たとえ、我々がこの場を諦めて去るとしても、聖女だけは食い殺すつもりなのだろう。そういう呪文だったのだ。
今のリヴァイアサンは神聖さを失っていた。美しく、尊い竜ではない。優しく獣たちの――人々の営みを見守ってきた海の母でもない。今の彼女は、全ての生き物を震え上がらせるほど穢れた存在になり果てている。
しかし、アマリリスは恐れていなかった。指輪の嵌る手をそっと掲げ、憐れむような表情で、リヴァイアサンに向かっていった。
「その体がまだ動く限り、サファイアはあなたの悔恨すらも利用するのでしょうね。だから、私は唱えます。あなた方に安らかな眠りを。その為の誓いと祈りをこの魔術に乗せて」
歌うように、祈るように、アマリリスは呟いた。
「鍬形虫の鋏の魔術――《断罪》」
指輪が輝き、魔術はすぐに発動した。いつもの蜘蛛の糸ではない。もっとはっきりと、くっきりと、その武器は現れた。大きな鋏だ。決して鍬形虫の顎などではなく、鋼鉄の鋏に見えた。
蛇と化したリヴァイアサンの首元で狙いを定めると、その後は速やかに事が運んだ。苦しんでいる様子はさほど感じられなかった。それでも、巨大な竜の頭が地面に落ちる様は異様だった。
ブエナの身体を抑えつけたまま、私は茫然とその光景を見届けた。竜の首が転がり落ちると、間を置かずにその体が溶けだした。まるで水底に沈むように、切り落とされた体が泡となって消えていく。あれほどの腐臭も潮の匂いに呑まれ、まるで幻であったかのように痕跡がなくなっていった。
やがて、リヴァイアサンの亡骸は殆ど消えてなくなった。残されたのは光だけ。青白い光が、亡骸のあった辺りに集っていた。
これで一つ祠に近づけた。ほっとしたのも束の間、急にブエナが激しく抵抗を始めた。慌てて抑え込もうとしたが、風の力に負けて逃してしまった。しかし、この場で何が出来るというのだろう。ブエナは後退し、祠の前に立ちふさがろうとしている。その目は、私たちへの恐怖に満ちていた。
アマリリスがブエナを見つめる。
「ブエナ」
その優しい声が、かえってブエナを怖がらせていた。
「嫌よ。絶対に嫌。また死ぬのは嫌なの」
泣き出しそうな声で彼女は訴える。
「アマリリスさん、信じて。わたしはブエナよ。何度も一緒に話したでしょう? 忘れてしまったのですか?」
「――いいえ」
その様子にアマリリスが少しだけ反応を見せた。
「よく覚えているわ。あなたの葬儀の事も、その時の――ウィルの表情も」
リヴァイアサンを殺したばかりの彼女は、やはりぼんやりとしている。何を思っているのか、その心は覗けない。ただじっと濃褐色の両目でブエナを見つめていた。
親しく話したこともある相手だ。躊躇いがあってもおかしくはない。ただ、そうだとすれば、私の出番だ。人間と心を通わせておいて、何度も殺したことがある私にならやれる。
相手は死霊なのだ。ここで殺さねば、殺されるだけだ。
狼の姿で私はブエナに迫っていった。精霊の血を引く美しい目が、ギョッとした様子で私を見つめた。まるで、悪しき人狼に殺される前の凡人のように、彼女は私を恐れていた。
このような顔を、これまで私は何度も見てきたのだ。生きるためにと言い訳をして、数多の人々の信頼を裏切り、命を奪っていった。人狼という種族をこのように産んだ世界が悪いのだ、食える肉を用意しない世間が悪いのだと嘆いて、略奪を繰り返してきた。
――殺した以上に救えばいい。
あの言葉が蘇る。今、私は何をしようとしている。この殺戮は、本当に人々を救うものとなるのだろうか。あらゆる考えが頭を過ぎる中、私はブエナへとにじり寄った。
そんな時だった。
水の音ばかりが響く聖マル礼拝堂へ駆け込む者が現れた。敵か味方か。とっさに私は振り返り、そして内心ほっとした。駆け込んだのは一人だけ。特別な礼装に聖大剣を携える竜人戦士。間違いなくウィルであった。
ウィルはまっすぐ私たちと、今も聖壇の近くで留まり続ける青白い光へと目をやると、最後に祠へと逃れようとするブエナへと視線を向けた。その目に宿るものは憐れみが強い。それでも、構えた剣を収めるようなことはなかった。
「ウィル様」
真っ先にブエナが口を開いた。
「わたしです。ブエナです。再びここへ戻ってきてしまいました。けれど、信じてください。わたしは本当に、ブエナなのです!」
悲痛な叫びを聞いて、ウィルの表情が濁る。
私よりも、そしてアマリリスよりも、彼の方がブエナをよく知っていたはずだ。そんな二人にどんな過去があり、どんな経歴があり、その別れにどんな意味があったのか、想像することも出来ない。
今の私に分かることは、彼が純粋に悲しんでいることだった。そして、もう一つ。思い出による柵は、今や死霊となってしまったブエナの命を救うものではないということ。
ウィルは剣を下ろさなかった。
「ブエナ」
その名を呼ぶ声は、とても甘い。
「――ウィル様」
救いを求めるようにブエナは震えている。これがもしもサファイアだったならば、恐怖を感じているふりをしているのだと私には思えただろう。だが、少なくともブエナは本当に怖がっているように見えた。
絶望の色をその目に浮かべ、ブエナは言った。
「あなたを……」
真珠のような涙が零れ落ちていく。
「あなたをお慕いしていましたのに」
その言葉が彼女の最期となった。




